皆さまも幾度となく読まれてきたテキストだと思います。 ガリラヤ湖畔に立たれたイエスさまの目に映った情景が描かれています。 まず、イエスさまの話を聞こうとして群衆が押し寄せてきます。 しかしイエスさまの視線は群衆にではなく、岸にもやいであった二艘の舟に向けられました。 そこでは漁師たちが舟から上がって網を洗っています。 漁師と言えば、私たちのイメージの多くは彼らが船上で懸命に仕事をしている風景です。 確かに船上の仕事は漁師の中心ではありますが、それは一部です。
以前牧会していました南九州の志布志という町は漁師町でもありました。 町の一画に漁港がありまして、魚の水揚げをしてそれを競りにかける建物があります。 その付近を歩くとあちこちに魚が干してあったり、漁師たちが網を繕っている風景をよく見かけました。 それを見ながら、「ああ、こうした準備があって初めて漁に出られるのだな」と思ったものです。 イエスさまがご覧になったのもそうした風景だったでしょう。
もう漁は終わっていて、漁師たちは次にそなえて網を洗っています。 二艘の舟のうち一艘はシモン・ペテロの持ち船でした。 イエスさまはそのペテロの舟に乗り込まれます。 そして少し岸から漕ぎ出すようにとおっしゃるのです。 群衆が押し寄せているわけですから、岸から少し離れた舟の上から語る方が好都合だったのでしょう。 群衆に囲まれた状態ではどの方向を向いて、誰に向き合って話すのかを決めるのはなかなか困難です。 とにかく舟の上から群衆のいる岸に向かって話をされました。
そして話し終えると、イエスさまはペテロに向かって言われます。 『沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。』 多分ペテロはイエスさまのその指図に、プロの漁師として抵抗があったと思います。 『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした』 これは当然の応答でしょう。 私も志布志の町で漁師の友人を持っていましたが、漁師の風を読み天気を読む能力は大したものです。 下手な天気予報より正確です。 経験が物を言う職業なのです。 ですから漁師でもない人から、「沖へ向かって漕ぎ出せ」なんて言われたら、大概の漁師は、「いや、ちょっと待ってください」と言葉を差し挟むでしょう。
とは言っても、自然相手の職業ですから、経験が物を言うと言っても、万能ではありません。 天候や潮を読み違えれば、魚は当然捕れません。 前の晩のペテロたちはきっとそうだったのでしょう。 魚は捕れませんでした。 ペテロは漁師としてのプライドは当然あったと思いますが、けっして高慢ではなかったようです。 時には読みがはずれることもある、と 自覚していたのでしょう。 ですから彼はイエスさまの言葉に反発するだけでなく、『しかし、お言葉ですから』と言って、疲れていた体に鞭打って沖に漕ぎ出しています。 イエスさまはイエスさまで、ペテロたちが昨晩は不漁で、彼らが失望と疲労困憊の中にあったことをジッとご覧になっていたようです。
イエスさまはそういうお方なのです。 人間が落胆してやり切れない思いにある時、ジッと慈しみの眼差しを向けておられるのです。 そしてその時から何かが始まります。 もちろんテキストのペテロたち当の本人には分かりません。 しかし既にイエスさまの力はその場に伝わり始めていました。 イエスさまはペテロに言われました。 『沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。』 この情景はまるで、人間が自分の経験と勘に頼って生きている現場で、あたかも「それを放棄しなさい」と言われているかのようです。 ペテロは渋々それに応じます。
ある程度経験を積んだベテラン漁師といえば、大体相場は頑固で意地っ張りなのですが、ペテロには柔軟な心があったようです。 『しかし、お言葉ですから』という返事がそのことを物語っています。 これは人間の資質として大切なことだと思うのです。 一度立ち止まって、イエスさまのみ言葉をちゃんと受け留める感性をペテロは備えていました。 もちろんイエスさまはそれを承知で、ペテロのそのやわらかな心を活かすように彼に命じられたのです。 私たちもペテロのように在りたいと思います。 何かが起こった時、立ち止まってみ言葉を噛みしめるように反芻してみることは大切なことではないでしょうか。 私たち一人ひとりに準備されている神様の備えられた道が必ずあると思うのです。
さて、続く6、7節はいわゆる奇跡の場面です。 『おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。』 …… 福音書には奇跡物語がたくさんありますが、どの奇跡にもイエスさまご自身の言葉が背景としてつながっています。 キリストの言葉が奇跡のバックボーンなのです。 このテキストでは、イエスさまの言葉によって起った奇跡の目印は「魚」です。 日本人は昔から海の幸をたくさん頂いて生活してきましたから、ペテロたちガリラヤの庶民がどれだけ食生活を魚によって支えられていたかが感覚的に分かると思います。
魚がたくさん獲れたということが何を意味するのか……それはイエス・キリストの言葉が人間の心を支えるだけでなく、生活をも支えるのだということです。 宗教は心の問題だと言って、実生活には関わりないとする見方もありますが、そうではないのです。 イエスさまの言葉が、魚を獲るというペテロたち漁師の日常生活を生き生きと浮かび上がらせています。 しかも、魚がたくさん獲れた、生活上の実入りがよくなったというレベルで話は終わりません。 このことを示しているのが、8節のペテロの言葉です。 『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。』
イエス・キリストに出会うことは、ご利益だけでは終わりません。 人間は弱い存在ですから、もしご利益だけを頂くということならば、そのうち傲慢になって行くのです。 ここでペテロが、「よかった、よかった、こんなにたくさんの魚が獲れた。これを売りさばいたらいくらの値がつくだろうか?」などとやっていたら、この物語はそこで終わりでしょう。 でもペテロが持っていた柔らかい心と誠実さは、彼に正しい判断力と態度を与えました。 彼は目の前に起こった出来事に対して、恵みと祝福に満ち溢れた神の業に圧倒されて、その場にひれ伏したのです。
私たちが毎週守る礼拝も、本当はそうした行為なのです。 しかし人間の行為はともすればマンネリになっていきます。 毎週誠実に礼拝を捧げようと願っていても、いつしかマンネリに陥ります。 そのうち「今日は休んでもいいか」となって、神様にささげるはずの業がおろそかになっていきます。 圧倒的な神様の真実の前に、へりくだる、思わずひれ伏してしまう、これが真の礼拝でしょう。 ですからペテロという人は、そういう礼拝を捧げることのできた人としてここに描かれています。
彼は後にローマ・カトリック教会の初代教皇に位置づけられましたが、そのようにされたのには一理あります。 彼はイエスさまのお言葉によって、眼前に起こったことに圧倒され、実は自分には何のいさおしもないのだ、このお方を前にして、自分の生き方には明らかに偽りがあるということを瞬間的に感じ取っています。 それは理屈ではなく、人間の質と言いますか、神さまに用いられる人間としての価値です。 ペテロも私たち同様、損得で物事を計ったり、高慢になってふんぞり返ったこともあったろうとは思いますが、いざという時、つまり真実なイエス・キリストのみ言葉に触れた時、天性の心の柔らかさを活かしたのだと思います。
彼は自分で自分の人間としての嫌らしさに見切りをつけて、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と告白できる人間でした。 パウロも凄い人ですが、ペテロも凄いと思います。 少なくとも私たちは、この舟の上の情景から、礼拝とはどういうことか、神様に出会うとはどういうことかをペテロから教えられています。 真実の礼拝は、そこに集った誰もが、自分には何のいさおしも無いこと、自分は罪深い者であることを明らかにします。 やがて、ペテロの告白は、周囲の仲間にも伝わっていきました。 一緒に仕事をしていたゼベダイの子ヤコブ、そしてヨハネ、彼らも自分が罪人であることを悟っていきます。
イエスさまはその漁師たちにこうおっしゃっています。 『恐れることはない。今から後、あなたは人間を獲る漁師になる』。 …… イエス・キリストのガリラヤにおける神の国の宣教活動には弟子が必要でした。 その弟子をイエスさまはここで選ばれます。 「人間をとる漁師」とは、実に分かり易い表現です。 ここで「とる」と訳されている言葉は、「生け捕りにする」という意味の動詞です。 人間を獲る時には、あくまでも生け捕らなくてはいけません。 生け捕られた人間は、それから後、神さまによって宣教の働き人になるからです。 自分だけが救われました、では終わらないのです。 周囲の人々をも生け捕りにして、イエス・キリストの恵みの中に生きてもらわなくてはなりません。 そうした自覚をしっかり持って、私たちもまた沖へ出て、網を降ろすのです。