I
私たちの日常生活で、誰かや何かを讃えて皆で歌うことは少なくなりました。私たちに親しいのはニュース報道などの「情報」系の言語、コマーシャルや娯楽番組などの「消費」系の音楽などです。教会その他の宗教団体で歌う賛歌を除けば、何かを讃えて歌うといえば、もはやお誕生日の「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー」くらいではないでしょうか。
先日、勤め先の大学で、例年どおりにクリスマス礼拝がありました。そこに参加した卒業生の方が、礼拝後にお手紙を下さいました。キリスト教主義の学校に通う学生たちにとって礼拝に参加して、いっしょに賛美歌を歌い、聖書のお話しを聞き、心を合わせて祈るという経験ができること、そうすることで美しい心を育てることができるのは、この上なく幸せなことだ。一般大学では、教育の中でそのような機会をもつことはおよそ不可能だ、という趣旨のことが書かれていました。
私たちの日常生活から「賛歌」が広範囲で失われていることは、この世界に美しいものがあることや、私がある共同体に属していることの意味を感じとる機会が少なくなっていることを意味するかもしれません。
II
今日のテキストであるルカ福音書のイエス誕生物語には、後の教会の典礼でたいへん重要になった賛歌が三つ伝えられています。
ひとつめは天使ガブリエルから受胎告知を受けたマリアが歌う賛歌です(1,46-55)。ラテン語を使う西方教会では、その出だしは以下のようです。
冒頭の一語に因んで「マニフィカト」と呼ばれる有名な賛歌です。
続いて二つめは、洗礼者ヨハネの父ザカリアが息子の誕生を受けて歌う、ザカリアの賛歌です(1,68-79)。同様にラテン語版の出だしは以下のようです。
この賛歌もまた、冒頭の一語に因んで「ベネディクトゥス」と呼ばれます。
そして三つめが、今日のテキストであるシメオンの賛歌です(2,29-32)。イエスの両親が神殿にお参りしたとき、幼子イエスを腕に抱きとった老シメオンが歌います。
この祈りは教会典礼では、就寝前の祈祷として、また内容からお分かりのとおり葬儀における祈祷としても用いられるようになりました。
以上の三つの有名な賛歌と並んで、マリアへのガブリエルの挨拶(1,28参照)その他から、神の母マリアを讃える賛歌が作られました。
皆さんの頭の中では、いくつかの有名な「アヴェ・マリア」がすぐにも鳴り響いていることでしょう。
さらに、先週の説教でとりあげた箇所、すなわち野原の羊飼いが聞いた天の軍勢による賛歌があります(2,14)。
こうして見ると、キリスト教会がいかに多くの賛歌をルカ福音書に負っているかが分かります。
III
通常の言葉の使い方とは異なり、賛歌にはいくつかの際立った特徴があります。その一つめは、ある対象についてその現実的な状態――例えば身長や体重――を記述するのではなく、あるできごとがもっている意義や輝きを、目の前にある現実を超えて言語化することです。
「マニフィカト」でイエスの母マリアは、彼女の妊娠という小さな現実の意味を、「主」である神は力強く、憐れみ深く、また弱い者の味方であると歌います。「主はその腕で力を古い、思いあがる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く挙げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。
「ベネディクトゥス」では、ザカリアが息子の誕生という現実の意味を、まだ見てもいないのに、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先だって行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」と歌います。
賛歌の二つめの特徴は、歌う者が観察者・傍観者としてではなく、できごとの当事者として現れることです。
「マニフィカト」のマリアは、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と歌い、自らが神の器として用いられることを同時に告白しています。
同様に、ザカリアの「ベネディクトゥス」では、「こうして我らは敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」、さらに神の「憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と歌われ、ザカリア自身を含むイスラエル民族の運命が視野に入っています。
この最後の点、すなわち当事者としての賛美者が、自分一人のこととしてではなく、民族全体のこととして神を讃えているのが、ルカ福音書に現れる賛歌の第三の特徴です。そのことは、マリアが「私たちの先祖に仰ったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」と歌い、ザカリアが「これは我らの父アブラハムに立てられた誓い」と歌うことで、共通して民族の父祖アブラハムに言及するところからも明らかです。
IV
今日のテキストであるシメオンの賛歌の特徴についてみる前に、物語に描かれた人々の姿を見てみましょう。先ずはイエスの両親から。
ヨセフと母マリアは、長男イエスを神に奉献するために神殿に詣でます。そのさい二人の両親は、たいへん信心深いユダヤ教徒として描かれます。「モーセの律法の定められた」(22節)、「主の律法に言われているとおりに」(24節)、そして「律法の規定どおりに」(27節)と三回も言われています。
物語の冒頭に「清め」に言及があることについては、産褥の清めという意味関連と、ナジル人の誓願という意味関連の二つがありそうです。前者については、レビ記12章に以下のような規定があります。
これは血のタブーにまつわる規定のひとつです。古代イスラエル社会では身体から出てゆくもの――排泄物や嘔吐物、血、精液、抜け毛、フケなど――はすべて、それに触れる者を穢すと考えられていました。
イエスの両親が「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」を献じようとしているのは(24節)、この規定の貧困者向けのヴァージョン、つまり「産婦が貧しくて子羊に手が届かない場合」を受けているように見えます。
では、私たちの物語で「マリアの清め」と言わず、「彼らの清め」と言われているのはなぜなのでしょうか。イエスもそこに含まれているとすれば、神の前に特別な誓願を立てる献身者「ナジル人」にまつわる規定が関係あるかもしれません。以下は、ナジル人の近くで人が死んで、献身のしるしである髪の毛に穢れが生じた場合に関係します。
つまり産褥の清めと同様に、ナジル人が穢された場合も「二羽の山鳩ないし家鳩」が献じられるわけです。ナジル人サムソンは、生まれてすぐに母ハンナによって、聖所に託されました(サム上1,22参照)。こうしてマリアは産褥から清められ、イエスはナジル人に準じる聖なる者として清められるという観念があるために「彼らの清め」と言われているのかもしれません。
さらに私たちの物語では、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」がゆえに神殿詣でがなされたとあります(23節)。原文は、「母を開く雄はみな、主にとって聖なるものと呼ばれるだろう」です。旧約聖書に、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(出13,2その他)とあるのを受けています。
イエスは家族の最初の男子として神に属します。しかし家族はこの子を必要とするので、神に献げ物をすることで、いわば「買い戻す」わけです。どうしてそんな習慣があるのでしょう?
アジア地域のある国には、親が赤ん坊を神の前につれて行き、「あぁ、なんて醜く、可愛らしくない子どもでしょう!」と大きな声で嘆くという習慣があると聞いたことがあります。〈神に愛され過ぎる子どもは早死にする〉という考え方を前提に、子どもの長生きを願うためです。――子どもの誕生は、どの文化にあっても、親の力を超えるものとの関わりを感じさせるのでしょう。
V
他方でシメオンは都市エルサレムの住民のようです。――義人で信心深く、イスラエルの慰め(励まし)を待ち、聖霊が彼の上にあったと言われます。さらに彼には、「主のキリストを見るより以前に、死を見ることはない」という聖霊の徴が与えられていました(26節参照)。
イエスの両親の描写で「律法」が強調されていたのと同様、シメオンについては「聖霊」が強調されます。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)、「お告げを聖霊から受けていた」(26節)そして「霊に導かれた神殿の境内に入ってきた」(27節)と。
とりわけ「イスラエルの慰め」を待ち望むという筆致は、有名な第二イザヤの冒頭句を想起させます。
高齢のシメオンは、この約束の成就を幼子イエスに見てとり、その証人になるという役割を果たすわけです。
VI
では、最後にシメオンの賛歌「ヌンク・ディーミッティース」(29-32節)を見てみましょう。
シメオンは、遠くない将来に訪れる自分の死を、神が成就させる約束とのつながりで見ています。前半でシメオンは神が彼に何をしたかについて、すなわち彼の生涯の最後に「救い」のしるしである幼子キリストを見せたことについて述べます。後半では、この幼子キリストの意義が、「すべての民々の面前に供えられた」救いであると、より正確には、イスラエルのメシアが異邦人に神の本質を啓示する光である、と言われます。
ここでも、幼子イエスという小さな現実を超える彼の大きな意義が言い表され、シメオンはこのできごとを待ち続けてきた当事者として現れ、それが「すべての民々」という共同性と結合しています。つまり「マニフィカト」や「ベネディクトゥス」と同じです。
しかし違う要素が一つだけあります。それはシメオンの賛歌では、「あなたの民イスラエルの輝き」という民族主義が、「すべての民々の面前に備え」られた「救い」ないし「諸民族の啓示に至る光」という普遍主義と結合されている点です。
「マニフィカト」では、「その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、憐れみを忘れず」(1,54)とあるものの、異邦人についてはとくに言及がありません。ところが「ベネディクトゥス」では、「我らのための救いの角…それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」と言われており、異教徒たちは「敵」に分類される可能性があります。
しかし「ヌンク・ディーミッティース」では、「諸民族の啓示に至る光」こそが、「あなたの民イスラエルの輝き」です。
私たちの賛美もまた、自分たちの個性を重んじつつもその限界を謙虚に受け止め、神の約束が私たちの予想を超えて広がってゆくことに希望を寄せるものでありたいと思います。新年に新しい主任牧師を迎えるこの小さな群れに、神さまの祝福をお祈ります。