2013.10.6

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「死んでいたのに生き返り」

陶山 義雄

エレミヤ書31,31-34; ルカによる福音書15,11-32

 5月26日の日曜日から数え続けて来ました三位一体の聖日は本日、その第20主日を迎えています。これもあと3回で終わり、その後はいよいよ新しい年から逆算して聖日を数える、新年・準備の礼拝に変わります.。そこでローズンゲンでは、そろそろ1年を締めくくる準備の聖句が組まれ始めています。今週の聖書は「罪を悔い改めて、新しい命に生きる」ことに向かって、テキストが選ばれています。ルカ福音書15章の「放蕩息子」の譬話は、教会暦のそのような関連の中から選ばれています。これは余りにも有名な譬話ですから、殆ど説明を必要としない、どなたもご存知の話しであろうと思います。イエスは譬で多くの話を人々になさいましたが、どの譬話もそれを作った方の優しさが滲み出ているように見受けます。聞く人の力に応じて、子供でも、大人でも分るように話すために、こうした譬話は最も優れた話し方であり、誰にも親しみをもって受け入れられたに違いありません。物語でありますから、色々な理解と解釈をもって聴衆は受け止めたに違いありません。これを父親の側に立って見るのか、或いは放蕩の限りを尽くした挙句、親元に立ち返った息子の側に身をおいて見るのか、或いは、兄に同情して見るのかによって、理解も違ってくるからです。譬話を理解する秘訣を敢えて申し上げれば、イエスは、誰もが日常生活で経験して来た出来事から物語を造っておられるので、普段、私たちが営んでいる生活を土台にして、イエスの話しに迫って見ることが理解の秘訣であると思います。

 皆さんは、物を忘れたり、失くたりして、遺失物取り扱い所のお世話になったことはないでしょうか。私の場合、そう多くはありませんが、最近の事では、傘を電車の中に忘れてしまったことがありました。直ぐに気がついて駅員に申し出た所、親切にもその駅員は次の駅・終点高尾駅に連絡を取って、高尾の駅員が停車中の車内で見つけて下さりったので、駅の遺失物取り扱い窓口へ取りに行きました。つまらない傘でも見つかると、それは大変嬉しいものです。もう、ひと昔前のことですが、イギリスのロンドンで、あの二階建てのバスの中にカメラを忘れてしまったことがあります。直ぐに気がついて、次のバスに乗り込んで車掌にその旨申し出たら、運が良ければバスの車掌、もしくは、乗客の誰かが見つけて、遺失物取り扱いの事務所に届けてくれる筈だから、と言ってその場所を教えてくれました。カメラそのものよりも、撮った写真が惜しいと思い、その翌日出かけましたら、何と届けられていたのです。その喜びはヒトシオのものがありました。以来、ロンドンは私にとって忘れ難い思い出の地となりました。その事務所には LOST AND FOUND と書かれた看板が掲げられておりました。まさに、ロスト アンド ファウンド 失われたものが見出される場所であり、遺失物が見つかった場合には、どんなに嬉しいことか、さながら、救いとはそうした状態であるような気がします。

 イエス・キリストは、こうした日常生活で良く起きる出来事から、悲しみが喜びに変わるドラマを心得ておられるかのように、ロスト アンド ファウンド を譬話に織り込んでおられます。「失われた羊」の譬話(ルカ15:1〜7//マタイ18:12〜14//トマス107)や、「失われた銀貨」の譬話(ルカ15:8〜10)、そして今日のテキストである「放蕩息子」の譬話(ルカ15:11〜32)、これら3つは、正に ロスト アンド ファウンド 物語の傑作ではないでしょうか。他の福音書では、「失われた羊」の譬しかありません。でも、ルカ福音書記者は、「失われた銀貨」に続けて「放蕩息子」の話しを収録しています。そればかりでなく、これら三物語を15章の所で1箇所にまとめた上に、前置きと結びをつけてくれているので、大変分かり易くなっています。

 15章の前置きである、1節から3節では、こう書かれています:

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。そこで、イエスは次のたとえを話された。」こうして、「失われた羊」の譬と、「失われた銀貨」の譬、そして「放蕩息子」の譬が並べて載せられ、夫々の物語の最後の言葉がファリサイ派や律法学者の不平に対する答えをなしています:

 「失われた羊」の結び7節では:

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 また、「無くした銀貨」の譬の結び10節でも同じような言葉が語られています:

このように、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 そして、第三の譬話「放蕩息子」の結びである31,32節では:

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

 徴税人や罪人と看做されている人々も、元を正せば、同じ民族で、同じ言葉を話す仲間であった筈です。それが、エリート集団であるファリサイ派や律法学者には忌み嫌われ、アウト・カースト(汚れた人たち)として扱われるのは如何なものか。安息日にユダヤ人として為すべき勤めを果たせなかったからと言って、罪人呼ばわりするのは如何なものか。彼らも、わたし(イエス)の話しを聞きに来ているではないか。この言葉にはエリート集団への批判が込められています。神から賜った掟を学べる程の余裕を持ち合わせ、安息日の規定を侵さないで済む程、ゆとりをもって生活が出来ているのが君たちではないか。

 一方では、安息日にも仕事があって休むことなど出来ない徴税人や、経済的に余裕が持てない人たちがいる。あなたたちは、こうした人々を罪人扱いにする。エリート達への批判が、ルカ福音書記者の前書きによって、3つの譬話から語られています。しかし、ルカのこうした前書きと、その枠を取り除いて見ると、3つの譬話は、失われたものが、再び戻って来たことの喜びが主題になっていることが良く分ります。失われた羊の物語には、ヨハネ福音書10章で語られている「良い羊飼」の物語がそのまま当てはまるように思います。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を全て連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので。ついて行く。・・・良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:3,4,11

 羊飼いと羊の信頼関係は、イエスと弟子たち、また、弟子たちと信徒との親しい関係にまで広がります。主にある交わり、教会とはそうした愛の絆で繋がれた集団です。私たちの教会も、そのようにあるからこそ、私たちは交わりの中で信仰生活が許されて来たのではないでしょうか。交わりから一人でも居なくなれば、全体にとって大きな悲しみになりますが、ましてや、良い羊飼いであるイエス・キリストは、この迷い出た一人を探し続けるにちがいありません。それは、弟子達や、教会の指導者にとっても同様です。この譬では、迷い出た羊が見つかっただけに、喜びもひとしおです。この喜びの主題は、続く2つの譬話にも繋がっています。

 すなわち、「失われた銀貨」の譬では、無くしたものが羊から銀貨に変わっています。「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜した結果、やっとのことで見出した喜び」は、貧しい人であればあるほど、良く分る内容です。全財産が、僅か10ドラクメしかなかった主婦。それはおよそ10日分の生活費に相当します。その内、1日分を失くせば、どんなに困ることだろう。譬話を聞く、同じような生活状況を抱えた聴衆には共感できた話です。乏しい生活であるだけに、探し回るのは当然で、たとい、1ドラクメであっても探し続け、見つかった時の喜びも、共感できる人々がイエスの周りにいたことは十分に予想できる所です。そして、この発見は自分1人が喜ぶのではなく、隣近所に呼びかけて「失くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と声をかけることが出来る。そのような近所付き合いが普段からなされている。イエスの話を聞いた人たちはそういう人々であったのです。「一緒に喜んで下さい。」 これは良い言葉ですね。この喜びをルカ福音書記者は「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15:10)と付け加えておりますが、それは、地上の喜びが天上の喜びとなる。教会とはまさに、そのような喜びを分かち合う集団です。

 第三の譬話、「放蕩息子」では、喜びの主題が最高潮を迎えます。この物語に登場する父親は、失われた羊を探し続ける良い羊飼いと同じように慈悲深く、愛に溢れた存在として描かれています。問題は、その愛の絆に結ばれていながら、そのことに感謝するどころか、むしろ、親から離れて行く悲しい物語から始まります。物語の前半は(ルカ15章11〜24節)、父親から離れて自立を図る弟の話が繰り広げられています。「お父さん、私が頂くことになっている財産(ウーシア)の分け前を下さい。」 分け与えられた資産を全部お金に換えて、弟は遠い国に旅立ちます。そこで放蕩の限りを尽くして(原文は「救いがたい仕方で」)全財産を浪費してしまいます。折悪しく、その地方に激しい飢饉が起こって、弟は食べるものにも困り始めます。地元のある人(ポリテース:住人)を頼って、豚飼いになり、誰も食べ物をくれなかったので、豚が食べる「いなごまめ」さえ口にしたくなっています。(イナゴマメ:certonia siliqua パレスチナの至る所に生育する豆科の常緑樹で、貧しい人が 生き延びるために口にする最後の食物です。) そこまで、身を落として、この弟は父親の農園を思い起こし、独り言を言う。そこには深い反省と哀願が込められています:「お父さん(アッバ)のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。そうだ、ここを立ち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。』」

 この放蕩息子を迎え入れる父親の姿は、正に良い羊飼いと重なっています。まだ、遠くにいるのに、あの家を捨てた息子であることを、誰よりも先に発見し、息子が例の懺悔を語る言葉も脇に置いて、雇われ人の1人に「急いで一番良い服を持って来させ、父親自らがこの息子に着せ、さらに、手には「印章付きの指輪(ダクトウーリオン:身分証明になる指輪)」をはめてやり、裸足の足には履物を履かせ、子牛を屠って祝宴をはってこう言います:「わたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに(見失われた状態でいたのに)、見つかったから」一緒に喜んでくれ、そう言って祝宴を始めます。「死んでいたのに生き返り」

 は、復活信仰を暗示しているのかもしれません。それはルカ福音書記者の教会的な発想で、すばらしいメッセージですが、元の言葉では「あなたのこの兄弟は死人であったのに、生きる者となっている。(今、生きている。)」

  譬話の後半(ルカ15:25〜32)は父と兄の論争になり、ムードが一変しています。放蕩息子が父親を「お父さん」と呼んでいるのに対して、兄の方は終止「あなた」と呼んで、まるで他人行儀です(29節の訳では、この冷ややかな兄の態度が読み取れていない:「兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。』と訳しているのですが、この文章はギリシャ語の原文では『このとおり、わたしは何年もあなたに仕えています』となる。また、あなたの言いつけ(エントレー:「掟」と同義)に背いたことは一度もないことを兄は訴えます。にもかかわらず。弟が受けているような宴会は開いてくれなかったし、それどころか、子山羊一匹分けてもくれなかったとの不満を父親に投げ返しています。父親と放蕩息子との間に回復された親密な親子関係は、父と兄との間には初めから無かったように見受けられます。何のために兄は父親と一緒に仕事をしたり、父親の言いつけに従って来たのでしょうか、信頼の関係が見えて来ないばかりか、弟の帰還を素直に喜べない心情と反発の中に、この兄にとっては、兄弟愛や親子間の愛情も見出せません。しかし、父親に注目すれば、放蕩息子に対してとった寛大さと赦しの中にある愛は、そのまま、ひねくれた兄に対しても等しく注がれていることが分ります。そのことは、父親が2つの点を挙げて兄も喜びの祝宴に参加するように呼びかけている言葉の中に見出すことが出来るとおもいます:

 1つは、父親の財産は全て兄のものである、と言うこと(31節)。第2として、そうした兄をもなお、身内として父親は受け入れながら、放蕩息子もやはりお前の弟であり、その弟が「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたので見つかったのだ。だから、祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)、(原文では「楽しみ喜こんで欲しい。」)そのように呼びかけて、親子・兄弟の絆に立ち返るよう、父は働きかけています。

 

 (ルカ福音書記者が、編集作業によって「失われた羊」、「失くした銀貨」と並べて、「放蕩息子と兄の譬話」を置いた場合には、また、少し違った説明が聞こえて来ます。15章2節で語られた:「この人(イエス)は罪人たち(徴税人やアウトカースト)を迎えて、食事まで一緒にしている」とイエスに言ったファリサイ派や律法学者たちへの回答として放蕩息子の話を読むとどうなるでしょうか。兄は掟を守り続けたユダヤ人・ユダヤ教徒であり、無くなった羊や銀貨、それに放蕩息子は異邦人キリスト者である、となり、ルカ教会の内情を反映させいるようです。イエス時代ではなく、ルカ時代の人々に向かって現代化した内容に変えれれています。しかし、)イエスの譬話は、時代を超えた普遍性をもっています。ことに、親子、兄弟の間に様々な軋轢が起きている現代社会にあって、緊密な間柄である筈の絆がゆがんでしまったり、亀裂を生じたり、殺害事件までが入り込んでいるのを見るにつけ、関係の回復はどのようにしたら出来るのか、こうした問題を考える上で、イエスの譬話は示唆に富んでいるように見受けます。

 エリック・エリクソン(1902〜1994)は『アイデンテイテイ〜青年と危機』1968年で、人間の基本的信頼の関係が失われ、回復に向かってどのような経過を辿っていくのかを語っておりますが、それはさながらイエスの譬を下敷きにしているかのように見受けられます。

 子供が生まれて初めて学ぶ基本的行動様式は、「与えられたものを受け入れる」と言うことです。両親、とりわけ母親と一体的な世界の中に生かされています。危険にさらされずに生きていける、と言う無意識の安心感、それはのちに発達する全ての心理的内面的態度の基礎をなすばかりか、成人になってからの宗教(信仰)と深い関わりを持っている、とエリックソンは看做しています。

 乳児期から幼児期、少年期へと成長する中で、自分の意思、したいことが親の意思とぶつかることを体験しはじめます。少年期から青年期にかけて、精神の自立ばかりでなく、社会的にも自立を目指す戦いが起こります。自分の能力に自信を持つかと思えば、相手との違いにコンプレックスを持つことも起こります。それが、放蕩息子のように自立に失敗して挫折することもあるし、また、兄のように一見、真面目そうでありながら、自分が存在することの意味を見失って、対人関係を悪くすることも起こります。青年期に起きる、そうした嵐を乗り越えるにあたって、幼児期に体験した基本的信頼を思い起こし、信頼の絆が嵐の中でも継続してあることを自覚できるならば、解決の道が見えて来ます。放蕩息子が父を思い起こすのに似ています。しかも、新しい未来に向かって再構成されて、「自分が子供のとき、与えられた愛と恵み」と、大人になって将来を切り開く課題とが調和的に結びつけられる時、そこに真の宗教性が確立する、そのようにエリックソンは述べています。

 「私は何者であるのか」と言うことと、「私は何になったらよいのだろうか」と言うことが結びあう所で、人は自分の存在の意味、アイデンテイテイを回復します。(当初、両親と自分との間に結ばれた信頼の絆は、基本的な信頼の関係として幼・少年期に受け継がれながら、大人として社会的に自立するプロセスの中で、基本的な信頼を見失うことがないならば、新たな課題に取り組んでいる中でも、確立されるべきものがはっきり見えています。それが、アイデンテイテイの回復であり、アイデンテイテイの確立になるのです。)放蕩息子が辿った道のりは、正にそのような子供から大人への成長段階に見られる危機であり、それを乗り越える力は、生まれると同時に与えられていた基本的信頼の関係、生き方にほかなりません。放蕩息子の兄は父親の呼びかけに対して、どのように応えたか、譬話にはありませんが、気を取り直し、弟の帰還を父親と同じように喜び、祝宴に加わってこそ、救いがあることに間違いありません。そのように信じて、私たちも、放蕩息子であり、兄であるような自れの過去から立ち返り、神から頂いた掛替えの無い信頼の絆に生きるものでありたいと、願う者であります。「わたしたちは死んでいたのに生き返り」、失われた存在であったのに、見出され、主の交わりにこうして入れられている事を、共た喜び感謝する者でありたいと思います。

 

 祈祷のあと、ご一緒に歌う讃美歌は、世間で大変良く知られた歌で、「アメージング・グレース」と、そのまま英語の出だしで呼ばれていて、これが讃美歌であることの方が忘れられています。奴隷船の船乗りとしてアフリカとアメリカ、ヨーロッパを三角貿易に携わり、黒人を船底に詰め込んで荒稼ぎをしていたジョン・ニュートン(1725〜1807)が、ある時、大嵐にあって難破し、九死に一生を得て回心し、新学校に通い、英国教会の牧師となって作った歌が、アメージング・グレースです。曲は奴隷が口ずさんでいたメロデイーから取られています。回心にあたって、信仰厚かった母の影響が大きかったと彼は告白しています。(この讃美歌を選ぶ前に、私は旧讃美歌の247番を先ず考えました。ところが、これは讃美歌21に載っていないことが分り、第二案としてアメージング・グレースに切り替えました。失われた羊と、放蕩息子の二つが247番には織り込まれていたからです。また、学校礼拝では良く歌われていたばかりでなく、若い人たちの心にも届く讃美歌でした:

讃美歌247番

1.檻を離れ 心のまま さ迷う羊とわれはなりぬ。
 親にさからう 子の如くに、恵みを忘れて 家を捨てぬ。

2.わが飼い主、 主イエス君は、岩山、荒れ野を 洩れず訪ね
 飢え疲れし 子羊をば いたわり抱かれて 帰り給う。

3.そのみ恵み、いかに深き、仇よりわが身を あがない来て
 檻に返し、朝な夕なに、哺くませたもう その嬉しさ。

4.われは今日より、馴れし庭に、過ぎにし月日を 打ち忘れて、
 父の教え かしこみつつ、 楽しくわが世を 送らまほし。)

程なく教会暦では1年も終わり、私たちは新しい年を迎える準備に入ります。心を入れ替え、救い主を新たに迎える準備を共に励むことが出来ますよう、祈りをあわせましょう。

 

祈り

父なる神様 檻を離れ、心のまま さまよう羊のように、また 親に逆らう 子のように
恵みをわすれて、あなたの家から離れていた罪深さを懺悔します。
それにも関わらず、あなたは私共を巷から探し出し、恵みの座に戻して下さいました。 
どうか、再び迷い出て、絶望と滅びの道に誘われることのないように、私たちをあな
たの許に繋ぎとめて下さい。
私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

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