I
今日のテキストは、有名なエマオ途上の顕現物語です。
この物語はルカ福音書だけに伝わっています。イエスが死後に、失望した弟子たちといっしょに歩きながら教え、最後には自分を現わしたという、不思議な、しかしすてきな物語です。
現在ある物語の背後には、イエスがエマオに向かって旅をしていた二人の弟子たちに現れ、夕食の席で弟子たちはそれがイエスだと分かった、という内容の古い伝承があったのでしょう。
ヘブライ語「ハンマー/温泉」を意味する「エマオ」という地名が正確にはどこなのかは議論されています。エルサレム北西約11km(約60スタディオンに相当)にある現在の「エル・クベーベ」なのか、もっと遠く北西約23kmの「アムワス」なのかなど。他方、「クレオパ」という弟子については、ヨハネ福音書が、イエスが十字架につけられたとき側にいた女性たちとして、イエスの「母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア」をあげている(ヨハネ19,25)、その「クロパ」と同一人物ではないかと言われてきました。クレオパは原始教団の指導者であった義人ヤコブの後継者シモン(シメオン)の父だという伝承もあります(ヘゲシッポス、2世紀後半)。――いずれにせよ地名と個人名が残っていることは、この伝承の古さを示唆します。
他方で、二人の弟子たちとイエスの道中で行う詳細な対話部分は(17-27節)、古伝承にもとづいて後に発展した部分でしょう。
ちなみにルカ福音書24章は「空の墓」(1-12節)、「エマオ物語」(18-35節)そして「11人への顕現」(26-49節)を、同じ一日のうちにエルサレムとその近郊で生じたできごととして描きます。同じ著者による『使徒言行録』では、イエスは「40日にわたって彼らに現れた」(使1,3)とありますが、じっさいに物語られるのは最初の一日分だけということになります。こうした叙述は後にキリスト教がユダヤ教から分離してゆく中で、安息日(土曜日)から主の日(日曜日)に礼拝日を移動させたさいに根拠として利用されました。
今日は、古い伝承に由来するイエス再認知のモチーフと、伝承の新しい層に現れる聖書解釈の要素に注目しつつ、このテキストの意味について考えてみましょう。
II
最初にイエスが近づいてきたとき、弟子たちは「目が遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)とあります。しかし夕食の席で彼らの「目が開け、イエスだと分かった」(31節)。
とても不思議なモチーフですが、ヘレニズム時代には、神格が人の姿で現れて人間と共に歩むとか、ある宗教の創設者が死後に生前の弟子たちに現れるといったことは、他にも類例があります。つまり私たちの物語のイエス再認知というモチーフは、当時の人々にとって、聞いたこともないほど突拍子もない話というわけではなかったと思われます。
新約聖書にも同じモチーフを用いた、しかし別の物語が伝えられています。例えばマグダラのマリアは、顕現したイエスを最初は墓地の管理人だと勘違いしていました(ヨハネ20,14以下参照)。ガリラヤ湖畔に顕現したイエスを、弟子たちは最初イエスだと分かりませんでした(ヨハネ21,4以下)。――私たちも仮にイエスに出会えたとしても、おそらくそうだとは分からないのではないでしょうか。きっと顔を見ただけでは分からないのです。
すると〈神が人の姿で現れる〉とは、もしかすると〈人を通して神と出会う〉という意味を含みうると思います。エマオ途上の二人の弟子は、じっさい知らない誰かと旅の途上で出会い、共に食事をする中でその出会いを「イエスとの再会」と理解したのかもしれません。人との出会いの中でイエスと出会うという理解は、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」というイエスの言葉が証言しています(マタイ18,20)。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)とあります。これは聖餐式のことですね。この復活者イエスとの食卓の交わりは、罪人との共同の食事や最後の晩餐と並んで、聖餐式のもうひとつの起源です。最初期のキリスト教は、復活者イエスが臨在する食卓共同体としてスタートしました。これは生前のイエスが行った交流の新しい再開でもあります。その交わりの中にイエスがいるという実感がなければ、最後の晩餐や罪人たちとの共同の食事といった生前のイエスについての記憶も、共同体を生かすものとして保持することは難しかったに違いありません。
このことは私たちにとっても同じです。私たちの交わりの中にイエスが生きて働いているという実感があってこそ、私たちは信仰を維持することができます。
III
次に、伝承史的には新しいであろう中央の対話部分(19-27節)に注目しましょう。その中心テーマはメシア観の変化です。
まず弟子たちの前理解が述べられます。すなわちイエスは立派な預言者であり、イスラエルの解放者になるだろうと期待していたのに、祭司長や議員たちは彼を十字架につけてしまった。しかも死後すでに「三日」が過ぎていて、イエスの魂はもはやその体には戻らない。つまりイエスへのメシア期待は失望に終わったという理解です。
続いて復活の知らせに対する弟子たちの困惑が語られます。仲間の女性たちが――そこにはクレオパの妻が含まれるかもしれません!――イエスの墓は空であり、天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたという報告です。
とても興味深い叙述だと思います。復活信仰が使徒たちに発するものでなく、墓が空であることも「イエスが生きておられる」ことの証明ではないとされているからです。墓の状態は、さしあたり「あの方は見当たりませんでした」という意味でしかありません。
これに対してイエスが返答します。
続いてイエスは、旧約聖書全体についての解き明かしたとあります。
「メシア」と訳されているギリシア語は「キリスト」です。そして当時、受難のメシアという考え方はありませんでした。生前のイエスには、じっさいイスラエルの解放者としてのメシア期待が寄せられたのでしょう。しかしイエス自身は、〈私がメシアである〉とは一度も公言しませんし、この期待は失望に終わりました。
これに対して、受難の後に復活したイエスこそが「メシア/キリスト」だという理解は、従来のメシア理解に大転換を迫るものです。そしてこの新しい理解は、当然ながらイエスの死後に初めて生まれました。復活者イエスの発言は、そのことを踏まえています。
皆さんの中には、すでに生前のイエスが受難復活予告をしているではないか、と問われる方がおられるかもしれません。生前のイエスが、すでにそのことを自覚していたのではないかと。
注目していただきたいのは、先の復活者イエスの発言で「(〜の)はずだった」と訳されている動詞が、受難復活予告でイエスが「殺され、…復活することになっている」(例えばマルコ8,31)とあるときの「〜になっている」というのと同じ単語であることです(ギリシア語「デイ」)。どちらも〈神があらかじめ定めたことである〉という意味ですが、その認識は事が起こってからやってきます。つまり後になって初めて〈そうだったのだ!〉と分かるのです。
「栄光に入る」とは、もはや政治的なメシアとして権力を確立するという意味ではなく、復活と昇天を指します。イエスが地上的な生に復帰した、蘇生したという意味ではありません。イエスの生とその運命の意味は、彼の悲惨な死の後、復活信仰の中で初めて開けたのです。
こうしてイスラエルの解放者という失望に終わった政治期待から、聖餐式に臨在する主という祭儀共同体の神が生まれました。そしてこの交わりの場が、生前のイエスについての記憶を保持する受け皿にもなりました。この大きな変化は、旧約聖書全体の新しい読解と密接に結びつくかたちで生じています。ルカ福音書を生みだした共同体は、イエスが自分たちと共にいるという確信にもとづいて、旧約聖書を必死で読んだはずです。その途上で、イエスがキリストであることの本当の意味を発見していったのでしょう。「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていた」(32節)という表現は、そうした経験を踏まえた表現であると思います。
復活者イエスは、食卓の交わりと聖書の言葉を通して私たちに臨在する存在です。私たちは真理を求めてときに挫折し、「暗い顔をして立ち止まる」(17節)ことがありますが、そんな私たちと復活のイエスは「一緒に歩いて」下さる。
IV
次のような英語の歌の一節をご存知でしょうか?
(試訳)
この歌は、もともとミュージカル『回転木馬』(1945年)で使われ、その後、フランク・シナトラやエルビス・プレスリーなど多くの歌手が歌っているそうです。現在は、イギリスのあるサッカーチームの応援歌としてよく知られています。
なぜ「君は決してひとりで歩くんじゃない」と言うのでしょう? それは〈私が君といっしょに歩く〉からに違いありません。では、その「私」とは誰でしょうか? 今日の聖書の物語に照らせば、「私」と「君」がいっしょに歩くことで、復活のイエスが「一緒に歩く」、だから「君は決して決してひとりじゃない」と答えることになるでしょう。