2013.10.6

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「富を積む」

廣石 望

申命記8,1-10; ルカによる福音書12,13-21

I

 地球上の総人口が七十億に達した現代でも、地球はその人口を養うに十分なだけの食糧を生みだしているそうです。「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申命記8,10)とは、イスラエル民族にとっての約束の地に関する言葉ですが、同じことが地球に関しても言えます。

 しかし私たちの社会には大きな格差があり、栄養失調で命を落とす人々、とくに小さな子どもたちがいる一方で、日本では国内で生産された、あるいは外国から輸入された食糧のかなり大きな部分を、食べないまま棄てているそうです。例えば東京23区の家庭から1日に棄てられる食物は、アジアの50万人以上が1日に食べる量に相当するとか。

 この途方もないアンバランスを踏まえたうえで、今日の「財産」をめぐるテキストを見てみようと思います。財産は、いつの世でも人が望むものです。そして同時に争いの元です。この点はイエスが生きた時代のユダヤ社会も同じことでした。

II

 冒頭で、群衆の一人がイエスにこう呼びかけます、「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(13節)。

 現代日本では、親の遺産は子どもたちの間で男女の別なく平等に分けられます。しかし古代イスラエル社会では相続は基本的に男子の権利であり、なおかつ長男に大きな取り分が認められていました。申命記に次のような規定があります。

ある人に二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。愛された妻も疎んじられた妻も彼の子を産み、疎んじられた妻の子が長子であるならば、その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。(申命記21,15-17)

 つまり「父の力の初穂」である長男には、弟たちの2倍が相続されます。もっともこの場合の「2倍」とはどうやら動産についての規定らしく、土地その他の不動産は、基本的に長男が単独相続しました。

 日本では先日、いわゆる非嫡出子が、法律婚から生まれた子と比較して、2分の1しか親の財産を相続できないと定めている現行の民法規定について違憲判決がでました。子どもを出自によって差別してはならないという国際スタンダードが、やっと日本でも認められたわけです。古代イスラエル社会は一夫多妻が認められていましたが、長子の特権が、日本のように母親の法的地位に左右されることはありませんでした。

 では、女子はまったく相続権がないかというと、以下のような例外規定が民数記にあります。

ある人が死に、男の子がないならば、その嗣業の土地を娘に渡しなさい。もし、娘もいない場合には、嗣業の土地をその人の兄弟に与えなさい。もし、兄弟もない場合には、嗣業の土地をその人の父の兄弟に与えなさい。父の兄弟もない場合には、嗣業の土地を氏族の中で最も近い親族に与えて、それを継がせなさい。(民数記27,8-11)

 これは親子の関係に限って、娘しかいない場合には、父親の土地は娘に引き継がれるということでしょう。

 イエスに「遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と頼んだ人がどのような法的状況にあったのか、詳しいことは分かりません。もしかしたら、不動産も動産もすべてを相続しようとした長男に、弟である人が対抗しようとしているのかもしれません。

 いずれにせよ当時の律法学者は神学者(聖書学者)であると同時に法律家です。この人がイエスに「先生」と呼びかけることで、彼に民事の仲裁役を求めていることは確かです。

 人間は生き物なので、最初に蓄えたいと思うのはおそらく「食物」です。次に必要なのは眠るための安全な場所、つまり「巣」とか「家」です。そして子孫繁栄のために必要なのは「つがい」「妻」と「子どもたち」でしょう。こうして食べ物と住処、そして家族ないし子孫の三つが合わさって、いわゆる「縄張り」という空間が生まれます。

 そして「縄張り」をめぐって生き物の間には必ず争いが生じます。人間は社会関係の中で生きるため、あらゆる社会に「縄張り」争いを調停するための「決まり事」「法律」があるわけです。イエスにもちかけられたのは、そうした問題であると言えるでしょう。

III

 この訴えに対してイエスは、「だれが私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14節)と答えて、調停役を引き受けることを拒否します。その理由づけはこうです、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(15節)。

 法律的に正当な遺産の要求を「貪欲」――度を超えて所有したいと思うこと――と断定するのは、極端ではないかという気がします。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」とある箇所は、原文を忠実に訳すと「誰かが剰余の中にあるとき、その人の命(の力、輝き)は彼の財産に由来しない」です。「どうすることもできない」と聞くと、〈お金で寿命は延ばせない〉とか〈お金で健康は買えない〉という意味に聞こえます。それは間違いではないのですが、「命の力や輝きは財産に由来しない」とは、〈いのちのクォリティーを財産で高めることはできない〉という意味だと思います。

 近代人には、〈所有欲こそヴァイタリティの源泉だ〉という理解もあるでしょう。しかしキリスト教の出発点であるイエスの運動には、意識的な所有放棄の実践があります。托鉢の伝統をもつ仏教も、この点で似ています。

 よく知られた「求めなさい/探しなさい/門をたたきなさい」というイエス教えは(マタイ7,7以下)、もともとは無一文で托鉢に生きる弟子たちを励ます言葉だったろうと思います。平和のメッセージを伝えようとするなら、お金や社会的地位などの力を一切使ってはならない。そうではなく所有と家族と職業と自己防御のすべてを放棄し、最も弱い者になった上で、他人に「下さい!」と頭を下げなさい。そうして命を守るために「与える」という平和に相応しい行為をまず相手にさせ、それを感謝をもって「受ける」ことで、神の祝福を伝えなさいという意味だと思います。

 キリスト教は慈善活動を重んじる宗教で、「与えなさい!」「与えなさい!」と盛んに命じるという印象があるかもしれません。しかしイエスが弟子たちに教えたのは、逆に「もらいなさい」という実践でした。それは同時に、「与える」側の人に、命の力と輝きに接するチャンスを提供することであったと思います。命の力は、もっているものを分かち合うときに発揮されるからです。そして喜んで与えること、感謝して受けることは、「自分だけの所有を増やしたい」「私のものを他人にとられたくない」という自己中心的な欲望や不安から、私たちを解放します。

 少し後の方で、イエスが次のように言うとおりです。

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。(ルカ12,33-34)

IV

 さて、イエスが語る譬えは、以下のようなストーリーを備えています。

 まず、ある富裕者の土地が豊作だったと言われます(16節)。これは場面設定ですね。

 続いてこの富裕者は、自分自身の中で対話します(17-19節)。そして、この対話は「私は何をすべきか?」という問いかけと、「こうしよう!」という返答から成っています。問いかけには、「私の実りを集める場所がない」という状況認識が含まれています。

 この問いに対する自己解答の部分には、まずこうあります。「こうしよう。私の倉(複数)を壊し、より大きなもの(複数)を建設し、そこにすべての穀物と、我がよきものを集めよう」(18節)。彼はすでに複数の倉を所有しているのですが、それらを改築してさらに大きなものにし、そこに「すべての穀物と、我がよきもの」を保存すればよいというわけです。

 全体として農村部の状況が前提にされていると感じます。当時の社会に貨幣はすでに存在していましたが、財産は基本的に現物の食糧であり、預金通帳や有価証券ではありません。この金持ちは穀物を大量に買い占めて保存し、穀物市場の価格上昇を待った上で、時期を見て一挙に市場に放出することで大儲けを企んでいるのだ、という学説もありますが、そこまではっきりとは言われていないと思います。

 さて、「私の実り」「我がよきもの」という表現は、物語の中ではもちろん農作物のことです。しかし、そこには象徴的な意味合いもあると思います。皆さんの人生の実り、よきものとは何でしょうか? それは自分のために「倉」に収めて保存できるようなものなのでしょうか?

 いずれにせよ、この富裕者は自分が思いついたアイデアにたいそうご満悦で、自分に向かってこう語りかけます――「魂よ、お前は、多年に亘って続く多くの良きものをもっている。一息つけ、食らえ、飲め、祝宴を開け!」(19節)。

 モノローグで自分に向かって「魂よ、お前は…」と二人称で語りかけるのは興味深いですね。日本人が独白で自分に向かって語りかけるときは、「オレはばかだなぁ…」というふうに一人称を使うのではないでしょうか。そう言えばドイツ語圏の人は、「お前はばかだなぁ…」と二人称を使いながら、自分に向かって独り言を言います。

 それはともかく、「食らえ、飲め、祝宴を開け!」とは享楽的な刹那主義の表現です。私たちの教会から日本有数の歓楽街・渋谷は目と鼻の先です。昨日土曜日の夜も、〈飲めや歌えや〉の宴があちこちで繰り広げられたことでしょう。金持ちの言い草によく似た発言が、じつは旧約聖書に現れます。

食らえ、飲め、明日は死ぬのだから。(イザヤ22,13)

 ところがこの言葉が置かれている文脈が、じつに悲惨なのです。この言葉を発するのは、外国軍に包囲され、破局に直面して自暴自棄になった都市エルサレムの富裕層だからです。「見よ、彼らは喜び祝い/牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲んで言った。〈食らえ、飲め、明日は死ぬのだから〉と」(同所)。

 さて倉庫を増改築することを思いついて、やたらと安心している金持ちを、案の定、予期せぬ展開が襲います。すなわち神が登場し、彼にこう語りかけるのです。「愚か者よ、この夜、お前の魂を人々がお前からとり立てるだろう。お前が準備したものは誰のものになるだろうか?」(20節)。――〈命の力や輝きは財産に由来しない〉とは、こういうことなのですね。

V

 浪費的なバカ騒ぎ、「明日は死ぬのだから」という刹那主義はいつの時代にもあります。しかし現代日本では、バブル経済といわれた時期以降、こうした傾向がとくに都市部で強まったように感じます。

 私の両親は、第二次世界大戦が終わったとき小学生ないし中学生でした。つまり戦後の物のない時代、食糧難の時代を体験しています。だからでしょうか、やたらといろいろなもの――例えば裏面が白い新聞の綴じ込み広告とか――を台所の引き出しとかに丁寧に保存する習慣があります。

 それでも戦後日本は、重工業と大量生産を促進する政策をとりました。そのような時代に生まれたのが「消費は美徳だ」という流行語です(1959年)。これに対して現在では、大量生産・大量投棄が資源や環境に与える悪影響に考慮して、持続可能な社会の構築に向けて「リサイクル」が重視されるようになりました。

 イエスに財産分与の相談をもちかけた人は、譬えの主人公のように、何年も遊んで暮らしたかったのでも、浪費的なバカ騒ぎがしたかったのでもないでしょう。財産分与の話題は、本当に意味のある生き方との関係で財産について考えるための、きっかけとして利用されています。

 富の過剰な集中と過剰な消費がその恩恵に浴さない人たちだけでなく、本人とその周囲の人たちを含めた地球環境全体を傷つけるものであることは、現在では明らかです。すでに1992年にリオデジャネイロで開催された第2回国連環境会議を受けて、ローマ・クラブが出版した『第1次地球革命』には、次のような発言があります。

 エゴイズムのおかげで、人類は長い進歩の過程を生き抜いてきた。ほかの種を支配し、弱い種を蹴落としてきた。しかし、今の段階に至って、エゴイズムのこのような好ましくない一面は、人類の存続・上昇への推進力としての意味を失ってしまった。今大切なのは、自分の命だけを守ればよいという原始的エゴイズムから、いかにして脱却するかである。(同書167頁)

VI

 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)とイエスは言います。原文は「自らに宝を蓄えても、神へと富むことのない者たちはそのようだ」。――「神へと富む」とはどういうことなのでしょうか?

 以前にもご紹介したことがありますが、7月末に私たちの教会で説教したトマス・マシューさんは、私にこう言ったことがあります。「センセイ、子どものために財産を残す必要はありません。子どもに必要なのは教育です。広い視野と洞察力を育てることの方が、お金を残すより、よっぽど大切です。そして余ったお金は、いま貧しい人たちのために使うべきです。次の世代は、次の世代自らが面倒をみるでしょう」。

 子どもたちや若い世代の人々を見ていると、彼ら・彼女らが神から豊かなものを授かって生まれてきていると感じます。それを十分に発揮できるように環境を整え、世界と歴史への広い視野を与えて励まし続けることが、たしかに社会の務めです。

 今日は世界聖餐日です。神が与えてくださったものを――そのシンボルがイエス・キリストです――私たちが悔い改めと感謝をもって、世界中の人々と分かち合う日です。もちろん1年に一回、今日だけそうするのではありません。まだ生まれていない未来の子どもたちのためにも、また人間以外の被造物のためにも、神から贈り物を受けとるその分かち合いを共に祝いたいと思います。

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