2013.3.31

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「死を滅ぼす」

廣石 望

イザヤ書46,5-13 ; コリントの信徒への手紙一15,20-28

I

 イースターおめでとうございます。

 教会の古い信条である使徒信条は、イエスの死と復活について、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」と告白します。ひとつひとつの要素が、どのような意味で救いをもたらすものであるかは、はっきりは言われていません。

 しかし最後の「天に昇り」の要素には、「全能の父なる神の右に座したまえり」という説明がついています。キリストは全宇宙の支配者になったという意味です。同じことは、これに続く文言、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」で、もっとはっきりします。キリストは最後の審判における審判者です。キリスト教信仰の希望は、審判者としてキリストが到来することを目指しています。

 さてイエスの復活から見ると、その十字架の死は「過去」に属します。他方で、最後の審判は復活の「未来」です。復活の過去である十字架については、例えば贖罪の死という意味づけが私たちに親しいものです。しかし復活の未来である最後の審判について、それがどのような意味で救いであるのかについて、私たちは比較的に語ることが少ないように思います。だって究極的な未来は「分からない」というのが正直なところですから。

 それでも「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白する使徒信条は、この最後の審判を最終目標、つまり究極な救いのできごとと考えています。イエスの誕生と受難そして復活は、ひとえに彼が最後の審判を行うためなのです。そしてそのことはパウロも同様です。

 今日は、パウロの言葉を手がかりに、復活のメッセージが私たちの未来に対してもっている意味について考えてみましょう。

 

II

 「イエス復活」というメッセージに対して、たいていの人が「そんなことあるはずないでしょう!」と反応すると思います。どんなに願ったところで、死者たちが再び命に帰ってくることはない。私たちはそのことを、2年前の東日本大震災で再び思い知らされたはずです。

 他方、古代のユダヤ教には復活思想がありました。世に終わりに、神が死者たちを復活させるという思想です。しばしば最後の審判の思想とワンセットになっていました。重要なのは「世の終わりに」という限定です。つまり今の世では、死者たちの復活はまだ生じません。だから「神はイエスを死者たちから起こした」と原始キリスト教が告げたとき、皆が「まさか!」と思ったのです。

 週報のコラム「牧師室から」にも少し書いたように、それはイエスの生前の弟子たちにとっても同じでした。イエスの死体を求めて墓を訪ね、空の墓の中でイエス復活のメッセージを天使から託された女性たちは、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16,8)。彼女たちの伝言を聞いた使徒たちは、今度は「この話がたわ言のように思われた」(ルカ24,11)。ユダヤ人の中には、イエス復活のメッセージに対して、「弟子たちが夜中にやって来て…死体を盗んで行った」と言う人たちもいました(マタイ28,13)。イエス復活の真相は死体盗難事件だという意味です。さらにイエスの弟子の中には、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と豪語する人もいましたし(ヨハネ20,25)、マグダラのマリアは泣きながらイエスの死体を探していました(ヨハネ20,13)。パウロに至っては、イエス派の人々に暴力的な迫害行為を働いていた最中に、思いがけずキリストの顕現に接したという伝説が残っています(使徒言行録9,1以下)。

 つまりイエスの復活は、赤の他人は言うまでもなく、生前の弟子たちにとっても、まったく予期せぬできごとでした。そして復活者との出会いは、パウロのみならず多くの人々の人生を一変させました。

 イエスが復活したという信仰は、世の終わりに初めて起こると信じられていた死者の復活が、すでに始まったという理解を含みます。世界の終わりが始まった。この世は根源的に新しくなりつつある。神がそれを開始した、という理解です。――イエス復活のメッセージが人々に大きな衝撃を与えるのは、そのためです。たんに〈死人は生き返らない〉ということではありません。だから新約聖書が「永遠の命」というとき、それは不老不死という意味ではありません。むしろ人が最後の審判で滅ぼされず、神との無限の交流の中に生きるという意味です。

 全宇宙は今や、神の新しい行為によって変貌しつつある。――これは今ある世界が何であるかについて根本的な変更を迫るメッセージです。これが復活のメッセージに具わった刺です。パウロの回心は、なるほど彼の生き方を一新し、過去との断絶をもたらしました。しかしその根拠は、今までの生き方がダメだったと分かったというよりも、神がキリストの復活を通して宇宙全体の未来を一新させたことにあります。だからこそ、もはやモーセ律法を厳格に守って生きることが最重要ではなくなりました。その衝撃は、パウロをして三日間「目が見えず、食べも飲みもしなかった」(使徒言行録9,9)という危機に陥れたのでした。

 

III

 さてパウロは、本日のテキストで、イエスは「眠りについた人たちの初穂」であると述べます(20節)。イエスの運命は、その他の死者たちの運命に関係があり、彼の復活は先行モデルとして人類全体の未来を先取りするものです。

 イエスの復活が人類全体に関係する以上、イエスは最初の人アダムと比較可能です(21-22節)。共通する要素は「一人」という点です。アダム一人を通して人類に「死」が、つまり自然な死がもたらされたのと同様に、キリスト一人を通して万人に「生かされる」という現実が開けました。「生かされる」と訳されたギリシア語動詞「ゾーオポイエオー」は「いのちづくりする」「生を創造する」という意味の強い言葉です。もともとはアダムの創造に関する概念ですね。しかしその命はアダムとエヴァの命令違反によって失われました。イエスの復活は人類の原初的なあり方を回復させるものです。人はキリストのできごとを通して、やっと神の前で〈真人間〉になる。キリストは最後のアダムとして最初の〈真の人間〉です。そのような者として彼は「眠りについた人々の初穂」です。

 そのさきを見ると、世の終わりに関係する人々の「順番」に言及があります(23-24節)。まずキリストが到来し、「次いで」キリストに属する人々が来て、「次いで」世の終わりが来ます。明らかに、復活者との関わりで世の終わりを理解するようになった結果ですね。「世の終わり」には二つのことが想定されています。一つはキリストが「すべての権威や勢力を滅ぼす」こと、もう一つはキリストが「神にして父である者に国(支配権)を引き渡す」ことです。

 キリストの役割は「敵を滅ぼす」ことにあります(25-26節)。そして最後の敵が「死」であると言われます。「滅ぼす」と訳されているギリシア語動詞は、「無効にする」が原義です。つまり「死」のもたらす有効性や威力がミュートされ、すべてを支配する権限が死から剥奪される。

 したがって「死を滅ぼす」とは、人が不老不死になるということではなく、「死」の力が制限されるという意味だと思います。――キリスト教は「死」をいつも「罪」との関わりで理解してきました。高慢さや所有欲や無関心などの「罪」のゆえに、私たちは他者との生きた関係を破壊します。尊重すべき人を傷つけ、愛すべき人から奪い、赦すべき人を嘲笑ってしまう。当然ながら、この罪が関係の分断と命の破壊をもたらします。「死」の正体とはこのことです。この悲しい現実の効力が、キリストの支配によって覆われ、破壊の影響力がミュートされる。パウロが最後の審判に期待しているのは、このことです。まさに救いの名に値する救いです。

 最後にパウロは興味深いことを言います(27-28節)。死を滅ぼしたキリストもまた神に服従し、いわば神の中に消えてゆくという発言です。神はキリストより大きいのですね。「万物が神に従属させられるとき、そのとき御子もまた、万物を彼に従属させた者(=神)に従属させられるだろう。神が万物における万物になるために」(28節参照)。――こうして、キリストが「眠りについた人たちの初穂」つまり最初の実りであることの最終到達点は、神による万物の単独支配の確立と考えられています。なぜキリストの支配は神の中に吸収されるのでしょうか? それは「命の創造」は世の初めから神だけが行う行為であり、イエスの復活はその最初の実りだからだと思います。キリストはその意味で私たちの一人です。

 

IV

 ここまで、復活のメッセージが私たちの未来に対してもつ意味は何かについて、パウロに沿って考えてきました。

 本務校の学生たちに、イエスの復活を理解するためのヒントとして、日本のアニメ作家である宮崎駿氏の作品『風の谷のナウシカ』(劇場版アニメ版が1984年)について話すことがあります。お子さんやお孫さんといっしょに、この作品をご覧になった方もおられるでしょう。

 このアニメは、科学文明が崩壊した後の未来世界を描くSFものです。人間は、有毒な胞子をふりまく巨大植物から成る「腐海(ふかい)」という森がどんどん広がってゆくのに怯えながら暮らしています。――まるで放射性物質による環境汚染を暗示しているかのようです。

 そしてこの森には、異形の巨大昆虫たちが生息しています。その親玉的な存在が「王蟲(おーむ)」と呼ばれる虫です。だんご虫を大きくしたような生き物で、体は節に分かれていて、前方には合計14個の目がついている。そして体の下にはたくさんの足が生えています。それぞれの節は固い甲羅のようで、歩くと伸び縮みします。王蟲の幼虫は、子どもが手で抱えられるほどの大きさですが、成虫になると全長80mほどあるそうで、まるで小山のように巨大です。

 さて、この王蟲という空想上の生き物は普段はたいへんおとなしく、目も深い青色をしています。しかし怒ると、その目が真っ赤に染まります。そして大群をなして猛スピードで突進し、死ぬまで止まらないという性質があります。だから王蟲の突進を受けた都市は、根こそぎ破壊されるのです。――まるで津波のよう。

 さて、アニメの主人公は、「風の谷」という小さな独立国の少女ナウシカです。人間たちは相変わらず戦争をしています。あるとき敵軍が王蟲の幼虫を傷つけて、成虫たちの大群をおびき寄せ、彼らに風の谷を破壊させようとします。虫たちの命はつながっているので、一匹の幼虫を傷つけただけで成虫たちが怒るのです。

 少女ナウシカは傷ついた幼虫を王蟲の群れに返してやろうとします。しかし怒りに我を忘れた虫たちの突進は止まりません。意を決した少女は、突進してくる巨大な壁のような王蟲の大群の前に、幼虫と共に降り立ちます。そして跳ね飛ばされて死にます。

 そのとき奇跡が起こる。王蟲の大群の突進は止まり、虫たちはナウシカの死体をとり囲みます。大地は怒った王蟲の目の真っ赤な光に埋め尽くされていましたが、ナウシカの死を中心に、平和なブルーの色が広がってゆきます。少女の悲惨な死を入口に、怒りに満ちた世界に和解が流れ込んできます。

 そして彼女は死んだまま、虫たちの黄色い触角の集まりによって高くもちあげられ、やがてそこに、黄金の野原を楽しそうに歌いながら歩く少女の幻が現れます。――これは、他者のために命を棄てた者の復活の姿だと思います。

 

 パウロは、キリストが最後には「死を滅ぼす」と信じました。それは、いまご紹介したアニメ作品からも分かるように「罪の赦し」によって生じます。罪の赦しこそが死の死であり、イエス復活の未来である「最後の審判」の神秘です。

 それは作曲家の黒髪芳光さんが、私たちの教会に遺してゆかれたイースターの歌に、次のように歌われているとおりです。

オレンジばたけ、燃えるように明るく
オレンジの花を咲かせなさい。
世界に愛がやって来る。
 
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