I
イエスが命じる「敵への愛」は、キリスト教の代名詞である「隣人愛」よりも徹底した教えです。「君の隣人を君自身のように(/君自身として)愛しせよ」という同胞への愛や(レビ19,18参照)、「互いに愛し合え」と教える共同体内部の相互の愛は(ヨハネ13,34参照)、もちろん素晴らしいことではありますが、ある意味では当然あるべき姿です。マタイのテキストに、そんなことなら「徴税人」や「異邦人」もしているではないか、とあるとおりです(46節参照)。
これに対して「敵を愛せよ」という教えは、ちょっと尋常ではありません。そんなことができるわけがないという反応は、極めて自然です。少なくとも浮世離れしている印象があります。他方で、通常の隣人愛は「仮想敵」の想定を必ずしも排除しません。〈仲間を愛し、敵を憎め〉というぐあいに。これに対抗できるのは「敵を愛せよ」という教えだけではないかと思います。
じっさい「敵」が敵であり続けるかぎり、平和は訪れません。敵を憎むことに代えて「愛する」こと――少なくとも相手を理解しようと努力すること、まったく理解に苦しむ相手であっても好意をもって見守ること、少なくとも攻撃しないこと――を通してしか平和は来ません。
昨今の集団的自衛権をめぐる論争で、これを推進する側の意見には、例えば次のようなものがあります。すなわち敵が攻撃してくる可能性が高まったのだから、防御ないし反撃の態勢を整えておく必要があり、そのさいには防御も反撃も同盟国といっしょになって行うのが効率的だ。簡単に言えば、「敵は敵」なのだから「備えあれば憂いなし」というわけです。
私が心配なのは、軍備は常に肥大化し、武器はハイテク化する傾向にあり、いったん高性能の兵器が使用されれば、自国民すら滅ぼしかねないほどの破壊力を備えていることです。さらに米国は世界中の軍事予算の合計の半分を占めるほどの、ダントツ世界一位の超軍事大国ですが、日本の防衛予算も世界第4位にランキングしていることです。この二つのパワーがタッグを組めば、間違いなく世界最強です。そしてこのことが、弱小国の終わりのない反発を招くのです。防衛も反撃もしばしば過剰反応になりがちであることは、言うまでもありません。
もっともマタイ福音書の「敵を愛せよ」という教えは、戦争における敵軍のような国家の敵ではなく、マタイ教会が存在する限られた社会生活における〈不仲な隣人集団〉を問題にしているのだ、という学説もあります。マタイ教団が住んでいた町で、彼らのかつての出身母体であり、今はいじめをうけている――「君たちを迫害する者たち」(44節)――ユダヤ教の会堂連合のことではないか…。
II
いずれにせよ、イエスが語った教えの原型と思われるものから話を始めましょう。
私は君たちにいう、 君たちの敵を愛せよ、そして君たちを虐待する者たちのために祈れ。
そうすれば君たちは、君たちの父なる神の子らになるであろう。
なぜなら彼〔=神〕は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を注がれるのだから。
敵を愛せよ、「そうすれば」君たちは神の子らになる。「なぜなら」太陽と雨に、神の普遍的な愛は表れているから。――そうイエスは教えます。
敵を愛するとは、「神の子ら」が行うことです。言いかえれば、「この世の子ら」にはそれはできません。敵を愛するとは、神が創造する「新しい人」がなす行為、この世界の彼方からやってくるふるまいです。この教えに反発を覚えたり、無視したりするのは当たり前なのです。
他方で、太陽と雨は、創造神の愛が普遍的であることのしるしとされます。しかし自然をどう理解するかには多様性があります。先日、伊豆大島に記録的な豪雨が降り、土砂崩れが起こってたくさんの方々が亡くなられました。これの、どこが神の愛なのでしょうか?
旧約聖書を見ても、ある地域によい太陽が照り、ある地域に日照りが生じるのは、因果応報の神がそうしているのだという理解があり、善人にも悪人にも等しく襲いかかる自然災害は怒りの神がやみくもな破壊を行っているのだという理解があり、あるいは自然現象は、そもそも神が人の営みに対して無関心であることの証拠だという理解もあります。
あるいは、次のような言葉も伝えられています。
もし君が神々を真似るのであれば、感謝しない者たちにも恩恵を与えたらどうか。太陽は極悪人の上にも現れ、海洋は極悪人のためにも広がっているのだから。
ローマ人でストア派の哲学者セネカの言葉です(『恩恵について』四・二六・一)。一見すると、イエスの教えにたいへんよく似ていますね。しかし「感謝しない者たちにも恩恵を与えたらどうか」とあるときの「者たちにも」という〈付け足し〉表現に注目して下さい。恩知らずの者たちにも恩恵を与えることの根拠を、セネカは続けて次のように説明しています。
神々は、それらの物を善き人々のために用意したのだ。しかし、それらは悪人たちにも与えられる――彼らだけを切り離すことはできないからである。
つまり善人によいものを与えるためには、悪人にも同様にしてやる他に方法がないから、〈ついでに〉そうしてやるのだという訳です。これを〈敵への愛〉と呼ぶことはできませんね。
これに対してイエスの発言の論理は、以下のようなものだと思います。神は人を新しく創造し、彼らを敵をも愛する「神の子ら」にする。新しくされた人間は、当然ながらこの世界を新しい光のもとで認識する。そのとき何気ない自然現象である太陽と雨は、神の普遍的な愛――旧世界にいう「敵」にまで到達する創造神の配慮――を証言するものであることが判明する。
ポイントは二つあります。第一に世界は、世界を超える――人が「神の子ら」になる――視点から見て初めて、真実の姿を浮かび上がらせること。そして第二に自然界は人間にとって勝手に浪費してよい「資源」ではなく、むしろ「生存環境」だということです。これは戦争が最大の環境破壊であることの、ちょうど正反対の認識といってよいでしょう。
III
人間について考えてみましょう。「敵への愛」は非常識です。「自分の敵に出会って、その敵をぶじに去らせる者があろうか」とは聖書に出てくる言葉です(サム上24,20)。
隣人愛を命じるレビ記19章をさきほど朗読しましたが、文脈は明らかにイスラエル共同体内部の秩序です。
あなたはけっして、あなた自身の民の子らに復讐しようとしたり、怨恨を抱いてはならない。〔むしろ〕あなたは、あなたの隣人に対し、あなた自身と同じような者として友愛をもって接しなさい。わたしはヤハウェである。(レビ19,18の岩波訳)
「あなた自身の民の子ら」と「あなたの隣人」が並行関係にあることに注目して下さい。もちろん旧約聖書は〈寡婦と孤児の権利を守れ〉〈寄留の外国人を乱暴にあつかってはならない〉という教えを含んでいます。それでも異邦人は、律法を知らないがゆえに端的に「罪人」と形容され、基本的には排除と憎悪の対象でした。もっとも離散のユダヤ人が異教的な社会環境で生活するときには、いつも争っていたわけではありません。基本的には共存していました。また異邦人が――男性であれば割礼を受けて――ユダヤ教に改宗する事例もありました。
イエス時代、死海のほとりで集団生活を送っていたと思われるクムラン教団の独自文書に『宗規要覧』と通称されるものがあり、その一節に以下のような文言が現れます。
すべての光の子らをおのおの神の会議に入るべきその地位に応じて愛し、すべての闇の子らをおのおの神の報復に入るべき、その罪に応じて憎むこと。(1QS 1,9-10)
エルサレム神殿から離脱した祭司集団を中核とするこのセクトは、自分たちを「光の子ら」と、そして外部世界を「闇の子ら」と見なしたようです。そして自分たちには「愛」を、他方で外部の者たちには「憎悪」を求めたのです。
しかも愛にも憎悪にも、その度合いに〈多い少ない〉のグラデーションをつけることまで要求されています。すなわち「光の子ら」は「神の会議に入るべきその地位に応じて愛し」、他方で「闇の子ら」は「神の報復に入るべき、その罪に応じて憎む」。――「神の会議」とはこのグループの教会総会のようなもので、そこに地位なり次席なりのランキングがあったのでしょう。
内部者への愛情や、外部者への憎しみにランクに応じた濃淡をつけるなんて、何ともナンセンスな印象を受けます。しかし現代日本でも、じっさいに日本国籍をもつ者ともたない者がまず区別され、次にそれぞれのグループの内部に、社会の決定プロセスに参加する上での発言権の大小の差があることを思えば、あまり笑えません。
マタイ福音書の編集者が、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と――レビ記が隣人愛の教えに続けて、「敵への憎悪」を命じていないにもかかわらず!――述べているのは、社会的に規則化された「愛」には、そこから排除される者たちへの「憎悪」を正当化する傾向があることのしるしなのです。だから、これを乗り越えるために、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えます。
ここでもポイントは二つあります。第一にこの教えは、人を一人の本物の主体として立たせます。第二に「敵を愛せよ」という教えは、私たちの心に、無条件の愛への限りない憧れを思い起こさせるのです。
IV
「敵を愛せよ」という教えは、すでに存在している現実を描写するものではありません。むしろ新しい現実を創造するよう促す発言です。この教えを語る者は、独り言を言っているのではありません。具体的に他者に語りかけています。「敵への愛」はコンピューターゲームの中で呟いても無意味です。むしろ具体的にその教えを生きることが求められています。
そのことを目指して、イエスは太陽と雨を指さします。これは文化的なバリアーを超えるチャンスのある発言です。旧約聖書を知らなくても、神が世界の創造神であることを信じていなくても、人間であれば誰でも太陽と雨の恩恵を受けて生きているのですから。
あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなりなさい(48節)。
いったい何について完全であれというのでしょうか? もちろん純粋な愛が無限であることについてです。なぜ、そんなことが私たちにできるのでしょうか? 神が私たちを「神の娘たち・息子たち」にするからです。
ピースメーカーたちは幸いなるかな。彼らは神の子らと呼ばれるであろう。(マタイ5,9参照)
イエスも、ガンジーも、マザーテレサも、ボンヘッファーも、マーチン・ルーサー・キングも、みな神の息子たち・娘たちです。
キング牧師の言葉に、次のものが伝えられています。
Almost always, the creative dedicated minority has made the world better. (ほとんどいつも、創造的で献身的な少数者が世界をより良いものにしてきた。)
「創造的な少数者」とは、かつて村上伸牧師が、私たちの教会が目指すべき姿として用いた言葉です。キング牧師の発言では「創造的な」の後に「献身的なdedicated」という言葉が入っていますね。「ひたむきな」と訳してもよいでしょう。
私たちも、そのような者たちになりたいですね。