2014.6.1

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「わたしたちの生き方とその課題」

秋葉 正二

詩編68,20-36; ヨハネによる福音書15,26-16,4

 ヨハネ福音書の15章は「ぶどうの木とその枝」のたとえ話から始まっています。そこではイエス様と弟子たちの生命的な関係が論じられます。その後は、弟子たち相互の関係が愛を軸にして語られ、さらに話は弟子たちとこの世との関係に発展していきます。この世というのは先週も触れたように、ヨハネが多用するコスモスという言葉で、私たちを包む世界です。イエス様は、この世がイエス様を憎んだように弟子たちも憎むよという話をされながら、迫害という具体的な話を持ち出されます。イエス様に対する最大の迫害はもちろん十字架刑ですが、ここではその十字架への道がいよいよ近づいていることが暗示されています。そのことをもっと掘り下げて行くと、その先には「ぶどうの木とその枝」の関係のように、弟子たちも同じ道を辿るだろうことが言及されるのです。ヨハネは自らの所属する教会を念頭に置いて、イエス様がこの世と対立関係にあるならば、イエス様を頭とする教会もまたこの世と対立関係にあることを自覚し、再確認しているのでしょう。

 もともと弟子たちはイエス様が自ら声をかけて選び抜かれた人たちですから、その関係は、この世における誰の目にも見えるオープンな関係ではなくて、言わば神様の設定された秘儀が伝えられるような秘匿性をはらんだ関係と言えます。その弟子たちによってイエス様を頭とする教会がこれからどう歩んで行ったらよいのか、それは教会のリーダーであるヨハネにとっても目の前の大きな問題でした。これは現代の私たちにも該当する問題です。イエス様を頭とする私たちの教会も、この世の真っ只中にありますが、それは美しい花園や温かな温室の中にあると言う意味ではなく、むしろ氷雨が降り注ぐような厳しい現実の中にあるということでしょう。私たちはこの世に命を頂いているのですから、この世を生き抜かねばならないのですが、迫害の話を聞かされたりすれば意気消沈しがちです。将来に希望を見出す前に暗い現実に打ちのめされてしまします。紀元1世紀の教会は本当に大変だったでしょう。ステファノの殉教に始まって、ヤコブが殺され、ペテロやパウロも殺されて行きました。そういう現実を前に元気を出せというほうが無理です。

 けれどもイエス様はご自分の身い十字架が迫りつつある中で、そうした厳しい現実の中をどう生き抜いていったらよいかを既に教えてくださっていました。それがきょうのテキストで示されている内容です。イエス様は「弁護者」「真理の霊」を私たち教会の群れに送ると言われるのです。弁護者と訳されているギリシャ語は「助け主」とも訳されていますが、元来は法廷用語だったようです。私たちに神様が送ってくださる聖霊のことです。ヨハネはこの言葉の意味をもっと膨らませました。神様の啓示・福音の証言者として弁護者を送ると言うのです。私たちは神様・イエス様から弁護者を送って頂いていることになります。イエス様が語っておられるように、弟子たちの共同体もやがて証しの機能を担うようになるのです。これは私たちが普段考えている教会の宣教活動のことです。

 もちろんこの証しの主体は神様であり聖霊なる弁護者です。教会はイエス様の啓示を力強く証しする機能を負うわけですが、紀元1世紀の教会にとってそれは本当に大変なことでした。信教の自由なんてことはほとんど顧みられていない時代のことです。宣教という証しの機能を担おうとすればするだけ、反発は強く返って来ました。ヨハネの教会・ヨハネが属する共同体では深刻な現実問題だったでしょう。16章に入りますとその迫害がはっきりと予告されるようになります。イエス様のお言葉として『あなたがたを躓かせないためである』とありますが、これは裏を返せば躓く者が出て来るよ、という意味にも採れます。イエス様は人間の弱さをよくご存じでしたから、困難な危機的状況の中で信仰を保ち続けることは決して簡単ではないことを指摘されているようにも思えます。2節には「会堂から追放」という表現が出て来ていますが、この会堂というのは勿論ユダヤ教の会堂シナゴーグです。「追放するだろう」ですから、まだ追放はされていなかったようです。ヨハネ福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃にはまだユダヤ教とキリスト教は完全分化していなかったことも考えられます。所によっては同じユダヤ人同士ということで親しいお付き合いもあったかも知れません。

 しかしそうした状況も、ヤムニア会議と呼ばれるユダヤ教の会議でキリスト教に対する異端宣告がなされた後は弾圧が始まります。ユダヤ教の方では自分達こそが正当なユダヤ教であるとの自負があるわけですから、キリスト教に対する迫害は神への奉仕の道だと確信して弾圧行動を起こします。これが2節の後半で言われていることです。現代の私たちは信教の自由が憲法で保障されており、安心できる環境下で信仰生活を送っていますから、この迫害を受けるという実感がなかなか持てません。しかし、何故現行憲法に信教の自由が入れられたかを考えれば、その理由に迫害という出来事が絡んでいることが分かります。日本の現行憲法だけではありません。ミラノの勅令もマグナカルタも世界人権宣言も、みな信教の自由を保障していますが、それらが生まれて来た背景には必ず迫害という人権侵害がありました。今私たちは個人的に好む宗教を信仰し、礼拝や布教など宗教活動の自由もあり、教会も宗教的結社の自由の上に立っているので、迫害がピンと来ないのです。

 戦前の宗教団体法や治安維持法を体験して来られた世代は迫害を身を持って感じてこられた世代です。信教の自由というのは、人権の中でも最も重要で古典的なものです。カトリック教会は迫害を正面から捉えて、それを長い伝統の中で保持してきました。聖人と呼ばれる人達の多くはこの迫害に遭った人たちです。プロテスタントは歴史が短いせいもありますが、お世辞にも迫害を重要視してきたとは言えません。カトリック新聞を御覧になったことがおありでしょうか? 今でも小さな欄ですが世界中の殉教者の名前が掲載されます。世界のどこかで殉教しているキリスト者がいる、ということです。考えてみれば、紛争地域で活動されている神父やシスターは沢山おられますから、彼らが紛争に巻き込まれて命を落とされることは十分あり得ます。私たちプロテスタントもそうしたことをもう少し真剣に考えなければならないと思います。迫害は怖いものです。使徒時代も使徒後時代もキリスト者の活動は命がけでした。この迫害によって命を取られる殉教という出来事が現代の私たちには体感できにくいのです。

 卑近な例を一つ示せば、ボンヘッファーの殉教があります。これは村上先生も研究された事柄ですが、ボンへッファーに向き合えば必ずこの殉教の問題が出てきます。ヒトラーの狂気の行動を阻止すべく何人もの人がヒトラー暗殺計画に加わりました。7月20日事件と呼ばれるヒトラー爆殺計画がありました。結果としては失敗します。その計画の露見からシュタウフェンベルク大佐やボンヘッファーの名前も出るのですが、計画に加わった者は皆死刑です。ボンヘッファーはフロッセンブルク強制収容所で針金による絞首刑です。シュタウフェンベルク大佐は即刻銃殺でした。ベルリン市内にはその銃殺場所が当時からの建物の内庭に残されています。そこに立った時、私は心底ブルっと震えました。あえて言えば、殉教というのはそういうことなのです。平和な現代に生きる私たちがもう感じられなくなりつつある出来事、それが迫害であり殉教です。

 この世、コスモスは憎しみが支配する場所です。そういう世界では愛を教えるイエス・キリストは邪魔な存在になります。この世の権力者は自分を正義の基準とし、自分に仕え自分を崇めてくれる者だけを愛します。自分の非を指摘したり、自分の不義を明らかにしようとする者は邪魔なのです。こういうコスモスの中で、イエス様の愛の証人として立ちなさい、そのことを証ししなさいと勧めているのがきょうのテキストです。まったく私たちには出来そうにないことのようですが、イエス様は出来ると言われます。神様のもとから出る弁護者、真理の霊、即ち聖霊が、私たちに愛の証人としての生き方を可能にすると断言されるのです。コスモスの只中で、異邦人の中で、憎しみが支配するこの世で、私たちキリスト者は救い主イエス・キリストを証しつつ生きて行きます。祈ります。


 
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