今日の説教テキストの冒頭(5節)には、「神は光であり、神には闇が全くない」と言われています。それを受けて7節には、「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とある。「光の中を歩む」。これこそ主イエスに従う私たちの生活の基本的な形です。それをさらに具体的に展開したのが、8節の言葉でしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」。
自分には罪がないと言い張ること。飽くまで自己を正当化すること。これは光の中を歩む人には相応しくない、というのです。それは、いわば自己欺瞞であって、そのとき、真理は私たちの内にはない。
さて、今日行われる《教会カンファレンス》の全体テーマは、『戦争責任告白』です。これを例にとって考えてみたいと思います。
鈴木正久牧師がこの告白を発表したのは1967年のイースターでした。当時、これをめぐって日本基督教団内には賛否両論があり、特に、戦時中に教団の指導者であった人々からは、強い反発の声が上がりました。たとえば、「あの難しい時代の責任者には、戦後の人には想像もつかないような苦労があったのだ」という声です。言いたいことは分かります。しかし、これも一種の自己正当化ではないでしょうか。
似たようなことは、ドイツの教会でも起こりました。敗戦の5ヶ月後、1945年10月19日に、ドイツ・プロテスタント教会(EKD)の指導部は有名な『シュトゥットガルト罪責宣言』を発表しました。戦争責任告白のドイツ版です。その中核部分には、次のような文章がある。
「・・・大いなる痛みをもって我々は言う。我々によって終わりなき苦しみが多くの国の人々にもたらされた。・・・たしかに我々は、長い年月の間、ナチズムの暴力支配に抗して、イエス・キリストの御名において闘っては来た。しかし、我々は自らを告発する。我々はもっと大胆に告白せず、もっと真実に祈らず、もっと喜ばしく信ぜず、そして、もっと熱く愛することをしなかったからである」。
この《もっと大胆に・・・》とか《もっと真実に・・・》といった比較級の表現には、《なすべきことは一応したのだが、十分ではなかった》というニュアンスがあります。その背後にあるのは、やはり自己弁護の姿勢です。それが《言い訳がましい》比較級となって現れたのでしょう。
それだけではありません。自国の罪責を何とか帳消しにしようとする試みさえありました。そのために、連合国によるドレスデン空襲や戦後のベルリンでソ連軍が犯した非人道的犯罪を挙げて、《悪いのはドイツだけではなかった》と自国を正当化しようとした人々も少なくありませんでした。
最近の日本でも、一部の政治家・評論家たちが、同じような自己正当化を行っています。――東京裁判はあの戦争を侵略戦争と決めつけたが、それは戦勝国による一方的な断罪だ。侵略にも多様な定義があり得るのであり、戦勝国が下した一方的な判決を我々はそのまま受け入れるわけには行かない。それでは《自虐》になってしまう、等々。
自己弁護をしようと思えば、いくらでも理屈はつけられます。しかし、神が私たちに求めておられるのは、自らが罪を犯したならば謙虚にそれを認めて悔い改めることです。私たちはこの世の法廷の前ではなく、神の裁きの座の前で、真に謙虚にならなければなりません。私たちは、神の裁きの座の前で、自分たちの愛する故国がアジア諸民族に加えた苦難を忘れてはならないのです。それを謙虚に認めて悔い改めることをせず、自己を正当化しようとするならば、それは再び戦争への道につながるでしょう。
サムエル記下12章は、名君と謳われたダビデ王が犯した重大な罪を描いています。大へん印象的で、分かり易いところですから、一々細かい注釈は加えません。ここでは、ただ13節だけを引用したい。「ダビデはナタンに言った。『わたしは主に罪を犯した』」。
聖書の代表的な人物は、みな完璧な人間ではありませんでした。今挙げたダビデ王に限らず、誰もが罪を犯しました。モーセもそうです。詩編の詩人たちも皆、自らの罪責を告白しています。ペテロやパウロもそうでした。そして彼らの言葉は、自らの罪責を告白するとき、常に単純・率直でした。「わたしは主に罪を犯した」。
古来、教会で行われる礼拝の中心には、一つの単純・率直な祈りが据えられていました。
キリエ・エレイソン! 主よ、憐れみ給え!
ここには、言い訳がましい自己弁護や自己正当化は全く見当たりません。自らの罪を告白し、ただひたすら神の赦しを祈り求めています。
これこそが、私たちの人生の中心なのです。
世の光であり給う主イエス・キリストよ。あなたは、罪と咎に満ちたこの世界に、光をもたらすためにお出でになりました。どうか私たちの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。
世界の希望であり給う主イエス・キリストよ。私たちはあなたの中に、神が御言葉によって満たして下さる慰めを見出します。どうか、あなたの御言葉が私たちの中に生き、耳に届き、心を動かして下さいますように。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。