教会暦は復活節に入りました。暦はペンテコステに向けて進んで行きますが、今一度復活の主イエス・キリストに目を留めておきたいと思います。本日のテキストヨハネ20章の前半には、最初の復活の証人がペテロたち男性の弟子ではなく、マグダラのマリアという一人の女性であったことが記されています。当時の社会で、女性や子供の証言は取るに足りないものとして軽んじられていたことを思えば、ここにはやはり重要な意味が込められているでしょう。きょうのテキストの出来事は、イエス様が復活された日曜日の夕方に起こったことだと19節に書かれています。そしてすぐ前の18節にはマリアが弟子たちに自分が体験したことをちゃんと告げているのですが、19節から伝わってくる弟子たちの様子は、まるで「そんな話は聞かなかったことにしよう」とでも言うように、家に鍵をかけてひっそり閉じこもっています。『ユダヤ人を恐れて』とありますので、弟子たちは自分達にも迫害が及ぶことを恐れていたのです。
ヨハネ福音書の成立当時には既にヤムニア会議でユダヤ教はキリスト教を異端と決定していましたから、大祭司や最高議会からの追及がいつあってもおかしくない状況でした。ですから、この福音書を書いた記者の置かれた状況も反映されています。弟子たちはマリアの語ったことに真剣には耳を貸さなかったのでしょうか。マリアはハッキリと 『わたしは主を見ました』 と告げているのですから、ちゃんと受けとめていない弟子たちのマリアという女性に対するある種の蔑視が見て取れます。そこには「聞く」ということにかなりの重点が置かれているように思われます。24節以降に弟子のトマスに関する記述が出てきますが、その記述の伏線がすでに表れています。 『わたしは主を見ました』 というマリアの言葉を受け留め切れなかった弟子たちというか、人間そのものの姿があぶり出されています。
とにかく復活されたイエス様は、鍵をかけて閉じこもっていた所に顕現されました。そして 『あなたがたに平和があるように』 と言われて、十字架にかけられた際に受けた手と脇腹をお見せになっています。ギリシャ語から「平和」(エイレーニー)と訳されている言葉ですが、多分実際のイエス様はヘブル語のシャロームを使われたと思います。シャロームは挨拶の言葉でもありますけど、奥の深い意味を秘めた言葉です。今こそ神様と人とが愛において一体になったということをイエス様は表現されたのです。
しかし、そう声をかけられたにも拘わらず、やはり弟子たちには戸惑いがあったのではないでしょうか。本来ならば、「あなた方はなぜ私を見捨てて逃げ去ったのか」 と問われるのが筋だからです。しかしイエス様はそうはおっしゃいませんでした。ご自分が十字架にかけられたことで、人間に対して贖罪の使命を果たされたことを弟子たちに伝えられるのです。しかも復活されたお姿で、弟子たちに新しい使命を果たすようにとも命じられています。 『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす』。 ここには復活を土台として新しく生まれた教会の使命がハッキリと示されています。私たちはイエス様によって死から救われただけでなく、あらたに福音の宣教を開始する使命を一緒に頂いているということです。
イエス様が弟子たちに息を吹きかけられながら 『聖霊を受けなさい』 と言われている場面は、何かこう、私たちも弟子たちと一緒に聖霊を受けているという、実感が湧いてきます。弟子たちは 『聖霊を受けなさい』 と言われた時に、本当の意味で我に返ったのではないでしょうか。私たちがイエス様から命じられたように宣教の責任を果たすことができるとすれば、ここに記されているように「聖霊を受ける」ことが必要です。自分の強い意思があれば十分出来そうだと思えるかもしれません。しかし、それは錯覚でしょう。宣教の使命は聖霊の働きなしには決して長続きはしません。信仰生活に入ることが出来て、感激して、さあ張り切って伝道だ、と意気込んだとしても、聖霊の働きが伴わなかったならば、それはその時だけのものです。私たちはしっかり腰を落ち着けて、自分の生涯の責任として福音宣教の使命を受け留める必要があります。
私はバプテスト教会の出身ですが、洗礼を受けた半世紀前のバプテスト教会の様子と言えば、大勢の人々を集めて、できるだけ多くの人たちに洗礼を施そうという新生運動と銘打った大衆伝道が華やかな時代でした。アメリカのバプテスト教会にはビリー・グラハムという有名人がいたのですが、彼の伝道方法は、例えば後楽園球場に何万という人々を招いて説教をし、その場で回心を促すというものです。私も高校生の頃、教会の先輩たちに連れられてそうした場に出かけました。でも私の場合、周りが熱狂的になればなるほど自分は醒めて行くようで、その場の空気にどうしても馴染めませんでした。その熱狂を、聖霊を受けることに例えた先輩もいましたが、私は正直そうは思えませんでした。もちろんバプテスト教会全体がそうした傾向をもっていたということではありませんので誤解しないでください。
そんなことを考えながらですが、私は24節以下に登場するトマスという人物の気持ちが少し分かる気がしました。トマスは鍵をかけた家の中に復活の主が顕現された時、その場にいなかったのですが、彼は他の弟子たちの証言を聞いても信じませんでした。常識的な判断も働いて、死人の復活などということは、自分の知識と経験からしても信じられない、ということだったのでしょう。彼は正直に語ります。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』
彼のこの言葉は不信仰の代名詞みたいに言われますが、どうもそうではないような気がするのです。ここで問題になっているのは、信仰ということが、見ることや聞くこととどう関係しているのかという点です。たとえば「聞く」ということならば、パウロのロマ書に有名な言葉があります。ロマ書の10章17節にこうあります。『実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。』 これは私たちが信仰を考える時に、意識をどこにしっかり向けるべきか、ということに関係しているように思います。耳にしても目にしても、注意を集中して、神の言葉にしっかり向き合うべきだ、ということでしょう。耳と目とのどちらが重要かという問題ではなく、意識を集中して神様に向き合うことの大切さが言われています。
また、「見る」ことに関してならば「ヘブライ書」の11章1節に、これまた有名な言葉があります。 『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』 そう述べた後、ヘブライ書の著者は、「創世記」のアベルから説き起こして、族長のヤコブに至るまでの旧約の人物の信仰について語っていきます。そこから分かることは、これは私の理解ですが、信仰とは、見える世界を超えて、高みから響いてくる、天から語りかけてくる神様の言葉に正直に応答するということです。おそらくヨハネ福音書の記者が語っていることは、イエス様を直接見、その声を直接聞いた新約時代の弟子たちも、それから2千年経って聖書を通してイエス様に触れている現代の私たちも、信仰ということ観点においては同時代的だということです。
「見る」あるいは「聞く」ことから、どのように「信じる」ことになっていくのか、このことがこの福音書全体を貫く一つのテーマになっているようにも思います。一般的な五感の感覚から言えば、私たち人間が何かを確かめる際の一番の根拠は、多分「聞く」ことよりは「見る」ことです。目で見れば何でも確かめられると私たちは普通考えます。しかし、信仰に関しては、「見る」ことが「信じる」ことの妨げになることもあるし、「聞く」ことがすぐに「信じる」ことにつながることもあるのです。第一、イエス様と同時代に生きて、直接イエス様を見たり、その話を聞いたりした人たちは数え切れない程いたわけですが、そのうちどれだけの人がイエス様を心から信じ、弟子になったでしょうか。5千人に奇跡の食事をお与えになったのに、そこにいた大半の人々は信じる人にはならなかったのです。
どうも人間が信仰に導かれる前段階として、私たちには分からない無限の空間が横たわっているように思えます。それを知ることは人間には赦されていないのでしょう。しかし、それを無視して多くの人間は「見る」あるいは「聞く」ことによって信仰に至ることができると考えます。神様がその人の在り方をご覧になって、「よし」とおっしゃらなければ人間はどんなに見ても聞いても信仰に至ることはないのです。イエス様の『聖霊を受けなさい』 というお言葉はそうした信仰の秘儀をたたえている言葉です。
話は違いますが、昨日はチェルノブイリ原発事故からちょうど28年目でした。私たちの国は被爆国ですから放射能に敏感です。広島・長崎のような悲劇を直視すれば、そこから神様の愛を感じ取ることなどは普通はあり得ません。そこにあるのは、愛の神様と人間の悲惨の現実との矛盾であり、絶望です。でもキリスト者の中には、あの悲惨の中に、より深い神様の御旨を感じ取った方もおられるのです。たとえば、ご自身も被爆してやがて召されていった医師であった永井隆博士などはそうです。人間の目から見て、悲惨や絶望しかないと見える世界だからそこには神様の摂理がない、とは言い切れません。私たちが生きるこの世界には、人間の目や耳や、あるいは知識によって見えるもの分かるものと、そうではないものがあるということなのです。信仰の世界とはおそらくそういうことに関係する世界です。すべてが明らかに見えてくるのは、イエス様が再三再四強調された終末の時なのでしょうか。それまでは、神様の御旨は人間には隠されている部分が多い、ということなのでしょう。
人間にとって信仰は、そういう未知の領域を含みます。私たちにできることは、自由に近づいて来られて、『あなたがたに平和があるように』と言われ、また 『聖霊を受けなさい』 と声をかけてくださるイエス様に素直に従って、信仰の世界に導いて頂くことだけです。信仰において、私たちは主イエス・キリストと同時的に歩むことを許されます。同時代的に弟子たちと一緒に生きることもできます。『目に見える望みは望みではない』 と語ったパウロの言葉を受けとめたいと願っています。復活後第1主日のきょう、私たちは復活のキリストから、聖霊なる息を吹きかけられているという幸いの中にいます。ペンテコステに向けて、覚束ないことの多い私たちの信仰ですが、信仰の歩みを更に一歩進められるように祈りましょう。