盛大な宴会の譬え話です。 そもそもこの譬え話は、1節にあるように、イエス様が食事のためにファリサイ派の議員の家に入られた、というところから始まっています。 そこでイエス様は教訓を示されるのですが、その教訓に対して、来客の一人が “神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう” と応じたことから、きょうのテキストが始まっています。 つまり、その発言にイエス様は譬え話をもって応じられたわけです。 来客の言葉にあるように、「神の国での食事」あるいは「神の国への招き」がテーマです。 なぜ神の国での食事が幸いなのか、その理由をイエス様は譬えで語られました。 その譬え話の材料が既に旧約聖書にありましたので、イエス様は旧約にある「食事」に関わる話の筋書きを譬え話の材料として利用されたのだと思います。 例えばイザヤ書などには「神が祝宴を催す」ということが出てきます。 それに、宴会というような会食の場がどういう意味を持っていたかを考えておられたでしょう。 宴会を開くには目的があるのが普通です。 結婚とか誕生祝とか何でもいいのですが、共に食事をすることによってお互いがより近づき、交わりが深まります。 「神の国の食事」という発想ならば、そこに集った人たちが言わば一緒に命の糧を頂く、つまり神様から等しく養われているという事実を共有することになります。 特にきょうのテキストもそうですが、イエスさまは批判の対象であるファリサイ派の人たちと会食をされます。 その事実は社会階層の異なる弟子たちにとってはとりわけ強烈だったでしょう。 そこがイエス様の凄いところで、イエス様の前では人間たちが作った階層とか組織とかがほとんど無意味にされてしまうのです。 弟子たち、取税人、罪人、ファリサイ派、律法学者……こういういろいろな人たちが、言うなれば、イエス様を中心にして、一緒の食事をさせられてしまっている、というふうに見ることもできます。 一緒に食事をするという出来事が、社会に成立している様々な人間のシステムを根本からひっくり返す働きをするのが、イエス様の食事です。 さて、きょうのテキストの譬え話ですが、ある人が盛大な宴会を催しました。 そもそも神の国での食事ですから、盛大な宴会を催す「ある人」というのは、神様と考えられます。 とにかく、その宴会に大勢の人が招かれました。 宴会の時刻になると、ある人は召使に招待客を呼びに行かせます。 ところが、招待されていた人たちは次々にそれを断ったというのです。 その断りの理由が18節から20節にあります。 その理由というのが無理にこじつけた理由ではなくて、常識的な範囲の理由です。 「なるほど、そういうことなら仕方ないか」と思わせるような理由でした。 あえて言えば、招待を断った人たちはその理由から推測して、それなりの裕福な生活をしていた人たちであったろうということです。 畑や牛を所有していたり、ちゃんと結婚して妻をめとることができた階層の人たちです。
彼らは、それなりの所有物を手にしている人たちです。 畑も牛も新妻も象徴的な表現ですが、招待を断った彼らにとっては、所有物の方が招待に応じるよりは大切であったわけです。 これは神様の招きに対して、人間がどういう態度を取るかという問題提起です。 私たちにとって、お金にしろ何にしろ、自分が何かを所有することは大きな問題性をはらんでいるのだよ、というイエス様の声が聞こえて来るようです。 大抵の人は、わき目も振らずにお金などを貯めていると、それが増えれば手放しで喜ぶだけで、所有することがはらんでいる重大さに気づいていません。 神の国の真理を掴むために、実は私たちが自らの所有をどう理解しているかが大きく関わってきます。 イエス様の生き方を見てみましょう。 イエス様は一切の所有を放棄されています。 弟子たちは気を使って食糧を調達したりしていますが、イエス様ご自身はそうしたことにまったく振り回されていません。 それを語る代表的な例が、五千人への給食の話です。 これはイエス様だけでなく、他の宗教においても、多くの人々に真理を示してきた偉人たちは皆所有から解放されています。 お釈迦様や良寛さんなどはその代表でしょう。 キリスト教にもアッシジのフランシスのような人物がいます。 彼らに共通しているのは所有から解放されていただけでなく、宗教教団といったような組織の縛りからも解放されていたことです。 良寛さんは三十代前半まで厳しい修行生活を、禅宗の林下道場でもある岡山の寺で送っています。 寺を出てからは放浪乞食の生活を経て、故郷の越後へ帰りますが、そこでも乞食生活を最後までまっとうされました。 曹洞宗の林下道場で印可まで受けていながら、とうとう曹洞宗の寺には戻りませんでした。 これは曹洞宗に対する最も強烈な問題提起であったはずです。 もっとも、その重大さに気づいた人はほとんどいなかったかも知れません。 アッシジのフランシスの登場も、きらびやかな大伽藍で飾ったローマ教会には衝撃であったはずです。 私が現代の新興宗教教団の価値判断をする基準は、教祖なり開祖なりの生き様です。 天理教の中山みきさんは立派な方です。 20年程前に教団の部落解放全国会議が天理市で開かれました。 私は九州教区から委員として参加したのですが、会場を天理教がすべて提供してくださり、食事の接待までもしてくださいました。 もちろん典型的な質素な食事ですが、フルコースのフランス料理にも劣らないと感じました。 会の後、町の本屋さんで中山みきさんの自伝、弟子が書いたものですが、これを手に入れて読みました。 いわゆる神がかりする以前からこの教祖は立派な生き方をされています。 特に所有から解放されています。
米蔵を持つ庄屋さんに嫁がれた方ですが、貧しい村人にぜんぶ分けてあげてしまっています。 イエス様の生き方に連なるような人が日本にもいるのだと、良寛さんを含めて思いました。 イエス様が示された神の国の宴会は、こうした人間の所有欲に関係しています。 私たちはよほど注意して、自らの所有の現実を吟味する必要があると思います。 宴会という一見華やかな場所を引用しながら、イエス様は人間にとって一番厳しい問いを私たちに突き付けておられるのではないでしょうか。 「あなた方は自らの所有の問題をどう解決するのですか? その課題を真剣に受けとめないと、神の国の宴席には出られませんよ」……そのようにおっしゃっている気がするのです。 まったくそんな問いは感じられないと言われれば、それまでの話です。 また別な言い方をすれば、人間の本当の豊かさとは、物やお金によってつくられるのではなく、神様が用意してくださる宴会に連なること、神様の安息に与ることによって与えられることをこの譬え話は表わしているのではないでしょうか。 神様の安息、神様の宴会の具体的な場の一つが礼拝です。 ここから私たちの一週間は始まります。 働くために休みがある、と普通考えますが、イエス様のお話によれば逆で、休むために、神様の安息に与るために私たちは働くのだ、と言えるかも知れません。 そうしてこの譬え話では結論的に第二の招きが示されます。 21節以下がそれで、そこで招かれているのは、貧しい人・体の不自由な人たちです。 22節に出て来る「通りや小道に」いる人たちとは、おそらく罪人と蔑まれた人たちや異邦人たちでしょう。 社会で差別・軽蔑の対象とされた人たちです。 そういう人たちにイエス・キリストの招きがあまねく及ぶ、と言っているわけで、世の中の選びの基準とは逆転していることに気づきます。 ですから、神の国の宴会は招かれる大きな恵みと厳しさが同時に語られていると言えそうです。 これを受けとめるのは私たち自身です。 礼拝に出席すること、あるいは聖餐に与ることを、この神の国の宴会への招きということから、もう一度捉えなおすことも可能だと思います。 何もせずに自動的に神様の宴会に出ることはできないけれども、私たちの前にはいつでもその招待状があるということも事実です。 この招待状をイエス様の譬え話を通して、少し緊張をもって受けとめたいと思うものです。 祈りましょう。