主イエスの山上の変貌記事から学びます。マルコとルカに並行記事がありますので、一緒に読むと参考になります。もちろんそれぞれ福音書記者たちの編集作業が加わっていますので、数字の違いとか文脈の組み立て方に相違があります。並行記事ですから共通点も多くありまして、イエスさまが側近ともいうべき三人の弟子たち、ペテロ・ヤコブ・ヨハネだけを連れて山に登られたという状況設定は共通です。
さて山上で不思議な情景が繰り広げられています。なんと三人の見ている前で、イエスさまの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝くのです。そればかりが、モーセとエリヤが現れて、イエスさまと語り合います。モーセとエリヤといえば、紀元前13世紀とか9世紀とかの時代の人物ですから、それだけでも驚きですが、イスラエル民族にとって彼らは信仰上のシンボルですから、長い間伝説的にさまざまなことが伝えられていたはずです。どうしてモーセやエリヤと分かったのだ、という疑問を持つ方もおられるかも知れませんが、外見上の様子も含めて言い伝えられてきた伝説に合致していたということでしょう。モーセとエリヤはイエスさまがエルサレムで遂げようとされている最後について話していたとありますので、これは明らかに十字架と復活の出来事につながっています。
聖書学的な説明をすれば、律法の代表者たるモーセと、預言の代表者たるエリヤの伝説に、イエス・キリストの聖者伝説が組み合わせてあるということになります。9節に 『今見たこと』 という表現がありますが、これは通常「幻」と訳される言葉です(ὸραμα)。マタイは三人の弟子たちの宗教体験を「幻」と表現しているわけです。辞書を引きますと、この「幻」は神さまの顕現や神さまが見せ給う異象ということですから、弟子たちは幻を見ていた状態であったと、マタイは言っていることになります。
さて、わたしたちはこのイエスさまの変貌記事から何を学ぶかという問題ですが、ひとことで言いますと、出来事の意味を理解することが最も重要です。さて、イエスさまの姿が神々しく変わったのを見た弟子たちは、イエスさまがメシアであり、神の子であることが少しは分かったでしょう。きょうのテキストのすぐ前の16章21節以下には、イエスさまがご自身の死と復活を予告する記事がありますが、そこでの弟子たちはその意味を理解しませんでした。ペテロなどはイエスさまをわきへ連れて行って、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』といさめているほどです。ペテロはそこでイエスさまに何と言われたかといいますと、 『サタン、引き下がれ』です。しかしこの山上の変貌を目にしたときは、「うちの先生はただラビではない、ただの先生ではないぞ」と感じたはずです。何せ 『これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの』 という天からの声も聞いてしまうのですから。
モーセとエリヤの話に戻ります。モーセはイスラエル民族の原点ともいうべき出エジプトのリーダーで、神さまからシナイ山で直接契約を頂いた人物です。律法はその十戒からスタートしていますから、彼は間違いなく律法の代表者です。一方エリヤもまた預言者中の預言者であり、ヤーウェ信仰の救いの道筋を示した代表的人物です。このモーセとエリヤが現れて、イエスさまと語り合っていたというのですから、これは明らかにイエスさまが律法と預言を成就するお方だという宣言でしょう。律法と預言は旧約聖書の中身の中心ですから、イエスさまによって旧約は完成される、ということでもあります。
マルコの記事を土台にして、マタイもルカも編集作業を進めたわけですが、わたしたちは、この編集作業の中に表現されている幻を目撃した三人の弟子たちの証言という部分にまず信頼を置く姿勢が必要だと思います。そこにしっかり立つと、イエス・キリストとは誰か、という問題が解き明かされてきます。イエスさまが明確に神の子であること、またイエスさまの口から出た一つ一つの言葉の意味がより一層深められてきます。わたしたちがこの記事を、イエス・キリストとは誰か? というはっきりした意識をもって読み進むとき、わたしたちには、神さまのこと、また自分自身の人生の諸問題についての新しい目が開かれていくように思います。
ペテロたち三人の弟子たちは、イエスさまの変貌を目の当たりにしたことで、新しい目を開かれてきます。モーセとエリヤはそれぞれ偉大な人物ですが、律法はパウロが格闘したように、真の人生の解決の鍵にはなりませんでした。預言は大切な方向性を示してくれましたが、イエスさまが現れるまで真のメシア到来にまでつながりませんでした。ペテロは驚き圧倒されている中で、思わず 『仮小屋を三つ建てましょう』 と口にしてしまいましたが、これは何が何だか分からないうちに口をついて出てしまった言葉です。仮小屋(σκηνος)というのは、天幕・小屋・住居という語の訳ですが、ペテロは三人が栄光の体をもって現れているのに、とっさに住まいが必要だと考えてしまったのでしょうか。何にせよ、状況を正しく把握していなかったことは確かです。
5節には 『光り輝く雲が彼らを覆った』 とありますが、これはモーセとエリヤとがイエス・キリストの輝きで、その存在意義を反映していたように、わたしたちの苦難と憎しみが満ち満ちている厳しい人生においても、主イエス・キリストの光が反映し、喜びに満ちた平和な人生へと転換していただけることが暗示されています。ヨハネ福音書に 『わたしは既に世に勝っている』 とあるように(16:33)、主イエスは、たとえ現実の生活に苦難があっても、勇気を与えてくださるお方なのです。
もう一点、主イエスが山を下りる記事が9節にあります。ここで弟子たちに命令された言葉があります。『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』 。いわゆる「メシアの秘密」ですが、ここで秘密にされる内容は復活です。山上の変貌を経て山を下りるときに、わざわざ復活に触れられているということは、そもそもこの物語には復活伝承が関係していただろうことを窺わせます。もとは三人の弟子に対する復活顕現物語であったかもしれません。 聖書学者はそのあたりのことを、使われている語が復活顕現によく用いられる用語であるとか、いろいろ説明してくれます。それによく考えてみますと、光輝く衣服といったイメージは、イエスさまの復活をお墓で女性たちに告げ知らせた天使のイメージとも重なります。復活顕現物語の伝承は多様ですが、イエスさまの顔が太陽のように輝いたとか、光輝く雲が覆ったとか、こうした表現は復活後のイエスさまの姿を彷彿させます。ですからこの山上の変貌物語の中心はもちろんイエス・キリストのメシア性の確認にあるのですが、本来は復活伝承に関わっていたと見てもよいのではないでしょうか。
マタイは顕現物語の編集作業の締めくくりにイエスさまの沈黙命令という形で復活への連続性を保持したのではないかと思うのです。マタイ福音書の成立を紀元80年代と見ますと、著者は復活後の教会の宣教を視野に入れて、今こそ教会はイエス・キリストの復活を積極的に述べるべきだという主張をしているのではないでしょうか。沈黙命令と対比させる形で復活が強調されています。ユダヤ教の学者のように単に未来のメシア像に期待するのではなく、今わたしたちの前には復活の主イエスがおられるのだ、というユダヤ教から完全に脱皮したキリスト教の姿があります。人々を死の苦しみや恐れから救い出していくキリスト教がはっきりと打ち出されています。死の恐怖から人々を救う力こそキリスト教の真骨頂であることを現代のわたしたちも再確認したいと思います。