2014.6.8

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「わたしの平和を与える」

秋葉 正二

士師記6,19-24; ヨハネによる福音書14,23-27

 きょうはイースターから50日目、イエス様が約束された通り、弟子たちに聖霊が注がれたことを記念する日です。「使徒言行録」は、聖霊が降った瞬間を情景として2章の冒頭に記しています。そこをまず読んでみましょう。『五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。』この時から弟子たちは、天におられるイエス・キリストから聖霊を降された群れとして福音を宣べ伝えていきます。ですから後の教会は、聖霊降臨のこの日こそが教会の誕生日であるとして大切に守ってきました。カトリックもプロテスタントもギリシャ正教も、それこそすべての教派が一致してこの日を記念します。

 きょうのテキストは「使徒言行録」ではなく、ローズンゲンに従って「ヨハネ福音書」の14章23-27節ですが、このテキストも聖霊理解について非常に重要な箇所です。先週先々週のテキストもこの世におけるイエス様の弟子たちへの「決別説教」という点でつながっていますが、この中でイエス様は聖霊を与えると約束してくださったり、聖霊の働きについて語ってくださっていますので、決別説教全体が聖霊を中心にまとまっているのです。聖霊降臨の出来事が、既に受難の歩みの中で、イエス様ご自身の口から語られていたことをご一緒に確認したいと思います。

 先週も触れましたが、聖霊とは私たちと共にいてくださる神様ご自身であり、一緒に生きてくださるイエス様です。23節にイエス様の言葉として 『父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』 とある通りです。この聖霊を表わす言葉は、「助け主」あるいは「弁護者」と訳されていることも学びました。14章ではこの弁護者・聖霊の約束が繰り返し繰り返し語られています。 特に26節には、聖霊の働きが二点述べられています。一つは、『あなたがたにすべてのことを教える』 ということで、もう一つは、『わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる』 ということです。この二つのことは何を意味しているかと言いますと、御子であるイエス様が父である神様のもとへ行かれた後も、後の時代の人々にこの世におけるイエス・キリストの生涯がどういう意味を持っていたのかを思い起こさせる、ということではないでしょうか。

 私たち人間の歴史の中に、わずか30年ちょっと、ただ一回限り、人と共に生きてくださったイエス・キリストの生涯ですが、天に帰ってそれでおしまいではない、断じてそうではないというのです。イエス様と弟子たちを代表とする人間との絆は、天に昇られても切れません。その切れない絆とは何かについて、これからも教え、ことあるごとに思い起こさせてくださる、とイエス様は語ってくださっています。

 卑近な例を一つ挙げて考えてみましょう。私たちは普段聖書を読んでいますが、分からないことがたくさん出てきます。でも、すぐに理解できなくても、その言葉の本当の意味が私たちの心に宿るまで、聖霊が助けてくれるというのです。ですから私たちはたとえすぐに分からなくても聖書を読み続けることがとても大切です。そもそも弟子たちのことを考えてみてください。福音書によれば、ペテロをはじめとして、彼らはイエス様の語られたことが理解できないことはしょっちゅうです。イエス様が質問されればトンチンカンな応答をしたり、ほとんど真意をしっかり掴んでいなくて、場合によっては湖での嵐の時のように、泣き叫んだりもしました。どう見ても、立派な姿だとは言えません。 むしろ情けない姿をさらけ出しています。また巷のとこにでもいる人間として、むら気を起したり、腹を立てたりすることもしばしばです。私などはそうした弟子たちの記事に出会うと救われる気がします。「アッ、自分と同じだ」と思うのです。ですから、私たちは自分の心が開かれて、イエス様のおっしゃることがよく理解できるようになるまで、忍耐して聖書を読み続けることが重要でしょう。

 聖書から学ぼうという気持ちを生涯失ってはなりません。26節のイエス様のお言葉は、まるで弟子たちだけでなく、現在の私たちにも向けられていると思いました。キリスト教信仰の世界に絶望はありません。それは聖霊が私たちを助け導き、神様に対して弁護してくれるからです。世にはペンテコステ派と呼ばれている教派まであります。戦後の韓国の教会は、北米のその流れの影響を強く受けましたが、その伝道力は爆発的に発展して、国自体が、今では世界有数のキリスト教国です。その信仰生活の在り方は、少なくとも日本基督教団の多くの教会とはかなり異なりが、何と言いますか、何かこう一時的に陶酔を体験するような信仰の在り方が目立ちます。信仰にエクスタシーは付き物ですが、ペンテコステ派ではそれを非常に強調します。彼らの信仰の熱心さは誰もが認めざるを得ません。しかし、きょうのテキストを読んでいまして、イエス様のおっしゃることは、もっと冷静に受けとめなくてはならないと思いました。よく考えて、心の奥にまで染み入るように、イエス様のお言葉を咀嚼する必要があります。一時的にではなく、むしろ持続的に聖霊は働いてくださると思うのです。

 ペンテコステ派の人たちからは、「そんな情熱のないことだから、教会は大きく成長しないのだ」と言われてしましそうですが、そうした指摘には耳を傾ける必要を認めつつも、信仰を感情的に理解することの危険性を思わざるを得ません。聖霊は、私たちの心を聖書のみ言葉に対して開き、この地上で生きたイエス・キリストのお言葉と行いを想起させる働きですから、じっくり味わわなければと思うのです。聖霊は弟子たちや初代教会の人々の心を大きく開き、福音宣教の原動力となりました。その事実を思い起こせば、現代の私たちの心だって開かれないはずはありません。

 このことを確信して27節に触れておきたいと思います。『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。』「平和」という語は、先週も触れた通り、旧約聖書における有名なシャロームにつながっています。 このシャロームには深い意味があります。シャロームについては、砧教会に関わりの深かった木田献一先生が丁寧な分析をしてくださっていて、何度かお話も伺いました。イスラエル民族の中においては、シャロームはただ単に戦争がないという意味ではありません。共同体の中に神様の祝福が溢れ、メンバー相互に豊かな調和があり、全体としても力が満ちている、そういう平和がシャロームです。イエス様はそのことを十分に意識されて「わたしの平和をあなたがたに残し、与える」と言われるのです。

 イエス様はシャロームの世界を愛という形で見事に昇華されました。敵対関係にあったサマリヤ人が実は隣人であることに気づかせてくださったのはイエス様です。敵と味方という区分けを作って、その敵を排除することに平和を見出そうとする人間に、敵を問い直すことが同時に味方を問い直すことにもなることを教えてくださったのもイエス様です。私たち人間はイエス様が教えてくださった愛によって平和を打ち立てなければなりません。戦後、経済的繁栄を手にすることができた私たちの国は、現代文明の最先端を走る先進国だと自負してきましたが、今明らかになりつつあることは、私たちの国はまだ本当の平和を得ていなかった、ということです。 そのことを悲しいかな、現在の政治が語っています。安全だ安全だと強調されてきた現代科学のシンボルであった原発の正体も見えていますし、政治が主張する平和はなんと軍拡路線です。イエス様は 『わたしの平和を与える』 というお言葉で、私たちの平和を問うておられるのです。時代の流れの中でやがて分裂していくような平和であってはなりません。

 イエス様は、『世が与えるように与えるのではない』 というお言葉で、人間の弱い部分に切り込んでおられます。私たち人間を、過去と現在と未来の分裂状態から解放してくださるのはイエス・キリストをおいて他におりません。聖書をしっかり読み続けて、聖霊が深い所で私たち人間を支え生かしてくださって働かれていることを信じ、私たちに与えられている使命をしっかり自覚して、遂行していきたいと願っています。

 主イエス・キリストの平和は、人間の能力や努力で手に入れられるものではありません。それは、私たちの主イエス・キリストを救い主として信じる信仰によってのみ与えられる恵みです。イエス様は神様の愛が、神と人また人と人とに真実の和解をもたらすことを教えてくださっています。この聖霊を記念する日に、聖霊降臨の恵みをご一緒に豊かに味わいましょう。


 
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