I
本日の使徒言行録の記事は、とくにその前半が「サウロの回心」としてたいへん有名です。キリスト教の迫害者としてダマスコ途上にあったサウロに、天空の光の中からキリストが顕現して彼と対話することで劇的な回心を遂げたという物語です。西洋キリスト教絵画には、この場面を描いた作品がたくさんあります。例えばカラバッジオ「聖パウロの回心」では、馬から落ちたパウロが地面であおむけに横たわり、目を閉じたまま光が降りそそぐ天に向かって両手を伸ばしている姿が描かれています。
キリスト顕現場面に続いて、ダマスコ教会の指導者アナニアが目の見えなくなったパウロの世話をしたというエピソードが後半にあります。介護の甲斐あってパウロが視力を回復したとき、「目からうろこのようなものが落ちた」とあり、ここが「目からうろこ」という諺の出典なのだそうです。
回心とはいったい何でしょうか? 新しい現実が目の前に開けるとはどういうことなのでしょう?
II
パウロの回心について、幾つかのことを申し上げます。
先ずこのできごとは別の宗教への改宗ではなく、同じイスラエルの神への信仰であり続けています。変化したのは、その神についての根本的な理解です。
次に、通常「回心」と聞くと、本人が何らかの理由で良心の呵責に苛まれ、苦しんだあげくに自らの罪を告白して悔い改め、ついに心の安らぎを得たという展開を連想しますが、パウロの場合は違います。キリスト教徒を迫害するという自分の生き方について、彼はむしろ過剰なほどの自信をもっていました。神理解の変更は、キリスト教迫害活動の真っ最中に、神の側からの一方的な啓示――正確には神の子キリストの顕現――に基づいて生じたとされています。
ちなみに「サウロ」と「パウロ」は、同一人物の二つの名前です。ときに迫害者サウロが、キリスト教徒になってから「パウロ」と名乗るようになったかのように言われることがありますが、これは違います。「サウロ」はヘブライ語ないしアラム語、「パウロ」はギリシア語で、二つは同一人物の二重名です。
より正確には「サウロ」の方がパウロの民族名ないし本名で、ヘブライ語の男子名「シャウール」のギリシア語表記の日本語音写です。シャウールは邦訳旧約聖書では「サウル」と音写されています。パウロは自分が「ベニヤミン族の出身」であると名乗っています(フィリピ3,5)。つまり彼は、同じ部族出身のイスラエル初代の王サウルにちなんだ名をもらったわけです。
他方で「パウロ」は、ユダヤ人サウルがギリシア語で名乗るときにしばしば用いられた別称です。ラテン語の男子名「パウルス」のギリシア語形「パウロス」を、日本語では通常「パウロ」と表記するわけです。――これは、例えば日本人の「すすむ」さんが英語圏では「サム」と、あるいは「とみお」さんが「トミー」と呼ばれたりするのに似ています。
III
続いて使徒言行録の報告の特徴を見てみましょう。
パウロの回心のできごとは今日のテキストである9章だけでなく、さらに22章と26章にも、つまり合計3回も報告されています。9章では三人称による報告ですが、後の2回はパウロ自身による一人称の自己証言のかたちをとっています。
三つの報告は内容的にいろいろな点で少しずつ違うのですが、パウロに与えられる宣教委託の描写が変化してゆくことに注目してください。まず9章では、主イエスがアナニアの夢に現れて、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である」(9,15)と告げます――パウロはこのことを(まだ)知りません。つぎに22章では、アナニアがパウロに向かって、「あなたは見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる」(22,15)と告げます――これはアナニアによる一種の預言ですね。最後に26章では、パウロに顕現したイエスが彼に向かって、「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」(26,17)と派遣命令を与えます――もはや人を介してでなく、顕現者イエスから直接パウロは召命を受けとります。
そのさい、宣教対象はそれぞれ「異邦人や王たち、またイスラエルの子ら」「すべての人」あるいは「この民と異邦人」とされていますが、場面と聴衆の変化が、これにうまく対応しています。すなわち、まず9章でパウロの回心はダマスコ途上で生じ、いっしょにいた人たちは「ものも言えず立っていた」とあるだけ(9,7)。つぎに22章の場合、場所はエルサレム神殿の境内で、パウロの演説を聞いているのは神殿に集まったユダヤ人民衆とローマ軍の千人隊長です(21,37以下参照)。最後に26章の場合、ローマ総督の駐在地である都市カイサリアの総督謁見室が舞台です。主たる聴衆はユダヤの王アグリッパとその妻ベレニケですが、そこには総督フェストゥス以外にも千人隊長たちと町の有力者まで同席しています(25,23参照)。
以上の描き方は全体として、「異邦人のための使徒」パウロが担った世界史的な役割を強調しており、使徒言行録全体の構想を反映しています。ですから実況録画というよりは、使徒言行録の著者ルカの意図的な演出と見るのがよいでしょう。
IV
では、パウロ自身の発言はどうでしょうか?
いわゆるダマスコ体験について、パウロが直接的に発言しているのは、じつは次の一箇所だけです。
私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた。(ガラテア1,15-16)
以上のうち、「御子を私に示して」――ギリシア語原文では「彼の息子を私にあって啓示する」――という部分が顕現体験の証言です。たいへん短いですね。原文では副文章の一部でしかなく、使徒言行録のような、事の経緯を時間軸に沿って丁寧に描き、そこに直接話法による対話も含めるといったドラマチックな演出はまったくありません。それでも内容的にパウロの自己証言は、回心が異邦人伝道への召命と重ね合わされている点で、使徒言行録の描写にぴたりと一致しています。
そうは言っても、パウロがアンティオキア教会の一員として第1回伝道旅行に出かけるのは、顕現体験(32年ころ?)から数えて15年ほど後の47年ころのことです。さらにガラテヤ教会宛ての手紙が書かれたのは50年代中ごろですので、ダマスコ体験からは約25年が過ぎています。使徒言行録に至っては、その執筆年代は90年代と言われていますので、パウロの回心からは約60年後。顕現伝説の成立地は、間違いなくダマスコ教会です。したがって、〈パウロの回心は異邦人伝道への召命であった〉というイメージは――じっさいの顕現体験がどのようなものであったにせよ――パウロ自身また原始教会の〈その後の歩み〉を踏まえた上のものであることだけは確かです。
さて皆さんの中に、パウロと同じように、突然天からの光に照らされてキリストと対話するという経験をした方はいらっしゃるでしょうか? おられるかもしれませんが、少ないのではないかと思います。古代世界における異教からキリスト教への改宗は、新しい生き方に賭けてみようという個人の発意によるケースももちろんありますが、数の上では例えば奇跡的な治癒行為を見たとか聞いたとか、あるいは一族の長に倣って親族が集団改宗するとかの方が普通です。パウロのような「劇的」な回心の事例――天から啓示の光を受けて迫害者から宣教者へと変貌する――は例外中の例外といってよいでしょう。
V
パウロ自身のキリスト顕現体験は、いったいどのようなものだったのでしょう?
彼が沈黙している以上、推論するしかありません。以下のような発言が手がかりになるかもしれません。
私はキリストと共に十字架刑に処された。
もはや私は生きていない。
生きているのは私の内なるキリストだ。(ガラテヤ2,19-20参照)
こうした箇所を手がかりに、パウロがキリスト顕現体験で見たのは――天空の光の中に顕現する主などではなく――〈十字架のイエス〉だったのではないか、その壮絶な死のさまを心眼で見た瞬間、パウロはイエスの死にのみ込まれて自らの霊的な死を経験し、その上で再生を遂げたのではないか――そのように新約学者の佐藤研氏は推定しています(同『はじまりのキリスト教』岩波書店、2010年、69頁以下)。
佐藤氏はクリスチャンですが、禅の指導者でもあります。彼によるとパウロの体験は、禅仏教にいう「大死一番」と「大活現成」に、すなわち〈大いなる死を死ぬことで、大いなる霊的よみがえりが生じる〉ことに類比的です。――もしそうであるなら、私たちにもパウロのことが少しだけ分かりそうな気がします。
VI
最後に、私たちの回心について考えてみましょう。
私たちの間には、〈人生に行き詰まって生きる目標を見失い、キリストを通して示された神の愛をわが身に経験して、新しい生を受けとる〉という個人の回心の事例があります。その一方で集団的な回心ないし悔い改めもあります。今年の教会カンファレンスで取り組もうとしている教団の「戦責告白」(第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白、1967年)はその一例です。国家の戦争政策へのかつての全面的な協力を「教団の名において犯した過ち」、つまり自らの信仰の挫折と把握するものです。
個人の回心体験を聞いて、その内容にいちいち異を唱える人はまずいないでしょう。しかし集団のそれ、とりわけ宗教団体が自ら犯した「過ち」についての罪責告白となると、とりわけ当時の責任者や関係者が存命中の場合には、内部に抵抗感があるのが普通です。それでも〈罪責において連帯する〉という発想は、まさに「目からうろこ」の認識です。じっさい教団の戦責告白には、他教派・他宗教の戦責告白が続きました。
現在日本は、単純に防衛費の大きさから見て、アメリカ、イギリス、中国に次いで世界第4位の軍事大国です。同盟国が行うパワーゲームから、道徳的に自立して行動することは容易でありません。それでも武器を開発して売買し、軍事基地を増強すること、原子力発電所を運転して核兵器の準備をすることが未来を開く道だとは考えない人は、宗教者を含めて決して少なくありません。
今日のテキストで心を打たれる箇所があります。視力を失って三日間、食べも飲みもできなかったパウロを助けるよう、主イエスから委託されたアナニアが、恨みと恐怖を乗り越えてパウロのもとに赴き、「兄弟サウル!」――ギリシア語は「サウール・アデルフェ」とアラム語風の音写――と呼びかけるところです(17節)。回心は決して一人では完結しません。過去の恩讐を乗り越えて、それを受け入れてくれる仲間たちがいるのです。これは私自身が留学中に、韓国人留学生の友人との出会いの中で経験したことでもありました。