棕櫚の主日を迎えました。 棕櫚主日の舞台は、イエス様一行のエルサレム入城です。 その日は過越しの祭でエルサレムには大勢の人々が各地から集まってきていました。 ナザレのイエスの名は多くの人に伝わっていたとみえ、群衆はエルサレムに入るイエス様の姿を見て、ナツメヤシ即ち棕櫚の枝を手に取って歓呼して出迎えています。棕櫚はイスラエルでは勝利の平和のシンボルでした。13節によると群衆が叫んだ言葉は『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』というものです。「ホサナ」というのはアラム語で、学者の分析によるともともとは二つの言葉からつくられたようです。「救ってください、お願いです」という意味です。「万歳」などと訳されることもあります。
さて、すぐ前の11章に「ラザロの復活」の記事があります。ラザロが復活する際にイエス様はその場にいた群衆を強く意識されまして、わざわざ『わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです』と言われているのですが、どうもヨハネは編集にあたってこの場面の群集と、きょうのテキストの群集を重ね合わせたのかも知れません。17,18節からもそれは伺えます。なぜヨハネは場面の異なる群衆を重ね合わせたのでしょうか?おそらくそれは、群衆がイエス様に何を期待していたかをハッキリ示すためです。イエス様はそれまで五千人に食物を与えられたり、盲人の目を開かれたり、死人をよみがえらせたりといった数々の奇跡をなさって来られました。それは貧しさや圧政にあえいでいた多くの民衆に、目に見える形での力ある奇跡を期待させることになります。国や民族ということで言えば、ローマ帝国によって政治的に牛耳られていた祖国ユダヤをその圧政から解放してくれる人物を民衆は求めたのです。イエス様にしてみれば、自分への期待が高まれば高まるほど、ご自身と民衆との距離離れて行っていることを感じられたことでしょう。この場面は私たちに信仰の質について考えさせます。ご利益という言葉がありますが、目に見える具体的なご利益を求める性向を人間は持っています。政治的解放をもたらす力はそうした具体的なご利益の一つに違いありません。群衆はホサナと叫ぶと同時に、「イスラエルの王」とも叫んでいます。
このことはもっと後の場面、イエス様がローマ総督ポンテオ・ピラトの前に引き出された時、ピラトが口にした言葉を思い出させます。ピラトはこう言いました。『お前がユダヤ人の王なのか』。その際イエス様はピラトにこう返答されました。『わたしは王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』。このやりとりからも分かるように、群衆の期待とイエス様の期待とは、肝心な所ですれ違っています。当時のイスラエルには、千年も前からダビデやソロモンというこの世の大スターがいました。彼らは現実のイスラエルの王であり、祖国に繁栄をもたらしてくれた象徴的存在です。それは言うなれば政治的メシアです。 そのような期待の目が今、十字架への道を歩んで行こうとされているイエスという一人の人に注がれています。それはここから始まる受難の七日間の序章です。結局イエス様とすれ違ったまま期待を膨らませていった群衆に訪れたのは幻滅でした。ホサナと歓呼してイエス様を迎えた群衆は、この数日後にローマ総督の前で、『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫ぶことになります。
朝日新聞に「天声人語」という有名なコラムがありますが、あれは「天の声は民衆の声だ」という意味で使われていると思いますが、少なくともきょうのテキストに照らす限り、「民の声」は「天の声」ではありません。ロバの子に乗ってエルサレムに入城されたイエス様の姿を見て、馬ではなくなぜロバの子に乗られたのか、その時理解した人はいなかったのです。弟子たちでさえそうでした。15節は「ゼカリヤ書」9章9節にある預言の言葉ですが、そのままの言葉ではありません。弟子たちは最初この預言の意味が分からず、イエス様が栄光を受けられた時初めてこの言葉を思い出した、と記されています。
ゼカリヤの時代にはもちろんまだキリストはまだ遠い存在です。しかしこの預言は、当時の信徒たちを促すように、キリストはやがて来るのだから喜び楽しむがよい、と勧めています。 ゼカリヤの時代の人々は「王は来る」とキリストを待望したのですが、今聖書を読んでいる私たちには既にキリストは来られて、私たちはその顕在を享受しているのです。ですから私たちはゼカリヤ時代の人々とは比べものにならない程、もっと大胆に恐怖と戦い、この世の敵対する勢力に対して立ち向かう責任があると思います。ゼカリヤ時代の人々は自分たちの言葉を、神殿のあるシオンに向けるしかなかったのですが、現代の私たちは神様が世界のあらゆる所で働かれておられることを知っているわけですし、教会という形でその存在を一つに集約されてもいるのですから、より大胆にキリストを世にアピールしてもよいはずです。
イエス様はロバに乗って入城されました。それはイエス・キリストには、この世的な壮麗さや権力や富などと共通するものは何もないのだ、という表明でしょう。エルサレム入城の場面には人間の悲しさ、愚かさが散りばめられているような気がします。十字架と復活を経験するまでは、何も分からない、何も真理が分からない、そういう人間の限界です。 それはまた十字架と復活こそが人間にとってどれほどかけがいのないものなのか、ということの裏返しでもあります。
ヨハネという人は、受難の一週間がどれほど人間にとって決定的な意味を持っているかと示そうとして編集作業をしたと思います。だからこそこの福音書の三分の一が受難の記事になってしまったのでしょう。弟子たちにとっても、ロバに乗って十字架への道を進みゆく自分たちの先生の姿は、ある意味驚きであり、幻滅でもあったのですが、受難の一日一日はしっかり心に焼き付いたとも思うのです。ヨハネはそうした一切を世に残したいと願ったのです。
きょうのテキストのすぐ後の24節には「一粒の麦」の譬え話がありますが、種というのは地に蒔かれてもすぐには芽を出しませんから、その種がどんなに素晴らしい麦の穂をもたらすのか最初は誰にも分かりません。それと同様、神様のみ業の実りも、初めからは現されないということでしょうか。弟子たちは預言の成就に与るという神の僕としての栄誉というか役割を与えられているのですが、実は自分たちが何をしているか分かっていません。つまり弟子たちは群衆の歓呼の声を確かに聴いているのですが、その声が何を目指してどういう意味を持っているかは分かっていません。しかしヨハネは16節で『イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した』と記していますから、イエス様が復活の栄光を受けられて弟子たちに現れてくださった時には、さすがに鈍い弟子たちもちゃんと思い出した、と私たちも安心できる一言を添えてくれています。
この添えられたヨハネの一言は、神様の言が私たちを照らすだけでは十分ではないけれども、聖霊が私たちの目を明らかにしてくださるという希望を与えてくれます。イエス・キリストはそういう恵みを、復活された後に、弟子たちに施してくださっています。それは弟子たち以上に真理に疎い私たちであっても、同じ恵みを施して頂けるという希望です。そして、キリストに属することのすべては、あくまでも聖書を通してのみ判断することが大切であることを確認しておきたいと思います。私たちは自分の中の思いだけに従って判断してはなりません。 信仰生活をまっとうしようと努めれば、神様は適切な時に適切な指導をもって目を開いてくださいます。それにしても19節のファリサイ派の人々が口にした言葉にはどこか投げやりな感じが漂っています。「何をしても無駄だ。みんなあの男について行ったではないか。人々がイエス・キリストの許へ走ったのは自分たちがだらしなかったせいだ」。そんな風に聞こえます。これは少なくとも反省ではないでしょう。そうした心の在り方は、やがてイエス様への彼らの憎悪を決定的なものにしていきます。その心が、彼らをして十字架の準備へと向かわせることになります。このことは、本当の意味で希望のない人間がどういう方向に進んで行くかを私たちに教えてくれます。だからこそ、私たちはキリスト者として確固たる十字架と復活の信仰の決意のうちに踏みとどまらなくてはなりません。きょうから始まる受難週の一回り、私たちは十字架上のイエス・キリストを見つめて歩みます。そして来週、そのイエス様から復活の命を豊かに頂きたいと願っています。