2013.6.2

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「聖霊と体」

廣石 望

詩編27編 ; コリントの信徒への手紙一6,12-20

I

 「体」という問題があります。

 聖書にいう「体」は〈コミュニケーションの中にある私〉という意味が基本です。私は「体」を使って、いわゆる五感を駆使して世界と交流します。交流の対象は自分以外の世界の万物ですが、それだけではなく私自身と神も含まれます。

 イエスは「魂」や「体」のことで思い煩うなと教えました(マタイ6,25以下参照)。「魂(命)」は食べ物や飲み物よりも大きく、「体」は衣服よりも大きいからと。「魂」と「体」とは〈この私〉という意味です。この発言の背後には、〈神がこの私を造った〉という創造信仰があります。

 「私」と「体」は不思議な二重の関係にあります。〈私は体である〉と〈私は体をもつ〉の二重性です。まず〈私は体である〉と言えるのは、私が「体」なしでは存在しないからです。さらに肉体という意味での「体」なら、私は生理的欲求、老化や病気といった現象からまったく自由に生きることはできません。私は〈体の中で/体として〉生きています。他方で〈私は体をもつ〉と言えるのは、私は自分の体を「使う」ことができるからです。その典型が労働です。イエスが「食べ物」や「着者」について語るとき、それは私たちが自分の体を使って手に入れるものです。

 イエスの言葉で前面に押し出されるのは〈私は体である〉の方です。それを神が「与え」、そして「養う」。私たちは自分という存在を自らではなく、神に負っている。他方で今日のパウロのテキストでは、そのことを踏まえた上で〈体をもつ/使う〉ことが主題になります。すなわち「君たちは、君たちの体で〔/を使って〕神を栄光化せよ〔/映し出せ〕」(20節参照)。

 〈体を使う〉――現代では先端医療や遺伝子技術などが急速に発展し、例えば脳死判定と臓器移植、延命治療とホスピス、体外受精や幹細胞を用いたクローン技術などをめぐって、さまざまな倫理的問題が生まれています。そのとき私たちの問いは、〈やろうと思えばできることをどこまでやってよいか/どこでストップすべき?」という基本構造をもっています。技術が先行し、倫理は後追いするという関係ですね。

 パウロの視点は、これとは違います。彼は神やキリストとの関係における「私」のあり方、使い方を問題にしているからです。つまり人間倫理のレベルというより、むしろ神との関係ないし信仰のレベルで〈私は自分の体をどう使うか〉という問題は視野に入ってきます。

 

II

 「私には、すべてのことが許されている」(12節a)――新共同訳聖書でこの言葉が「 」に入っているのは、これがコリント教会で流通していたモットーをパウロが引用しているのであり、彼自身の発言ではないだろうと翻訳者が判断したからです。それでよいと思います。

 「私にはあらゆることをする権限がある」とは、どういう意味でしょうか?――洗礼によって神の聖霊を受けたことで私には、地上的・身体的な生を超越した自由が与えられている、というほどの理解がコリント教会にあったのだろうと言われています。その背景は「体」よりも「霊」を重視し、「霊」によって「体」を克服することを重視するギリシア思想の伝統です。コリント教会の異邦人信徒は、文化的にはギリシア人なのです。

 この自由な権能の行使に、パウロは限定を加えます。「しかしすべてのことが益になるわけではない」「この私は何かに支配されることはないだろう」と。コリントの信徒たちは自由を行使しているつもりです。パウロも自由をたいへん重んじました。しかしその行為が真の益をもたらすか、それとも自由でいたつもりなのに、逆に何かに支配されてしまうことはないか…。

 現代における一例に、胎児の出生前診断があります。以前は羊水をとる必要がありましたが、今では指先から一滴血液を採取すればできるようになりました。私たちの操作可能性という意味の自由は、こうして拡大しました。他方でこの自由を行使するとき、先天性の障がいをもつ人々への差別が、以前よりも強化される危険性があります。〈この人々は生まれてくるべきではなかった〉〈責任者は誰だ〉というぐあいに。つまり自由を用いれば、それだけいっそう優生思想に支配される可能性は大きいのです。私自身は障がい者と共に生きようとする社会が、今は健常な人にとっても大変ありがたい社会であると感じます。

 

III

 パウロは、キリストを考慮に入れない〈体の一部〉について、「食べ物は腹に、腹は食べ物に。しかし神はそれもこれも無効にするだろう」と言います(13節前半参照)。この発言はパウロ自身のものでしょうか、それともコリント人の主張の引用でしょうか。よく分かりませんが、何れにせよ「体」の一部である「腹」も「食べ物」も、人が死ねば過ぎ去る。だからどちらも重要でないという意味なのでしょう。この認識はそれ自体としては人を過度の粗食に導くか、あるいは過度の美食に向かわせるかのどちらかだろうと思います。

 続いてパウロは、キリストを考慮に入れた〈体全体〉について言います、「体はポルネイアにではなく主に、そして主は体に」(13節後半参照)。洗礼を受けたキリスト者はその全人格がキリストに属する一方で、「淫らな行い/ポルネイア」はこの結合を傷つけるのでしょう。同時に「主は体に」、つまりキリストは私たちの「体」に属している。キリストは私たちの体を通して、世界と交流するという意味だろうと思います。

 さらに信仰者の「体」に、イエスの復活に基づいて未来への視野が加わります。「神は主をも起こした、私たちをもその力によって呼び起こすだろう」(14節参照)。パウロは、イエスや私たちの〈魂の体〉は死と共に滅び、〈霊の体〉が起こされると理解します(コリント一 15章参照)。体の性質は〈魂〉から〈霊〉へと変わるが、「体」であることは地上的生においても復活の生においても変わりません。つまり「私」は神によって、もう一度「私」にされるのです。

 「体」(私という存在)には、死を超えるパースペクティヴが、キリストの復活によって与えられている。

 

IV

 その上でパウロは、「君たちは知らないのか、君たちの体がキリストの肢体であることを。その場合、私はキリストの肢体を娼婦の肢体にするだろうか。とんでもない」と言います(15節)。君たちは「キリスト」に属するのか、「娼婦」に属するのかという問いの立て方です。

 コリント教会の信徒たちは、〈私たちには自由の霊が与えられている。だから肉体的な欲求についても、これを自由に満たす権限がある〉と考えたのかもしれません。だから娼婦の体を使う権限もあると。もっともギリシア文化では、売買春はごく自然な習慣でしたし、都市コリントのアフロディテ神殿には大勢の神殿聖娼がいたと伝えられています。

 「君たちは知らないのか、娼婦と結合する者は一つ体であること。〈二人は一つ肉になるだろう〉と言うのだから」(16節――創世記2,24参照)。性交渉とは互いの「体」を使い合うことなので、君たちは娼婦の体を使っているつもりかもしれないが、彼女の方も君たちの体を使っているのであり、君たちはその支配下に置かれるのだ、という皮肉がそこにあるのかもしれません。もっともそのさい、性にまつわる仕事に従事する女性たちの人権や、その体を保護するという視点はありません。

 興味深いのは、「主に結合する者は一つ霊である」という発言です(17節)。さきほど「娼婦と結合する」とあったのと同じ動詞表現が使われています。新共同訳聖書は「娼婦と交わる」に対して「主に結びつく」と訳し分けます。娼婦とキリストを並べるのはあんまりだと思ったのかもしれませんが、どちらの場合であれ、私たちは「体」を使って他者と「一体化」するという理解が基礎にあるのだと思います。加えてキリストと一体化する者は、一つ体になることを超えて「一つ霊」となるというのです。「霊」(プネウマ、ルーアハ)の原義は「風」や「息」です。すなわち体を使ってキリストと一体化する者は、同じ一つの〈命を造り出す風/息〉になる。

 

V

 「人が罪をなすとき、すべての罪は体の外にあるが、娼婦と性交する者は自分の体の中へと罪を犯す」(18節)。――罪はひとまず体の「外」にあるが、体の使い方しだいでその「中」に入って来る、という発言は一風変わっていますね。

 新共同訳が「淫らな行いをする」と訳す「ポルネウオー」の原義は「娼婦と性交する」ですが、現代であれば、体をふさわしくない仕方で使用することに関連するすべての問題に広げて考えることも可能でしょう。例えば麻薬その他の薬物使用、臓器売買と売買春を含む人身売買、児童ポルノや児童労働さらに少年兵の問題を含む「子どもの人権」への侵害、さらには人間の体と命を殺人兵器として使うという意味での軍隊や徴兵制、あるいは自死や安楽死といった問題が思い浮かびます。その何れもが簡単に解決したり、撲滅したりすることの難しい問題です。

 これらの問題が発生するのは、「体」が体であることそれ自体とは関係がありません。むしろ私たちが、自分や他人の体を使うそのあり方によって発生します。罪は体の「外」にあるが、罪を行うことで体の「内」にやってくる、という発言の趣旨はそういうことなのかもしれません。しかし体の内側に到来する罪は、私たちの体全体つまり存在そのものに悪影響を与えるでしょう。

 

VI

 「君たちは知らないのか、君たちの体が、君たちが神から得て、君たちの内に〔宿っている〕聖霊の神殿であること、また君たちが自分のものではないことを。君たちは値で買い取られたのだから。ならば君たちの体で神を讃えなさい(/映し出しなさい)」(19-20節参照)。

 神「から」来る聖霊が、体の「内」にあることで体は「聖霊の神殿」になる。そのことは、私たちの体が神ないしキリストによって身請けされたことによる。だから君たちは、その「体」を使って神を讃えよ。

 聖霊の働きは信仰者を「主」と結合させ、「一つ霊」となすことにあります。この「一つ霊」が象徴的に実現する場所が礼拝です。とくに賛美歌をいっしょに歌うとき、そのことを強く感じます。歌は霊によって歌いますし、私たちの体をつかって神を讃えることだからです。

 外側への純粋な関係性である「命」を生みだす霊の働きを、自分の「体」を使って感じながら生きることが、「体」という私たちの存在を生きることの基礎になるでしょう。

 

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