I
他の宗教と同様、キリスト教もまた「祈り」の宗教です。復活節後の主日はそれぞれ美しい名をもっていますが、復活後第5主日である今日が「祈れ」と呼ばれる主日なのです。
私たちが祈るとき、多くの場合、何か必要なものが欠けており、それを満たしてくださいと神に祈ることが多いと思います。危機や困難に直面して不安になったときがそうです。そうした祈りの態度を揶揄して「苦しいときの神頼み」と言ったりします。しかし私たちは弱いので、本当に苦しいときは大いに「神頼み」するのがよいだろうと思います。
もうひとつの祈りのタイプは、いわゆる家内安全・商売繁盛・学業成就・良縁祈願といった、言うなれば「もっと幸せにして下さい」式の祈りです。いちおう事足りており欠落はないけれども、もっと幸福になりたい。
これに対してイエスは、何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかと「思い悩むな」(以前の翻訳では「思い煩うな」)と教えました(例えばルカ12,22以下)。命や体、つまり私という存在を本当に守るのは神なのに、それを忘れて自分で自分を守ろうとやっきになるな、それは勘違いだという意味です。「欠けているものを補って下さい」と祈るときも、また「もっと幸せにして下さい」と祈るときも、神が私という存在を支えていることを忘れるならば、それはイエスから見れば「思い悩み」「思い煩い」に当たります。
さて、キリスト教会では「主イエス・キリストの名によって」祈る習慣があります。今日の聖書箇所は、そのような習慣が何を意味しているのかを理解するための手がかりを与えてくれます。ごいっしょに読んでみましょう。
II
先ずイエスは、「その日には」弟子たちは、もはやイエスに尋ねることを止め、むしろ「私の名によって」父なる神に願うようになる。そうすれば神から与えられ、弟子たちは喜びで満たされるだろうと言います(23-24節)。
「その日」とはイエスが復活する日のことです。イエスの復活のできごとにより、それを信じる者たちにとっての生の状況は根本的に新しいものになります。そのとき弟子たちに特徴的なのが、「尋ねる」ことに代えて「願う」ことだというのです。
この二つはどう違うのでしょうか? 留学時代、仲間たちの間で、「質問するのはタダだFragen kostet nichts!」と合言葉のように言い交わしていました。「これをしてもいいですか?」「これをもらっていいですか?」「誰に聞けばいいですか?」など、留学生にはたくさん質問があります。しかし〈どうせ断られるに決まっている〉〈ずうずうしい奴だと思われたくない〉〈いちいち人に尋ねるのはプライドが傷つく〉などの理由から、尻込みしてしまいがちです。――そんなとき「尋ねる」と「願う」は、ほとんど区別がつきません。
福音書の前後の文脈を見ると、「尋ねる」とは絶望と悲しみの表現です。解けない謎の重荷にあえぎ、答えのない問いに苛まれて煩悶している状態のことです。他方で「願う」ことは喜びと結びついており、もはや「なぜ?」「なんのために?」と問う必要がない状態と考えられています。復活節以降の時は、再び神に向かって希望をもって語りかけることに向けて私たちが解放される時です。そしてそのとき人は、「私の名によって」神に祈るとイエスは言います。――主イエスの名によって神に祈ることは、復活節の後に初めて可能になりました。
使徒パウロも、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、〈アッバ、父よ〉と呼ぶのです」(ロマ8,15)と言います。君たちは復活者イエスの霊を受けることで、もはやビビったり怖がったりはしない。君たちが受けた霊は、神が「君たちは私の自由な息子・娘たちだ」と宣言する霊であるから。だから、この霊を受けた私たちは神に向かって「お父さん!」と叫ぶと。
III
続いてヨハネのイエスは、三つの事柄を弟子たちに約束します。
ひとつ目は、「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」という約束です(25節)。「たとえ」とは謎めいた語りというほどの意味なのでしょう。他方で「はっきり」と訳された語は、〈あからさまに/フランクに/臆することなく〉という意味です。もっとも先行するイエスの発言を見ても、とくに謎めいた語りというわけではありません。するとイエスの発言が不可解であるというより、弟子たちがそれを理解できない状態から、心安らかにはっきり理解できるようになる、という変化のことが言われているのだろうと思います。
第二の約束は、弟子たちが「私の名によって」願うとは、キリストが弟子たちのために代わりに神に願うこととは違うといいます(26節)。もっとも新約聖書では、「大祭司の祈り」と呼ばれるヨハネ福音書17章のテキストを筆頭に、キリストが信仰者のために神の前で「とりなし」をする、としばしば言われます。するとここで否定されているのは、父なる神との間接性、つまりイエスの到来によって悲しみが取り除かれる以前の段階、つまり先に「尋ねる」という言葉で特徴づけられていた状態のことでしょう。これに対して「私の名によって」願うことは新しい状況です。そうした祈りにおいて、弟子たちは神との直接的な生の関係に入ると考えられています。
そして第三に、イエスが神から遣わされた者であると信じ、イエスを愛する弟子たちには、父なる神ご自身がイエスの弟子たちに向ける愛が、そうした直接的な関係の成立根拠であることが見えてくると約束されます(27節)。これまで存在しなかったような、神との直接的で緊密な関係を生みだす根拠は、神の愛なのです。
イエスが十字架に向かうことでこの世を去り、彼を派遣した父なる神のもとに帰還を通して(28節)、弟子たちは霊を受けてイエスの言葉をあからさまに理解できるようになり、神との生きた関係に歩み入り、そこに神の圧倒的な愛を発見する。――これがヨハネによるイエス退去の解釈です。
IV
このイエスの発言を受けて、弟子たちはある種の信仰告白をします。「今」彼らはイエスの言葉を理解し、神をも人の心をも知るイエスに向かって、もはや誰も尋ねる必要がなく、イエスが神から来た者であると信じると(29-30節)。
ところがイエスは、この弟子たちの信仰告白に対して、告白の内容そのものというよりは、弟子たちの自己理解に対してある種の疑問を表明します。「今ようやく、信じるようになったのか」(31節)という言葉は、原文を読むと「今すでに信じている(と言う)のか?」という意味であるように感じます。むしろ「あなたがたが散らされ…わたしを一人きりにする時が来る。いや、既に来ている」と(32節)。イエスは、これから始まる受難物語における弟子たちの行動を暗示しているのでしょう。
こうして、ふたつの「時」が来ると言われています。ひとつは神を理解する時が来る(25節)。しかしその前に、弟子たちが散らされる時が来る(32節)。弟子たちの信心への自信はいったん砕かれ、その後に本物の信仰が到来するという意味かもしれません。私たちの信心はいつでもぐらぐらする。私たちの信仰それ自体は、私たちがよって立つ基盤ではありえない。
ここにはさらに、ヨハネ福音書に独特のアクセントが二つ見られます。
ひとつは弟子たちが「裏切る」というより「散らされる」ことです。例えばマルコ福音書とは異なり、ヨハネ福音書の弟子たちについて、彼らがイエスを「裏切る」とは言われません。捕縛場面のイエスは、「私を捜しているなら、この人々は去らせなさい」と言って、自らの言葉で弟子たちを解散させます(ヨハネ18,8)。しかもこう言われています。「それは〈あなたが与えて下さった人を、私は一人も失いませんでした〉と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(18,9)。イエスは弟子たちに「裏切られる」のではなく、弟子たちはイエスによって「散らされる」。しかしこの羊たちは決して失われない。よき羊飼いが命を賭けて守る羊たちを、イエスが見失うことは決してないのです。
もうひとつ。かりに弟子たちがイエスを一人きりにしたとしても、「私はひとりではない、父が、共にいてくださるからだ」(31節)とイエスは言います。これはよく知られた十字架上のイエスの言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」(マルコ15,34)に対する反論ないし修正です。ヨハネ福音書によれば、イエスと父なる神はひとつです(例えばヨハネ10,30)。イエスは世界が創造される前から、神と共にいます(1,1)。だからこの神は、十字架にあってもイエスと共におられる。――これがヨハネ福音書のキリスト理解です。
V
最後にイエスは、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と弟子たちを励まします。
私は君たちが、自分が何者であるか見えるようにしておいた。君たちの本当の基礎が分かるようになるために。君たちがよって立つのは己の信仰心ではない。そこには必ずこの世の悩み苦しみが伴うのだから。君たちの安らかさは、むしろ私に発する平和の中にある。私はこの世と死を克服した者なのだから。
「私の名によって」祈るとは、このイエスを通して現れた神の圧倒的な愛を頼りに、またこの愛に促されて、神にまっすぐ応答することです。こうして見ると、冒頭に言われた「尋ねる」とは、〈どこのどなたかは存じませんが、あなたは私に与えるものを何かもっていますか?〉と質問することを、他方で「願う」とは〈あなたが私を愛していることを私は知っています。私に下さい〉と求めることを各々意味すると言えるでしょう。
「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7,7)とイエスは教えました。その「求める」と訳されるギリシア語と同じ動詞が、ここでは「願う」と訳されています。主イエス・キリストの名によって「願う」ないし「求める」とは、主イエス・キリストに現れた神の愛に信頼することに他なりません。