2014.5.25

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「わたしは既に世に勝っている」

秋葉 正二

イザヤ書52,7-10; ヨハネによる福音書16,23後半-33

 イエス様は世を去るにあたって、後に残る弟子たち、もちろん現代の私たちをも含めて、あなたたちを見捨ててみなしごにはしておかない、助け主なる聖霊を送る、という約束の言葉をくださいました。 聖霊とはもちろん今も私たちと共にあるイエス様のことです。 この聖霊・助け主を送るという約束が、ヨハネ福音書の一つのテーマになっています。 さてきょうのテキストですが、28節までは神様からこの世へ遣わされたご自分が神様のもとへ帰るというイエス様の講話です。 それに続く29節30節には、そのことを受けとめるには弟子たちの信仰と理解が不十分であったことが記されます。 そうして30節以降では、最後の締めくくりとして、きょうの説教題にもあります 『わたしは既に世に勝っている』 というこの世に対する勝利宣言が述べられていますが、その根拠はこの世に生きる弟子たち・私たちが、〈平和〉を得るためなのだということが示されます。

 イエス様は33節の結びで、確かに勝利宣言をされていますが、これはあくまでもイエス様の勝利宣言であって、そっくりそのまま私たち人間の勝利宣言ということにはならないと思います。 ただ私たちが信仰を得て、イエス様に倣ってこの世を生きるならば、イエス様は助け主なる聖霊を送る、即ちイエス様が一緒にいてくださる、という約束をくださっているのです。 弟子たちへの決別説教ですから、イエス様はそれまでの歩みを総括されて、結論的な言い方をされています。 23節にあるように、イエス・キリストの名によって父なる神様に何事かを願うならば、神様はそれをお与えになる、と言い切っておられます。 『願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる』 とおっしゃるのです。

 私たちの信仰生活の一つの側面は、神様に何かを祈り願うことです。 それは、この世に多くの悩みや苦しみがあり、私たちがそうしたものによって絶えず不安に晒されているからに他なりません。 それこそ私たちが生きるこの世は闇であって、悪魔的な力が渦巻いています。 そこから何とか救って頂きたいと私たちは祈りますが、祈れば自動的に苦しみや悲しみの無い天国に移されるというわけではありません。 弟子たちがそうであったように、人間は祈ってもなお、この世の悩みの中で苦闘しなければなりません。 この世の苦しみ悩みは無限にあるかのように、私たちの目には映ります。

 先週アフリカのナイジェリアのニュースが報道されました。 高校生の少女たちが集団で武装グループに誘拐されてしまって行方不明になっているというニュースでしたが、そうした事件が起こる根底には、民族同士の対立や政治的混乱があり、社会が著しい貧困に見舞われているからだという分析がなされていました。 まさしくこの世は闇だ、という印象です。 貧困は物質的な苦しみ悩みですが、私たちには精神的な苦しみ悩みもたくさんあります。 よい人間関係が築けずに孤独に悩んだり、人生に希望が持てずに苦しんだりすることなどはその一例です。

 そのような苦しみ悩みに人々はどう対処しているのでしょうか? たとえば、アルコールで悩み苦しみを忘れるという対処法があります。 確かに憂さ晴らしできるのですが、この対処法はいっときだけですから、言うなれば、人間のあがきみたいなものです。 おまけに、これにはアルコール依存症という厄介な危険がつきまといます。 私たちの教会では毎週木曜日の夜AAグループの集まりがありますが、ここに集まるメンバーの目的は飲まないで生きていくことだそうです。 私たちはそれが叶うようにお手伝いしています。 アルコールにはいい気分になるという効用が確かにあり、悩み苦しみも忘れることができますが、しょせんそれは一時的なことですから、根本的解決にはなりません。 で、むしろ私たちは苦しみを負って生きなければならないことを自覚することの方が大切なのではないかと思うのです。 悩み苦しみに直面して、それに耐え、それを担っていけるだけの力を持つことの方が重要です。

 ではそうした力をどこに求めたらよいのか、それが問題です。 ここで思い出さなければならないのは、十字架という苦しみ負って生き抜かれたイエス様の生涯です。 イザヤ書53章は「主の僕の歌」と呼ばれるものの一つですが、そこにはイエス様の姿を先取りしたと言われるメシアの姿が描かれています。  その中にこういう一節があります。 『彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている』。 続いて 『彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった……』 。 まことのイエス様はそのように生きられました。 このイエス様が十字架を経て、復活された主として 『わたしはすでに世に勝っている』 と言われているのです。

 私たちの信仰はこのイエス・キリストを信じることによって成立します。 闇の世に打ち勝つ者は、十字架と復活の主を信じる者だ、というのがヨハネが明らかにしている信仰の真理です。 イエス様の地上の弟子たちが、十字架というこの世の受難に際して離散してしまったように、私たちの信仰が人間的決断や何か宗教的な通年に基づいているのならば私たちも弟子たちと同じようにイエス様の許を立ち去るに違いありません。 ですからイエス様は32節でこうおっしゃっています。 『あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る』。 そういう私たちだからこそ、私たちはどうしても聖霊よって導かれることが必要となります。 その約束をイエス様はきょうのテキストの中で、くださっているのです。

 33節をご覧ください。 イエス様がきょうのテキストで語られたのは、私たちが〈平和〉を得るためだと書かれています。 この平和と訳されているギリシャ語は、もともとは旧約聖書におけるシャロームです。 この言葉が使われる時には、そこで説き明かされる意味内容は神様とこの世との対立という図式で規定されます。 イエス・キリストに属する人々は、この世の苦境のさなかで、この世の恐れの只中でシャロームが与えられるというのです。 33節に出て来る「世」という言葉は有名なコスモスです。 このコスモスとシャロームは、ヨハネ福音書を通して私たちの生き方を考えようという時の重要なカギになります。

 コスモスはヘレニズムに由来する概念ですが、本来は秩序を持った世界・調和を意味します。 70人訳でこの言葉が訳語として使われる際に、ギリシャ的な思想が入り込みましたが、元々はユダヤ教の黙示思想におけるヘブル語の原語にはハッキリした概念がありました。 黙示思想ですから、本来のヘブル語には悲観的な考え方が根底にあるのです。 ユダヤ教が終末論を強調したのは、おそらく行き詰ったコスモスからの出口を探していたからでしょう。 このコスモスをヨハネとパウロは多用しました。 何十回も使います。 両者に共通している理解は、コスモスがよこしまな曲がった時代だという点でしょう。 コスモスの闇の中に十字架という敗北の象徴が一条の光として輝いているというのが、ヨハネの一つの捉え方です。 このことを確信している人、つまりイエス様は世に勝っていることを確信しているキリスト者は本当に強いのです。

 かつて北九州にチェ・チャンホアという牧師がおりました。 在日の人たちの人権獲得のために生涯をかけた人です。 この先生の許で私は大切なことをたくさん学びました。 チェ先生はいくつもの人権闘争裁判を起こしましたが、結果的にはほとんどが敗訴でした。 敗訴する度に周囲の人たちは「ああ、今回もダメだった」とうなだれるのですが、チェ先生はまったくひるむことがありませんでした。 多くの場合が敗訴だったにも拘わらず、不思議なことに裁判闘争を通じて世の中が少しずつ変化していったのです。 いつも間にかチェ先生が主張した通り、NHKを筆頭に、在日の人たちの名前がハングルで発音されるようになりましたし、いろいろなケースの在日の再入国が認められるようになりました。 私たちは世に勝っているという信仰の確信がなければこうした闘いは出来ません。 裁判にしても負けるのですから、疲れて終わりです。 しかしこの世の敗北の中で勝利を確信できる生き方があるのです。 十字架という敗北のどん底でも勝利を謳ったキリストの生き方、励ましの言葉が私たちの目の前にあるのです。 私たちキリスト者には 『わたしは既に世に勝っている』 という勝利宣言をこの世で継承して行く責任があります。 コスモスが十字架の敗北にもかかわらず、神様の御旨にそって整えられていくことを信じましょう。 なにしろ私たちは復活の勝利の主イエス・キリストから勝利宣言を賜わっているのですから。 


 
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