2014.7.6

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「急いでいちばん良い服を」

秋葉 正二

ホセア書11,1-9ルカによる福音書15,1-311b-32

 イエス様の譬え話です。最初に1-3節を読みましたが、ここには譬えが語られた状況が記されています。徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうと近寄って来ると、ファリサイ派の人々や律法学者たちが呟きます。『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』。これはイエス様への非難です。そこでイエス様は、三つの譬え話を語られました。

 三つとも何かを失うという話で、失ったものが発見されて喜ぶ、という内容です。そのうちもっとも発展的な話が11節以下にある「放蕩息子の話」で、多くの作家や画家が作品テーマとして取り上げているわけですから、内容的に余程深いものがあるのです。放蕩息子という表現はいささか古い言葉づかいですが、要するに金持ち家庭の息子が酒色にふけって家を潰すといったお決まりのストーリー展開です。

 ところで、ルカ福音書の特徴の一つですが、イエス様の福音を受け入れることを、ルカは〈悔い改める〉というふうに表わします。例えば、各福音書の終わりの部分を比較すると分かります。どの福音書もその締めくくりは、復活されたイエス様が「世界に福音を伝えよ」と命じられるのですが、ルカ福音書にはこういうふうに書かれています。24章45節以下を読んでみます。イエス様のお言葉です。『次のように書いてある。"メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる"と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。』

 放蕩息子の話には直接〈悔い改め〉という表現は出て来ないのですが、物語のテーマが〈悔い改め〉であることは明らかでしょう。お決まりのストーリーと言えば、あまり新鮮な感じがしないものですが、この放蕩息子の譬え話は何度読んでも凄いなーと思います。登場人物は父親と二人の息子、兄と弟です。のっけから財産分与の話が出てきます。最初に財産を分けて欲しいと言ったのは弟です。まァ、長男が家督を相続する時代の話ですから、もらえるものは早くもらっておこう、と弟は考えたのでしょう。父親はその願いに応えて財産を二人の息子に分与しました。ここまでは何の変哲もない財産相続の話です。しかしそこからストーリーが動き始めます。

 弟が、もらった財産をすべてお金に換えて、遠い国へと旅立ったのです。最初に分けて欲しいと言ったのは弟ですから、その時点から彼には自分のやりたいことをやろうという計画があったのかも知れません。悪事に手を染めるわけではありませんから、自分のものをどうしようと他人からとやかく言われる筋合いはない、というのが彼の考えでしょう。きっと、早く親から離れて自由に生きてみたいという強い願望が前からあったのでしょう。とにかく彼は親許を離れました。そして話の半分以上は弟の行動を軸にして進みます。

 それからこの譬え話の前提ですが、父親が大勢の雇い人を抱えられるほどの裕福な家庭であったという設定です。弟は遠い国に行って放蕩の限りをつくしました。 親許近くにいては道楽もやりにくいといったところでしょう。放蕩の内容は書かれていませんが、まァ世間一般のことからして、酒と女と博打くらいを連想すればいいでしょう。この放蕩三昧で使ったお金というのは、そもそもがあぶく銭ですから、無くなる時はアッと言う間です。13、14節にある通り、弟はもらった財産をすべて無駄に使い果たしてしまいます。

 おまけに、その時運悪くその地方に飢饉が起ったというのです。飢饉がなければ、何とか食いつなぐくらいはできたかもしれません。しかし飢饉ですから、財産を使い果たしてしまっていた彼は決定的なピンチに陥りました。少しは世話を焼いてくれる人があったようで、豚の世話という仕事を与えられます。イスラエルで豚は汚れの象徴ですから、豚の世話ということで弟は汚れた者になったことを表現しているのでしょう。

 弟はよっぽど飢えていたようで、『彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった』と16節にあります。いなご豆というのはエンドウ豆のようにさやがあって、その中に実ができます。注解書によりますと、豚の餌にするのは種子である実の方ではなくて、さやの部分だそうです。それなりに甘さもあるというのですが、さやであったとすれば、人間が食べるにはちょっときついでしょう。それでもいいから腹を満たしたかったという表現は、この弟が落ちる所まで落ちていたということです。

 そして、そこまで落ちた時に彼は突然「我に返り」ました。そして俄然生き方の大転換を図るのです。17-19節に「我に返った」内容が書かれています。『そこで、彼は我に返って言った。“父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここを立ち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

 「罪を犯しました」と言っているのですから、これは〈悔い改め〉です。「悔い改め」という言葉こそありませんが、彼は反省して自分が落ちたところから、つまり罪の状態から這い上がろうとしています。無一文になって、豚の餌でも食べたいと思った程落ちた状態から、必死になって這い上がろうと、父親のところに帰ろうと、新たな行動を起こします。この悔い改めはいい加減なものではなかったようで、その証拠に、父親許に帰るまで悔い改めの決心は揺るいでいません。そうしてこの譬え話のハイライトとも言うべきシーンになります。

 20節、父親は遠くから息子を見つけて、『憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した』のです。この時息子は、父親に向かって、心に思い浮かべた悔い改めの言葉を実際に口にしました。父親としては本当に嬉しかったに違いありません。父親は僕たちに命じます。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せなさい』。父親は親バカと言ってもよいくらいの最上の祝宴を張って迎えるのですが、それを裏付ける父親の言葉が記されています。『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。普通はこのハッピィー・エンドで終わります。しかしイエス様の話はそこで終わりませんでした。25節から「ところで」とことわって、今度は兄の話が始まるのです。

 弟が放蕩から立ち直ってディ・エンドだと思ったら、それまですっかり忘れられていた兄の話が始まります。なぜ兄がこれまで目立たなかったと言うと、弟のように跳ねっ返りで滅茶苦茶な生活をしなかったからでしょう。父親の側をずっと離れず、よく言いつけを守ったので、目立ちようがありません。そうした兄の目から見れば、アホとしか言いようのない不埒な弟を、畑から帰ってみれば、父親が盛大な祝宴をもって迎えている……、当然「なんだあれは」ということになります。『兄は怒って家に入ろうとはせず』と28節にあります。

 父親が兄をなだめますが、兄はそれまでたまりにたまっていた鬱憤を一気に吐き出しました。その言葉は怒っていた割には結構理路整然としていて、理屈が通っています。『この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』。

 まさにこれまで口に出来ずに心の底に溜め込んできたものを父親にぶつけています。弟のことを「あなたのあの息子」などと言っていますから、既に弟への愛情はなかったのでしょう。それに、どうもこの兄は喜んで父親の許にいたのではなさそうです。長男として仕方なく、じっと我慢して言いつけを守って来た、そんな印象です。形としてはこの兄は父親の側を離れませんでしたが、心の方はとっくに離れていたのでしょう。父親への愛情を彷彿させるような言葉はありませんし、自分の意思で新しい一歩を踏み出す勇気もなかったようです。

 この兄の訴えに対して父親はこう返しています。『お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。イエス様の譬え話は突然ここで終わってしまうのです。不信仰に陥った者が、悔い改めて信仰に復帰したことを神様は喜んでくださる、というまとめですべて終わってしまうのでしょうか。

 私は、イエス様が弟から兄へ話の筋を移すことで、人間の腹黒さを暴き出しておられるのではないかと思いました。弟の姿だけですと、華々しく父親の許を離反した悪(ワル)が、悔い改めて父親に回帰してよかったよかった、ということなのですが、イエス様が暴き出しておられるのは兄の姿を通してあぶり出される人間の腹の底です。悔い改めとは、そんなに簡単なものではないよ、とイエス様に言われているような気がしました。悔い改め、信仰を告白し、洗礼を受けると、もうそれで一生安泰のような錯覚を私たちは持つのです。キリスト者とはそうではなく、一生悔い改めつつ、求道者として生き続ける姿勢を保ち続ける人のことを言うのではないでしょうか。

 もちろん人生の節目として洗礼は大事ですが、それによって人間が根本から改造されるわけではないことを、この譬え話は弟と兄の二層構造の話によって語っているように思います。どちらかと言えば、私たちのほとんどはこの兄のような生き方をしていると思われます。一見、神様に忠実な生活をしているようで、実は腹の底に不満を貯め込んでいるといった、言わば偽りの信仰生活といった面があるのではないでしょうか。もう一度、私たちはこの譬え話の弟よりは兄の姿を見て、自分の信仰の在り方を顧みる必要があるように思いました。弱い不完全な人間は、何度も何度も悔い改めなければ、長い人生をまっとうすることはできません。信仰生活とはそのような歩みです。祈ります。


 
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