2014.7.27

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「人の思いと神の思い」

松本 敏之

箴言19章21節マタイによる福音書20章20〜28節

(1)ヤコブとヨハネが召された時

 牧師になることを一般的に献身するという言い方をすることがあります。牧師という仕事は召命感をもってする仕事であると言われます。事実、そのとおりであると思いますが、今日は、与えられたテキストを通して、改めて献身するとはどういうことなのか、主に従っていくとはどういうことなのか、牧師になるとはどういうことなのか、ということを考えてみたいと思います。それはひいては牧師ではない信徒の方々にとっても意味のあることでしょう。今日のテキストは、このようにはじまります。

 「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」(20節)。「ゼベダイの息子たち」というのは、ヤコブとヨハネのことです。この二人の兄弟は、もと漁師であり、ペトロとアンデレに続いて、弟子として召されたのでした。それは招詞で読んでいただいた箇所に、次のような言葉がありました。

 「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」(マタイ4:21〜22)。

 この時のヤコブとヨハネはどういう思いだったでしょうか。もしかすると、近所の漁師仲間であるシモンとアンデレ兄弟が従ったのを見て、「自分たちもこの人に賭けてみよう」ということがあったかもしれません。どうしてそう決断したか(できたか)は、何も記されていません。私は、そこには、「漁師をやっているよりもこの方について行ったほうがよさそうだ」という彼らなりの何らかの思惑があったのではないかと思います。イエス・キリストに従うことを自己実現の一つのステップとして、捉えている。それは、「よし、この方に従っていこう」という純粋な思いを否定するのではありません。その後も「私は自分のためにイエス様に従っているのではないだろうか」という思いが頭をもたげては、「いやそんなことはない」と打ち消すということの繰り返しであったのではないでしょうか。

 そのことが、イエス・キリストと過ごす最後の最後の瞬間においても出てくるのです。彼らがここで何を求めていたかが明らかになります。それは彼ら自身の栄光でありました。マタイ福音書では、それが母親の口を通して出てきます。

 

(2)一人は右に、もう一人は左に

 この「ゼベダイの息子たちの母」というのは、かなり熱心な人であったようです。

「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」(20節)。

 何か言いたいのだけれども恥ずかしくて言えない、という感じです。それを察して、主イエスの方から声をかけられます。「何が望みか」。そこで彼女は、ようやく口を開きます。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。

 このお母さん、気の毒に名前は出てこないのですが、息子の出世のためにはなりふり構わず、何でもするという感じです。現代でもこういう人はいますね。息子の方がお母さんに圧倒されて、たじたじという感じです。彼女は夫と過ごすよりも、息子(とイエス様)についてガリラヤを出てきた人です。(4章22節によれば、二人の息子は「舟と父親を残して」いくのですが、「母親を残して」とは書いていません。母親は息子についてきたのでしょう。)

 「自分の息子は、確かにイエス・キリストの弟子の中のトップ争いには加わっている(マタイ17・126・37等参照)。でもトップではない。トップはペトロ。最後には、ペトロを追い抜き、一位と二位になって、イエス様の両側にいられるように。」そうした思いでしょう。

 しかし、その後のやり取りで、それは母親だけではなく、ヤコブとヨハネ自身の望みであったことが明らかになります。二人が自分のほうから言い出せなかった心の奥底の願いを、代わりに母親が口にしたのでした。

 

(3)人間的な思いを持ったまま

 私たちは何らかの仕事を始める時に、普通は、神様に召されるということは考えないでしょうから、それを自己実現の場と捉えることが多いと思います。それを通して、出世を企てることもあるでしょう。出世は考えなくても、その仕事を通して、自分のやりたいことをやる。自分のやりたいことをやって食べていければ、たとえそんなに儲からなくても幸せな人生を送ることができる。そう考える人も多いのではないでしょうか。それは決して間違っていることではありません。

 牧師という仕事の場合は、どうでしょうか。実は、牧師にもそういう面がないわけではありません。私などは、まさに誰よりもやりたいことを自分でやっているという感じがします。こんなに面白い、やりがいのある仕事はありません。大事な神様の言葉を取り次ぎ、その人にイエス・キリストを紹介し、イエス・キリストと出会ってくれること、イエス・キリストに従っていく決心に立ち会い、それを共に喜ぶ。人の悲しみの場にも立ち会い、その人のために励まし、慰める。その人のために執り成しの祈りをする。いや自分の力や言葉でそれをするというのではなく、そこに真の慰め主であるイエス・キリストが共におられることを伝え、その方自身がまことの執り成し手であることを伝えるのです。

 しかも学校の教師と違い、すべての世代と付き合えます。赤ちゃんからお年寄りまで。いや生まれる前から亡くなった後の葬儀や記念会まで、まさに人生のあらゆるステージにある人とかかわるのです。それは確かにやりがいのある仕事です。自己実現しているという自覚はなくても、結果的に自己実現の場となっている。

 しかし牧師という仕事は、そのように単純に自己実現の場として考えることはできませんし、そういう思いはどこかで打ち砕かれるものです。しかしまたいつしか、そのようになってしまっている自分に気づきます。ずっとその間を行ったり来たりしている。その繰り返しです。私も駆け出しの頃は、そんな人間的な思いがあることは、牧師にあるまじきことだと思って隠そうとしたり、あるいは若い神学生には、そういうふうに考えてはいけないと話したりしたように思います。しかし今はむしろ、牧師にもそういう思いがあるということを否定せず、それに対しいかに自覚的であるかということのほうが大事ではないかと思うようになりました。そうしないと、自己否定に陥りかねません。

 

(4)ほかの十人も五十歩百歩

 このテキストの先を読んでみると、他の十人の弟子たちの反応が出てきます。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(24節)とあります。ということは、他の十人も口にこそ出さなかったけれども、心の中では同じようなことを考えていたということではないでしょうか。「ヤコブとヨハネの奴め。俺たちを出し抜こうとしたな。」最後には、自分が主イエスの右にいたい。左にいたい。主イエスが栄光をお受けになる時(彼らは単純に、主イエスがエルサレムで栄光を受けられると思っていたのでしょう)、自分たちも一緒に栄光を受けたい、と思ったから腹を立てたのです。一体、誰がその右に来るのかということは、弟子たちの間の最も大きな関心事であったのでしょう。ペトロなどは、一番に「俺を出し抜いて、なんということを言うのだ」と思ったでしょう。実際に、そう言ったかも知れません。

 

(5)牧師も弱い人間

 私は昨年、『牧師とは何か』という共同執筆の書物の監修をしましたが、その本のために、牧師という仕事は何なのだろうということを改めて考えさせられました。そこでは、牧師というのは、他の仕事と何が違うかということを明らかにすると同時に、それをあまりにも特別視しないようにもしなければならないと思います。

 牧師も普通の人間ですから、この世的な願いや欲望を持っています。持ったまま献身している。ちょうどこの時のヤコブとヨハネのようなものです。牧師とは、そうした自己実現(自己中心)の思いとイエス・キリストの召しとのはざまで、悩み苦闘する。でもそれを自覚しつつ、それと闘っている存在です。

 イエス・キリストご自身、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。これが大牧者なるイエス・キリストの姿です。そして牧師が見倣うべき模範です。イエス・キリストは、これに続けてこう言われます。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。(中略)彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」(10:12〜13)。随分、厳しいことを言われます。私たち牧師も、口先ではなんとでも言えるかもしれませんが、いざとなった時にどういう行動に出るかわかりません。真っ先に逃げ出すかもしれない。

 この時のヤコブもヨハネも、イエス・キリストが「自分が飲む杯をあなたがたも飲むことができるか」とおっしゃったのに対し、二人とも「できます」と答えました。この言葉には彼らの覚悟が感じられます。しかし、「言うは易し、行うは難し」であります。結局、この二人も、その他の弟子たちと同じく、主イエスの十字架の死の時には、逃げ去っていました。最後の時、主イエスの十字架の右側と左側にいたのは、ヤコブとヨハネではなく、皮肉にも二人の強盗でした(マタイ27:38)。

 

(6)はざまで苦闘する

 ヤコブとヨハネのそうした自己中心の思いは、ある種の弱さであると思います。ペトロもその弱さを持っていました。しかしそのような弱い、自己中心的な人間と知りつつ、召し出して、「わたしの羊の世話をしなさい」(ヨハネ21:16)と命じられるのだと思います。

 主イエスは、この時、ヤコブとヨハネの願いを突き放してはいません。「今はそんなことを言っていても、お前たちはみんな逃げていくことになるのだ。口を慎め」とは言われませんでした。主イエスは先の先まで、彼らがその後、どのような歩みをすることになるかまで、見抜いておられたのでしょう。「今は確かに、自分の言っていることの本当の意味をわかっていない。わからないで『杯を飲むことができます』などと言っているけれども、本当にそのようになる日が来るであろう。」

 使徒言行録には、こう記されています。「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした」(使徒言行録12:1〜3

 ヤコブはこの時、権力者にもてあそばれる如く犠牲となって殺されていきました。ペトロもやがて同じように殉教することになるのですが、この時はまだ神様がお許しにならなかった。もう一人のヨハネがどうなったかは、いろいろな説があって、よくわかりません。他の弟子たちと違い、長生きをしたという説が有力です。ただしこのヨハネも明らかに苦難の伝道者の道を歩みました。そうしたことすべてが、主イエスの頭の中にすでにあったのではないでしょうか。

 私はあのペトロの悔い改め(マタイ26:75)も一度限りの悔い改めではなかったであろうと思います。その後も、何度も何度も人間的な思いが出て来てはそれを反省し、そのはざまで苦闘しながら従っていったのではないでしょうか。

 

(7)「めだちたがりや本能」

 M・L・キング牧師は、1968年2月、暗殺されるちょうど2か月前に、この物語のマルコの方のテキストで「めだちたがりや本能」(Drum Major Instinct)という興味深い説教をしています(『真夜中に戸をたたく』所収)。キング牧師は、ヤコブもヨハネも「めだちたがりや本能」(一番になりたい。注目されたい)を持っていたと言うのです。しかしながら、イエス・キリストは、彼らの「めだちたがり」の願いをそのまま退けなかったことに注目し、「めだちたがりや」もそのまま悪い訳ではなく、正しく用いればよい本能である、と説きます。そして愛において、道徳的卓越性において、寛容においてこそ、第一人者となって欲しいと勧めるのです。「人よりも前に出たい」という思いは悪いものではない。私は、この説教を読みながら、恐らく、キング牧師自身、自分の中に「めだちたがりや本能」があることをよくわきまえていたのだろうと思いました。そしてそれを否定するのではなくて、いかに自分で承知して、それとうまくつきあっていくか、いかにそれをコントロールするかということを大事にしていったのではないでしょうか。人間とはどういうものか、よく知っていたキング牧師ならではの、興味深い説教です。そして期せずして2か月後に、キング自身もこのヤコブと同じように、いわば「主の差し出される杯を飲んで」殉教の死を遂げることになるのです。

 私は、自分の中にも「めだちたがりや本能」があるなと思いました。多くの牧師がそうではないかと思います。牧師も人間ですから、さまざまな人間的な思いをもっています。それをいつも自覚し、軌道修正しつつ、苦闘しながら、イエス・キリストに従っていく。それが牧師という仕事ではないかと思います。


 
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