先程ご一緒に歌いました讃美歌475番はチャールス・ウェスレーが造った代表作の1つで、日本の教会でも、また、世界中の教会でも最も親しまれてきた讃美歌です。兄のジョン・ウェスレーと一緒に、この兄弟は19世紀のイギリスで宗教覚醒運動(The Great Awakening:一大目覚めの運動)を起こしました。厳格な規律のもと、信仰をもって生活を正す、この刷新運動はメソデイズムと呼ばれ、ウェスレー兄弟によって起こされた教会はメソジスト教会と呼ばれています。信仰再生運動の中で。チャールス・ウェスレーは毎週数点の讃美歌を造り、兄・ジョン・ウェスレーを助けました。彼の手による讃美歌は全部で6000点にも及んでいます。その中で、この「あめなる喜び」は、「わが魂を愛するイエスよ」と並んで最も親しまれてきた讃美歌です。回心と信仰復興が良く謳われています。
4節
「われも新たに造りかえられ、きよめを受けつつ 榮えにすすみ
み国にいたりて み前に伏す日 み顔の光を 仰がせたまえ。」
旧讃美歌 352番 第3節
(我らを新たに造り清めて、榮に榮をいや増し加え、
み国に臨みてみ前に伏す日、み顔の光を映させたまえ。)
以前は全体が3節にまとめられていましたが、讃美歌21になって、原作どおり4節になりました。今回は2節が以前の讃美歌に加えられました。
「聖霊の息吹よ いま吹ききたり、悩める心に憩いを賜え
われらを憐れみ 罪より放ち、 溢れる喜び 受けさせたまえ。」
ウェスレー兄弟は1735年、アメリカへ旅行中、同じ船に乗っていた宣教師団のなかにいたボヘミア兄弟団と出会い、彼らの敬虔さと信仰心に痛く感銘を受けました。讃美歌の歌詞にもある通り「あらたに造りかえられ、聖霊によって潔められて」、信仰のリヴァィヴァル、刷新運動を起こします。個人の回心と霊的刷新は教会変革に向かったばかりでなく、労働者や貧しい人たちを救済する社会活動にまで及んでいます。代々木上原教会の源流の1つである「みくに伝道所」(西片町教会)はこうしたメソデイズムによって立てられた教会であることを銘記したいと思います。日本基督教団に組み入れられてからは、メソジストとか、上原教会が所属していた長老教会(プレスビテリアン)を強調することは、もはや無くなっていますが、両教会がその前身で培った精神は今も生きています。人生において生まれ変わるような回心を体験した人は、多くの場合、歴史を変えるような大きな働きをしています。回心は個人を変えるばかりでなく、多くの人に感化をあたえ、引いては、社会や歴史を変えるような働きがあって、教会は今私たちの手に委ねられているのです。
生まれ変わり、回心の機会が迫っているのに、元の生活に戻ってしまうことも、残念ながら、まま、起こることです。本日の聖書に登場しているニコデモがそうでした。実在の人物で、名前はヨカナン・ベン・ナクデイモンと言い、サンへドリンと呼ばれたユダヤ最高法院の議員であったことが分ります。知名度もあり、身分も高くあった人物でした。その人物が、夜陰に乗じてイエスの元を訪ねて来たのです。当初、彼が抱いていた関心は、イエスと出会い、自分の生き方を変えて頂きたいと言うものではなかった様子です。それは、ニコデモがイエスに語った最初の言葉の中に現われています。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるような「しるし」を、だれも行うことはできないからです。」
ニコデモがイエスの行ったカナでの出来事、それは婚礼の宴席で葡萄酒が足りなくなった時、瓶にあった水を葡萄酒に変えた奇跡が、ガリラヤ中で評判になっていることを聞き及んでニコデモはやって来たのです。しかし、奇跡を知ってイエスに近付いて来るような近付き方は既に2章23節以下で、イエスご自身が批判しておられた所でした。ヨハネ福音書記者とその教会も奇跡をもってイエスを信じることについて批判的であったこともあって、奇跡と言う言葉を避けて、「しるし」と呼んでいます(2:4,4:54,12:37,20:30)。それも批判的な視点をもって呼んでいます。その一例としてヨハネ福音書ではニコデモを挙げていることに注目したいと思います。ニコデモ物語の直前、2章の最後で福音書記者はこう書いています:「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられた。・・・イエスは、何が人間の心の中にあるかを良く知っておられたのである。」
こうして、ニコデモの物語に入る訳ですが、それは、「何が人間の心の中にあるかを良く知っておられた」その1例としてニコデモ物語が使われているのです。しるしを求めて近付くニコデモの心の内に足りないものを、このあと、問答の中でイエスは指摘して行きます。また、ニコデモが人目を憚ってこっそり、やってきた事、また、イエスに向かって「わたしたち」と言いながら、ユダヤ人の代表を装ってイエスのもとにやってきた、この2つの特徴を見ただけで、ニコデモと言う人物がイエスを受け入れる心を持つことの出来ない相手であることを暗に現しています。イエスもそのことを見抜いておられるので、相手に足りないものを切り出しています:
「はっきり言っておく(3:3、5:25,10:1,12:24,13:21,13:38、)。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
案の定、ニコデモには、人が新たに生まれるとはどういうことか、分っておらず、ここで実に滑稽な質問をイエスに投げ返すことになる訳です:「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
ニコデモは新たに生まれると言うことを、地上で営まれる生活の延長として見ています。ですから、イエスの指摘されていることが、ニコデモには分らなかったのです。今、生きているこの世界、それは母の胎から出た一回限りの出来事でありますから、再度、生まれるということは、考えられない事柄です。しかし、イエスは地上の命のことばかりでなく、誕生以前の世界と、また、死以降の世界を合わせた上で、今の命を見ておられます。イエスはそのことをニコデモに気付かせようとしているのですが、何故うまく行かなかったのでしょうか。その前に「新しく生まれなければ」と言う言葉について、若干解説しておきまと、「新しく生まれる」のギリシャ語原文では「新しく」と訳せるばかりでなく、「上から」とも訳せる「アノーセン(γεννηθή άνωθεν)」と言う言葉が使われています。「新しく生まれる」とは「上から生まれる」とも訳されるのでありますが、ニコデモは「上から生まれる」と言うことが分らなかったのです。そこで、イエスは例を二つ挙げて、「上から生まれる」、「上から新しく生まれる」ということについて説明をしておられます。1つは、「水と霊によって生まれること」、今1つは「風がどのようにして吹いているのか。何処から何処へむかっているのか」を例にして「上から新しく生まれる」ことの意味をニコデモに開示しています。
初めの説明にあります「水と霊によって、上から新しく生まれる、もしくは、生まれ変わる」と言うことについて、教会に関わっておられる方であれば、どなたもお分かりになることと思います。「水と霊」は洗礼を意味しています。イエスが洗礼について言及しているのは、マタイ福音書の最後の所で、弟子派遣の説教(マタイ28:16〜20)として語った言葉以外にはありません:「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19)。三位一体について、また洗礼に付いてイエスが言及しているのはこの箇所の他にはありません。ことによると、マタイ教会の言葉であるかも知れません。同じことが、このニコデモについても言えるかもしれません。「水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」と言う言葉がヨハネ教会の宣教の言葉であるならば、「上から新しく生まれる」ことの説明は、このあとに出てくる「風が吹く有様」を例にした話だけが元の話しであるかも知れません。洗礼への言及がヨハネ教会の宣教の言葉であったとしても、「上から新しく生まれる」ことの説明として「水と霊・洗礼」は実に相応しい内容ではありませんか。私たちは、「水と霊」によって新たに、上から、生まれ変わるのです。「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)のです。5節で「神の国に入ることは出来ない」とありますが、3節では「人は(上から)新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」。ここに3節の「神の国を見る」から5節では「神の国へ入る」に変わっています。それは洗礼を暗示しているからで、「見る」だけでなく「入る」と言う決断が示唆されています。ヨハネ福音書では「神の国」と言う言葉も、ニコデモの物語の3節と5節にしかありません。3節の「神の国を見る」ばかりではなくて、5節の「神の国に入る」と言う言葉に置き換えてイエスが語っているのですが、この箇所にしか「神の国」は使われておりません。他の福音書ではあれだけ良く使われている「神の国」がヨハネ福音書ではニコデモとの対話で、この箇所だけにしか用いられていないのです。「神の国」はヨハネ福音書では「永遠の命」に置き換えられているからです。洗礼を受ける、と言うことは、肉によって生まれた地上の生命だけでなく、天からの誕生、「永遠の命」を指しているのです。地上の生命は、母の胎から出て、最後は墓場に入って終わりを遂げるのでありますが、信仰を告白して洗礼を受ける私たちにとっては、誕生以前と死以降を含めた命、すなわち「永遠の命」を信じて生きる者に変えられます。ニコデモは地上の栄華と成功に固執しているために、信仰による「上からの新しい命」「生まれ変わる生き方」を受け入れることが出来なかったのです。
イエスが「吹く風」を例にしてニコデモに答えた第二の譬、すなわち「風は思いのままに吹いている。それが、どこから来てどこへ行くのかも知らない。霊から生まれた者、上から新しく生まれた者も、この風と同じである。」これは大変分かり易い比喩であると思いますが、このように易しい内容をもってしても、ニコデモは「上から、新しく生まれる」と言うことが分からなかった、と伝えられています。風を表すギリシャ語はプニューマ(pneuma) なのですが、それは風、と同時に、生き物が呼吸をする息という意味をもっておりますし、また、「霊魂」の霊や魂を表す言葉としても使われます。基本的には風と同じように、自分の意思を超え出て、それは、上から与えられる賜物を指しています(創世記2章6節)。ニコデモが水と霊が暗示する洗礼によっても、「上から新しく生まれる、生まれ変わる」ことを理解できなかったことに加えて、風を例にしても分ることなく、「どうして、そんなことがありえましょうか」とイエスに言い返しています。これは、かなり強い否定の言葉ですし、拒否の反応です。ニコデモに,もし、人生に躓いたことがあったり、愛する人を亡くしたような悲嘆の出来事があったなら、あるいは、状況は変わっていたかもしれません。彼が、人生を順風満帆で生きて来た様子は肩書きでわかります。でも、なぜ、イエスのもとにやってきたのでしょうか。それは、「しるしや奇跡を行うイエス」の力に与って、更に階段を登り詰めたいと考えていたとしか思えません。イエスのニコデモへの別れの言葉は辛らつに聞こえます:「あなたはイスラエルの教師でありながら、そんなことが分らないのか。」最高法院の一員であり、先生と呼ばれる指導者でありながら、人が思い悩む心の問題については、全く教師の資格を持たないほどの失格者である。そのことを、イエスは見抜いて言われたように見受けます。
こうしてニコデモはイエスから去って、夜の闇の中に消えて行きました。恐らくユダヤ社会の中で、これからもリーダーとしてユダヤ人から尊敬を博し、世渡りを旨くやって行ったに違いありません。この後、ヨハネ福音書ではニコデモが2回ほど登場しています。1度は7章50節のところで、イエスの逮捕を取り逃がした下級役人が祭司長やファリサイ派の人々から咎められている場面にニコデモが現われて、イエスを逮捕する前に、彼が何をしたのか、確かめてから実行するように律法にも書かれている、と言ってその場面でユダヤ人指導者たちが、早急にイエス逮捕に向かわないようにたしなめています。今1つは19章38節で、十字架から下ろされたイエスの遺体をアリマタヤのヨセフがポンテオ・ピラトから引き取ろうとした所でニコデモが登場し、用意して来た没薬と乳香をもって丁重にイエスの亡骸を埋葬したことが報告されています。このように、イエスへの尊敬をこのあとでも、ずっと持ち続けていたことがヨハネ福音書では語られています。それだけに、ユダヤ人社会にあって指導者であり続けることに固執してイエスからは離れて行った人物の分裂した生き方が、福音書記者に残されています。
ニコデモの物語は3章10節で一区切りをなしているのですが、この後はヨハネの教会が、イエスとニコデモをどのような教訓として伝えたのかが二つに分けて語られています。1つは 11節から15節の所で、ヨハネ教会の人たち(「私たち」と記述されている)が天上のことを語っていても、あなたがたユダヤ人はユダヤの伝統に固執しているために、ニコデモと同じように信じて従うことができないでいる有様を批判しています。それはイエスとニコデモの時代から40年以上も経った後のことでした。エルサレム神殿は既にローマの軍隊によって破壊され、神殿を失くしたユダヤ教徒がヤムニアで起こした、新しい宗団に変わっています。この新しい宗団は後期ユダヤ教と呼ばれておりますが、神殿祭儀に変わって、聖書を編纂して、国土を喪失した中にあっても39巻の聖書を拠り所にしてユダヤ人のアイデンテイテイを守り抜いた人々でした。この39巻こそ、今わたしたちも旧約聖書として親しんでいる聖書です。彼らの功績は高く評価できますが、ヨハネ福音書を生み出した教会にとっては、何故彼らがイエス・キリストを救い主として受け入れられなかったのか、それは、ニコデモと同じ理由によることを、ここで表しているのです。それに反してわたしたち教会人は皆、イエスが天から遣わされ、永遠の命に与ることを救いとする新しい宗団・キリスト教会に集っていることを証ししています。
ヤムニアの宗団に向かって、ヨハネの教会がニコデモ物語を介して伝えている第二のメッセージは16節から21節の中に収められています。そのメッセージの冒頭の言葉は小福音と呼ばれているほど、イエス・キリストの働きを一言で表している程、私たちも親しみ、愛している1句ではありませんか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)
「上から新たに生まれる命」、即ち、誕生以前の命と死以降の命を含めて、霊の命「永遠の命」は滅びることのない命であると言うこと、その命を得させるために神はその独り子を遣わして下さった、それがイエス・キリストであると言うことを高らかに宣言しています。しかも、この派遣は人類を裁くためではなく、救うためである。この単純な福音を信じて受け入れるだけで、闇から光へと贖い出され、真理のうちを歩む者になる。これは、ヤムニアの宗団の人々に向かって語られた喜びのメッセージでした。そのことをヨハネ(教会)はニコデモの話を敷衍して伝えているのであります。もちろん、私たちへの救いの使信でもあります。
カール・バルトは1956年にモーツアルト生誕200年を記念して『ウオルフガング・アマデウス・モーツアルト』(1756・1・27〜1791・12・5)という小さな本を著して、モーツアルトに献呈しています。
「あなたへの感謝の心は、ありのままに言って次の一事につきます。すなわち、あなたを聴くとき、私はいつも、陽光と嵐のときも、昼も夜も、善にして秩序ある世界の入り口に立たしめられる。と同時に、私は20世紀に生きる人間として、聴く度毎に勇気をあたえられ、過度ならざるテンポを持たしめられ、純粋さと平和を贈られるのを実感する、このことなのです。]
この本でカール・バルトはモーツアルトを神格化するほど高く評価しているので、赤岩榮先生は、これでバルトからの決別は決定的になったと言っておられました。私は、バルトが何と言おうと、根っからのモーツアルト・ファンですから、天使にまで持ち上げる程モーツアルトの作品に惚れ込んでいるバルトをむしろ、微笑ましく思い、この大先生でもやはり私たちと同じように普通の人間なのだ、と思えるようになりました。
モーツアルトの素晴らしさは、悲しみや人生の壁にであい、その辛さがどの作品にも描かれておりながら、それを乗り越える明るさ、警戒さ、癒しの音楽が天上から響いてくるところにある。それが、私のモーツアルトとの作品を通しての出会いであるように思います。聴き流すことも出来ますし、真剣に聴き入ることもできる。涙に共感し、喜びに心弾むこともできる。それがモーツアルトの音楽です。どうして、そのようなことが出来るのか、その秘訣を私は彼の書いた日記の中から読み取ることが出来るように思います。ご存知のように、モーツアルトは4歳から人生の三分の二を旅している中で、死の渕にまで追い詰められた敬虔を何回か重ねています。6歳の1762年には姉と父親と一緒にウイーンに9ヶ月ほど滞在した時、高熱を出した後、関節炎を患い、一命はとり止めたのですが、後遺症に苦しめれることになっています。翌年にはロンドン滞在中に一家全員が風邪を引き、中でもウオルフガングはオランダに移っても直らず、重篤になり死ぬほどの体験を7歳にして体験します。こうした言わば「死の陰の谷」を体験したウォルフガングは身内の死に際して、嘗て会得した「天からの命」を呼び覚まし、臨死の両親へ慰めの言葉を送っています。
1787年4月4日には病床の父親を気遣う手紙を書いており、これが父への最後の言葉になるのですが、自分が幼少の頃から受けて来た死の体験を踏まえて、今度は父への慰めの言葉として、こう書いています。
「死は、厳密にとれば、僕たちの生の真の最終目的でありますから、僕は、この人間の真実で最良の友と、数年来、非常に親しくなっています。そのため、死の姿は、僕にとって、ただ単に恐ろしいものでないばかりでなく、全く心を安らかにし、慰めてくれるものなのです。そして、僕は、神が僕たちの本当の幸福への鍵として神様を知る機会を得させてくださるのです。・・・僕は毎晩ベットに就く時、もしかすると、僕は、まだ若いのですが、明日にはもう生きてはいないのではないか、と考えるのです。・・・それでも、知人の誰もが、僕と交際するとき、無愛想だったり、悲しげだったりすると言える人は一人もいないでしょう。・・・この幸福を、僕は毎日、創造主に感謝し、そして僕の隣人たちのいずれにもこの幸せに与ってくれるよう心から祈っているのです。」
「死は僕にとって最良の友であった」とモーツアルトは語り、一日を閉じるときに、今日一日を生きることができたことへの感謝を創造主に捧げて床につくのですが、もしかしたら、明日は無いかもしれない、それでも最良の友に出会える喜びを夢に描きながら床につく。そして朝には新しく命を頂いて目覚めたことを創造主に感謝しています。これこそは、イエスがニコデモに教えていた、「上から、新しく生まれる」ことではないでしょうか。モーツアルトは限られた地上の命については何時、終わりが来ても良いような準備を毎晩確認し、朝には新しい上からの命・永遠の命に生きる希望へと目覚めているのです。
主イエスは今日も私たちに「上から新しく生まれる」永遠の命へと招く御言葉を私たちの語っておられます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)
本日は、三位一体の主日です。神とその独り子を通して聖霊による働きによって、私たちは上から新たに生まれ変わった者として相応しい歩みを、今週も続けて行くことが出来ますよう、共に祈りを合せたく思います。
このあと、祈祷に引き続いて歌う讃美歌451番は、奴隷船の乗組員であったジョン・ニュートンが、ある日、嵐に遭い急死に一生を得た後、かって信仰篤かった母を思い起こし、回心を体験して神学校に入り、英国教会牧師となって、オールニー に赴任し、回心を振り返って1831年に作った讃美歌が「アメージング・グレース」で始まる、この讃美歌でした。曲は奴隷船の中で黒人が口ずさんでいたメロデイーをもとにして生まれた讃美歌であると言われています。祈祷のあと、ご一緒に歌いましょう。
「くすしきみ恵み、我を救い、迷いしこの身も 立ち返りぬ。」
「この身は衰え 世を去るとき 喜びあふるる み国に生きん」
祈祷:
この世を愛する余り御独り子を地上にお遣わし下さった主イエス・キリストの父なる神様:
死の虜から私たちを解き放ち、永遠の命を信じて生きるものとならせて下さい。そして新たに生まれ変わった者として、この世の闇に向かって、愛と希望、命の道を証しする者とならせて下さい。