2014.1.12

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「‘山上の説教’から歩む一年」

秋葉 正二

申命記8,5-6; マタイによる福音書5,43-48

 今年も世界の民族問題は厄介な火種をたくさん抱えているようです。中でも中国やロシアの少数民族問題は、誰が見ても簡単には解決されそうにありません。日本でもずっと前から、アイヌの人たちや沖縄の人たちが民族としての存在証明を主張してきました。けれども多くの日本人にはそうした声は、他人事としてしか聞こえていないようです。イエス様の死後、ユダヤ教からキリスト教が生まれましたが、ユダヤ教はあくまでもユダヤ人の宗教であったことに対し、キリスト教は明確に民族を超える視点を備えていました。このことは、宗教を考える上でとても大きな意味を持っています。

 

 およそ世界宗教と呼ばれるものは、民族を超えて世界で広く信仰される素地を持っています。キリスト教の場合、それは何かと言えば、イエス様ご自身の中に広い包容力と言いますか、ユダヤ教では考えられなかった革新的な考え方があったことです。その革新性の代表的なものが、「敵を愛する」という思想です。おまけに、神様の捉え方にしても、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」 と言い放っていて、これを聞いた人はさぞかし驚いたことでしょう。私たちの中にも常識的に、悪人と善人が同じように扱われるのではたまらない、という考えがあるはずです。それではこのラディカルなイエス様の言葉をどう受け留めたらよいのでしょうか。キリスト教が世界宗教として認められている以上、私たちも自分達が信じる神様がキリスト者だけの普遍性に留まらないということから出発する必要があるようです。

 この20年くらいのことですが、日本ではさかんに唯一神教は排他的だという主張が目立つようになりました。私の記憶では、最初に唯一神教の排他性を唱えるきっかけをつくったのは梅原猛さんだったように思います。梅原さんはもともと西洋古代史を学ばれ、西洋哲学を専攻された学者ですが、いつの頃からか、興味の対象を国内の歴史や宗教・思想、とりわけ仏教の方に向けられ、仏教関連の著作をたくさん著されるようになりました。梅原さんの本はとても興味しろいのです。キリスト教にも素養のある方ですから、議論が薄っぺらではありません。法隆寺について論じた「隠された十字架」とか「哲学する心」とか、なかなか読ませます。

 もう20年近く前のことですが、ある年の正月の朝日新聞の特集記事で大々的に唯一神教の排他性を指摘しておられました。キリスト教も唯一神教の一つですから、これは聞き捨てならんと読んだ記憶があります。以来梅原さんの著作には注意を払ってきたのですが、その主張の中には、どんなものでもおだやかに広い心で受け入れ、神として祭ってきた日本の歴史、日本的精神を今こそ見直そうという願いがあるようです。2001年にアメリカで9.11テロが起きましたが、こうした事件は、日本国内ではキリスト教やイスラム教がやり玉に挙がって、唯一神教は排他的だからこうなるのだ、といった論調がいくつもありました。環境問題でもキリスト教は自然を支配してけしからん、としてだいぶ攻撃されました。ところで、なぜこんなことを申し上げているかと言いますと、年の始めにこれからの一年の覚悟と言いますか、考える方向性を定めておきたいな、と考えたからです。敵を愛するという、山上の説教の代表的な主張を私たちの物事を考える土台に定めることはできないでしょうか。唯一の神のみを愛するということを、固定的に考えたくないのです。

 

 「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる」 と言われてしまうと、気分的におもしろくないけれども、そうかと言って、善人だと自負している自分だけに太陽が昇ればいいのか、と問われれば、それはちょっと言い過ぎかなとも思ったりします。神学校の時、宗教学の授業で理科大の哲学の先生が半年程教えてくださいました。テキストは親鸞の歎異抄で、毎回ワイワイガヤガヤやったのですが、よく覚えているのは、あの有名な「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」について、講師の先生がこれはとてもキリスト教的だと指摘されたことです。いわゆる悪人正機説ですが、これは世界の神の普遍性の問題を仏教の世界で扱った言葉だと思います。「悪人でさえ往生するのだから、ましてや善人は言うまでもない」と言ってくれたら常識的にすっきり理解できるのですが、そうではないわけです。親鸞が言ったのは、「善人でさえ浄土に往生することができるのだから、ましてや悪人は言うまでもない」ということです。善を自力で修める人のことを善人といい、この反対の悪人とは他力の人を指していると理解すると、仏教の自力、他力の意味がよく分かります。そこでは、自力に囚われないで、ひたすら阿弥陀様にお任せするしかないのが悪人なのです。

 キリスト教で言いますと、パウロの在り方を思い出すとよく分かります。彼は律法世界に生まれ育ち、それを学んだのですが、律法と格闘した結果、それでは救われないことに目覚めます。イエス・キリストを信じる信仰だけが自分を救ってくれることに気づきました。親鸞の言葉には「本当に自力だけで生きていけるのですか?」という強烈な問いが含まれています。煩悩から解き放たれようと厳しい修行に明け暮れた親鸞と、律法と格闘したパウロはある意味とても似ているように思えます。パウロは信仰によってのみ救われるということを私たちに書き残してくれたのですが、これは自分の精進とか努力とかによって自分を救うことはできないということですから、きょう私たちに与えられているみ言は、自分を善人だと位置付けたり、「善人こそが救われるのだ」という考え方の限界性を示していると思うのです。換言すれば、人間を善人・悪人と単純化することなど出来ないし、ましてや自分を善人と見做すほど傲慢なことはない、ということでしょう。

 きょうのテキストは「敵を愛せ」という文脈の中で、悪人とか善人とかの表現が出てきているのですが、おそらくここからは、「本当は敵も自分もないのですよ」「異邦人もユダヤ人もないのですよ」というイエス様の声が聞こえてきそうな気がします。人間を創造された神様の目から見れば、人間どうしが「あいつは悪人で、こいつは味方だ」などとやり合っているのは、きっと愚かで小さいことなのだろうと思います。私たち人間の認識には限界があります。ですから私たちは様々な観点から物事を捉える努力をするべきです。でも、きっとその限界を乗り越えることなど出来ないと思いますが、そういうことを意識して努力することに意味があるはずです。人間を敵味方、悪人善人に分けてしまえば、誰だって自分を善人に数えてしまうでしょう。ましてや誰かと意見が衝突していれば、相手は敵で悪人になり、自分は善人になります。イエス様はそうした人間の限界を見極められて、山上の説教をされたのではないでしょうか。ですから、イエス様の言に触れた私たちが受け留めなくてはならないことは、他人がどうこうではなく、自分はどうして生きていくか、という問題になってきます。

 

 神様の前に立たされている自分の姿を、私たちは目をそらさずに見なければなりません。世界宗教と認められているキリスト教の神様は、自分達だけの神様ではありません。私たちが敵だとか悪人だとか見做しているあの人の神様でもあるということです。私たちが誰かを敵を見なす場合、それ相応の理由がありますが、それを承知された上で、イエス様は「迫害する者のために祈りなさい」と言われるのです。

 戦後の西ドイツは経済発展に伴って必要になった労働力を、トルコの労働者を大量に入れてまかないました。国の背後にキリスト教がありますから、その視点から人道的に彼らを迎え入れました。貧しいトルコの人たちはドイツに行けば稼げるというわけで大量に押しかけ、多くの人が親戚までも呼び寄せるということをやってきました。ところが東西ドイツが合併すると、東の貧しい人たちが大量に生まれて、さすがにドイツも大変になりました。こうなるとどういう声が起こるかと言いますと、「トルコ人は出て行け」「俺たちの職場を奪うな」です。ネオ・ナチのお兄さんたちはその先頭に立つわけです。

 

 人権を強調して貧しい国の人々を移民としても受け入れてきた国でも、上から眺める余裕があった時にはよかったのですが、今や自分たちも大変な状況だということになると、一転して排斥です。日本はと言えば、強調すべき人権さえありませんでした。必要な時に穴埋めしてくれる単なる便利な労働力が問題なのであって、そこに人間を見つめる視点はほとんどなかったと思います。

 イエス様は私たちに言われるのです。「人を愛するのに条件があるのですか?」もちろんこの問いは世界宗教であるイスラム教にも仏教にも向けられています。私たちはキリスト者として、こうした意味で自己を相対化できるかを問われています。世界宗教であることは、実は大変なことなのだと思います。この一年、私たちの耳に響いてくる「山上の説教」の声を意識して歩めればいいな、と願っています。

 

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