2014.1.19

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「落ち穂拾いの背景」

秋葉 正二

ルツ記2,1-16; ルカによる福音書14,13-14

 ルツの話には何とも心温まるものがあります。姑ナオミと嫁ルツの仲睦まじい関係が農村民話風に描かれています。時代設定は冒頭に『士師が世を治めていたころ』とありますから一応士師時代です。イスラエルの女性ナオミになぜモアブ人のルツが絡んでいるのかと言いますと、そもそもはイスラエルに飢饉があったので、ナオミ夫婦がモアブの地に移り住んだというのが始まりです。異邦人、しかも多くの場合当時あまり顧みられなかった女性が主人公として登場し、彼女が異邦人であるにも拘わらず、ねんごろにイスラエルで処遇されたというストーリーは、旧約の物語では珍しい状況設定です。士師時代と言えば紀元前11世紀頃から13世紀頃を考えますが、内容的にはダビデ王の先祖の話として組み立てられていますので、文書編集の意図も物語の進行に合わせて考えてみる必要がありそうです。

 さて、きょうのテキストは夫に先立たれたルツが故郷に帰らず、姑のナオミと一緒にナオミの故郷ユダに帰ってからの話です。当時寡婦となった女性が生きていくことは大変なことでしたが、イスラエルは寄留の他国人と孤児と寡婦を保護する規定をちゃんと持っていました。それが落ち穂拾いの規定です。レビ記19章9,10節にはこうあります。『穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。』

 また23章22節にもこう書いてあります。『畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。』 刈り尽くしてはならない、拾い集めてはならない、と言われた後、「わたしはあなたたちの神、主である。」と神さまが念を押すように付け加えられるのがとてもおもしろいと思いました。さらに申命記24章19節以下にも落ち穂拾いの規定があります。そこで対象になっているのは、寄留者・孤児・寡婦であり、主がこのように命じるのはイスラエルのあなたたちもかつてエジプトで奴隷であったからだと理由も示されています。寄留の他国人や孤児や寡婦にはイスラエル共同体の一員としての土地を所有する権利がありません。ですから農耕を生産手段とする社会では立場が弱く、圧倒的に不利です。そうした人々の生活を保障するためにイスラエル共同体は配慮していたわけです。いまから3千年以上も昔の話です。凄いと思われませんか。オリーブの実の取り入れでもぶどうの摘み取りでも、まったく同じことが言われています。しかし、きょうのテキストでも、そもそもの話の発端はイスラエルに飢饉があったということですから、美しい話の裏には、厳しい生活を乗り切るための戦いがあったことが窺われます。整った社会保障制度のなかった時代にはこうした相互扶助がどうしても必要になり、イスラエルでは民族の違いを超えた点において、広い普遍性を持っています。

 この古い物語は現代の私たちに、昔の落穂拾いに帰れと言っているわけではありません。けれども、共同生活の在り方に関する基本姿勢を指し示してくれていることは確かでしょう。そこにはただ単にお金を出して施設さえ作ればよいというような発想を、強く戒める声があるように感じます。現代では公的な保障や福祉政策が求められることになるのですが、なぜそうしなければならないのかをルツの落ち穂拾いの物語は教えてくれていると思います。本来はまず家族の中で互いに支え合うということがあるでしょう。そこからもう少し広がって、地域における助け合い・支え合いが始まります。その先はおそらく病院とか施設ということになるのですが、たとえ施設に入ったとしても、家族は知らん顔ではいけないのです。

 前任地砧教会では昨年に続いて今年も年間テーマを「高齢者と共に生きる」ことに焦点を当てました。本来は全世代を念頭に置いて、共に生きることを目指しているのですが、現実には高齢者が多くなったために高齢者にスポットライトを当てたわけです。私は牧師としてできるだけ高齢者の皆さんに触れようといくつかの高齢者施設に通い続けてきました。元礼拝生活を送られてきた方と言っても、いろいろな方がおられるのです。一番気になったのは、家族がほとんど来ないという状況に置かれていた方々です。身体がいうことを聞かなくなって外出もままならなくなった時、家族の訪問がなかったらどうでしょうか。本当に寂しいと思います。施設間の落差の問題もありました。実にきれいで諸設備が整った施設の個室で生活される方もいれば、建ってから何十年も経てかなりくたびれた施設で一部屋に複数の人たちと生活されている方もおられます。ルツの物語は、麗しさの背景に、共同生活における相互扶助、あるいは超高齢化社会ににおける相互扶助の在り方を映し出しているように思えます。単なる嫁と姑の仲良し物語として読み飛ばせない深い内容がルツ記にはあるように思います。

 時代が変わり、社会の在り方が変わっても、人が基本的に受け継ぐべき大事なものをルツの落ち穂拾いは提示しているのではないでしょうか。古代イスラエルはさすがです。この問題を、家族や部族の枠を超えて、抑圧されていた他国人にまで視野を広げているのですから。イスラエルの信仰の特徴がここにあります。マタイ福音書12章1-8節ではイエスさまと弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで、落ち穂拾いの権利を行使していたことを思い出します。お腹が減ったので弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めた時、ファリサイ派の人たちが安息日違反だと騒ぎました。イエスさまは何とお答えになられたか。こうあります。『言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、“わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない"という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。』。

 

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