今週5日は「灰の水曜日」、いよいよ受難節(レント)に入ります。日曜日を除く、イースターに先立つ40日間です。モーセやエリヤに始まって、イエスさまが断食した期間が40日ですから、40は象徴数です。私たちキリスト者にとっては、十字架にかけられた主イエス・キリストの受難を想起して、悔い改めや克己精進に努める大切な期間でもあります。また断食期間をも意味します。断食したり灰をかぶったりする慣習をただ古いものだとするだけではなく、現代の私たちもいろいろな場面で節制を心がけることは意義あることでしょう。本日のテキストも受難に関わります。すぐ前の記事にペテロが『あなたはメシアです』と告白した場面がありますが、この告白を聞いたイエスさまは『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている』と受難のことを明らかにされました。受難の予告は9章10章にも記されていますが、これは「イザヤ書」53章にあるいわゆる「苦難の僕」の歩みを、イエスさま御自身が成就しなければならないことを意味していました。五百年も前の預言を成就するというのですから、イスラエルの信仰の熱意といったものを感じます。イザヤ書には主なる神が人間の罪をすべて「苦難の僕」に負わせられたことや、彼を罪人の一人に数えられたことが書かれていますが、イエスさまはこれをご自分の身に成し遂げられねばならないと自覚されたのです。既に神さまの計画にあったことを、イエスさまがいよいよ自覚されたということです。神の国がこの地上に実現するためには、メシアが罪ある人間に代わって死ななければならないことは旧約の預言にある通りですが、今、イエスさま御自身が「人の子」はそれを成就しなければならないと、弟子たちに予告されているわけです。32節と33節には、ペテロとサタンのことが記されます。他の弟子たちも同様だったと思いますが、ペテロにはイエスさまがどのようにして救いの業をなさるのかが分かりませんでした。だから彼はイエスさまをわきへお連れしていさめ始めます。するとイエスさまは振り返り、弟子たちを見ながらこう言われました。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。サタンは悪霊であり、人格的存在です。どういうふうに活動するかと言えば、神と人あるいは人と人との間を引き裂くのです。現代人はサタンと言うと「そんなものはいないよ」と言うかも知れません。それは現代人が目に見える存在だけを確かなものだと見なしているからです。霊なるものが何であるかを考えたことがない人にとってはそうなのです。
しかし聖書は、霊なる神の支配を知っていたイエス・キリストが、サタンの働きを判別する力を持っていたと記します。私たちはどうでしょうか?サタンの存在と働きを、いわば日常生活の中で信仰的実験として知り得ているでしょうか。イエスさまが『サタン、引き下がれ』とおっしゃったのは、人間ペテロの心を足場として活動するサタンを、はっきり見られたからです。ペテロの心がなぜサタンの足場になったかと言えば、イエスさまのご指摘通り、ペテロが『神のことを思わず、人間のことを思っている』からです。受難の予告をイエスさまが語り始めた時、ペテロは神を中心にしてイエスさまのことを心配するのではなく、自分のことを中心にしてイエスさまのことを心配したのです。サタンはその油断を見逃しませんでした。私たちは人情や親愛感を大事にしますが、神のことを中心にしない人情や好意はいつでもサタンの足場になり得るということです。ですから信仰的に行動しようとする際には、最後まで徹底的に神さまに信頼を置くことです。
一分でも隙を見せれば、サタンは私たちに付け入ってくるはずです。さて34節以下です。イエスさまは群衆と弟子たちとを共に呼び寄せて言われています。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。
おそらく群衆の多くは、イエスさまの高い評判に引き付けられ、奇跡のような力ある行為に自分も与りたいと思って集まっていたのです。いわば金魚の糞のように、イエスさまの後を追いかけました。そうした群衆に向かってイエスさまは言われたのです。
『自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。この言葉にはとても重いものがあります。なぜかと言えば、イエス・キリストに従うことは、誰でも一度自分の考えを捨てなければならないからです。これはキリスト教信仰の重要ポイントです。
私たちはみな最初は自分なりの考えをもってイエスさまに近づいて行きます。それはちょうどこのテキストの群集のようなもので、もうちょっとすぐれた人間になりたいとか、心や体が弱いとか、そういう理由でイエスさまの許へ集まろうとします。イエスさまはそういう考えを一度捨てなさい、とおっしゃるのです。そうしなければイエスさまの弟子になることはできないと言われるのです。「自分を捨てる」ということは難しいことでしょう。
仏教でいう無我とか無心とかを思い起こします。しかしキリスト教信仰においては、そんなに難しく考える必要はないと思います。それはイエス・キリストのことを心に深く思い浮かべていれば、いつも間にか、自分の考えとか行動とかが思っていたほど立派なものではないことに気づくからです。イエスさまのことを深く考える習慣を身に付けると、古い自分を捨てることができるようになります。私たち人間は誰でも、イエスさまの真実に触れれば、自分を変えずにはおれません。イエスさまの愛を頂いた時、私たちは変えられます。「自分を捨てる」 というのはそういう意味ではないかと思います。
イエス・キリストに従う時には、以上申し上げてきたような意味において、十字架を負わなければなりません。そうしてその十字架こそが、実は真実の命を得る道なのだとイエスさまは教えておられます。35節です。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである』。
イエスさまの受難を振り返る時、私たちが十字架を背負うのは重たいかも知れませんが、それは価値のあることなのだ、とおっしゃるのです。ここで命といわれているのは、自然死によって失われる生命ではありません。神さまによって与えられる命です。
この世における死ですべて終わりと考えている人はたくさんいますが、ここで言う命とは、現世において与えられながら、この世の肉体の滅びという限界を突き抜けて与えられる新しい命です。ですからこの命に対してイエスさまは36節37節で言われるのです。
『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』。昔から「人生朝露の如し」とか「人生夢の如し」とか言われてきましたが、神さまから頂く永遠の命を持たない人生のはかなさを私たちは考えるべきです。キリスト教信仰は、自分を捨てることからスタートして、新しい永遠の命を得ることをもって完結します。この永遠の命を得る自分は新しい自分です。私たちの人生の目標はこの新しい自分、永遠の命を得ることです。誤解しないようにしたいと思いますが、永遠の命は決して死後に与えられるものではありません。
イエスさまに従った時から与えられるものです。最後にイエスさまは39節でこう締め括られます。『神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる』。私たちはイエス・キリストの福音を恥じることは出来ません。私たちは良き先輩や友人たちの言葉を信頼しますが、それにはるかに増して、神さまの言、イエス・キリストに信頼して歩みたいと願います。神さまは必ずやそのように生きようとする私たちに、生きる力と知恵とを授けてくださると信じています。