I
2年前の明日、東日本大震災が起こりました。そして今は教会暦にいう受難節、つまりイエスの死とその意味を思うための季節に当たります。
聖書は、この世は「罪」に捕らわれているといいます。罪は人間が生みだすものであると同時に、人はその罠を自力で逃れることはできないと。人には自己破壊への止みがたい衝動が具わっているということなのでしょうか。
たしかに地震や津波、大吹雪などは自然現象ですが、そのとき生じる「災害弱者」や「復興支援の遅れ」などは社会現象です。原発事故となると、やはり人間の仕業という他ありません。その被害は広域かつ長時間に及びます。それは放射線量の高い地域だけでなく、海を含む地球環境全体に及ぶでしょう。被災地で暮らす人の中には、「もうがんばれない」と感じている人々もいらっしゃると聞きます。
加えて、国と国が領土をめぐって争っています。核兵器を使った脅しまである始末です。政治体制の違いのみならず、宗教の違いがそうした対立関係を煽るために利用されることもあります。
もっと日常的なレベルでも、破壊はあります。――今回のインドへの研修旅行で、被差別者(ダリット)の村で暮らす女性が多重債務に追い込まれたという、重苦しいエピソードに遭遇しました。彼女は未亡人として子どもたちを立派に育ててきた人です。それがある人に騙されて、町の悪徳金融業者から多額の負債を背負わされました。友人にも借金をしていた彼女はコミュニティでの信用を失い、息子たちは母親を軽蔑するようになったそうです。
命、家族、信頼と愛。この世界にあってかけがえのないこれらのものは、なんと脆く、なんと壊れやすいことでしょう。弱い者いじめ、強欲、無関心などの心ないふるまいの前で、こうした柔らかく大切なものはひとたまりもありません。
今日のテキストは、ヨハネ福音書の前半の結び近くにあります。イエスは父なる神を啓示するために、父のもとからこの世に派遣され、啓示の業を行ってきました。その彼が、これから受難へと向かいます。――このイエスは、今述べたようなこの世にある「罪」という現実に対して、いったいどのような力をもっているのでしょうか? どのような意味で、イエスの十字架の死は、彼を信じる者たちにとって勝利と解放をもたらすのでしょう?
II
今日のテキストの冒頭でイエスは言います。
今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ(27節)。
この発言は、私たちによく知られた「ゲッセマネの祈り」の伝承に反論するものです。例えばマルコによる福音書によれば、イエスは死の前夜、
地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ福音書14,35)
自らの苦しみと弱さを吐露するイエスの言葉は、私たちの胸を打ちます。そのようなイエスこそが、同じように弱い私の救い主であると感じる方もおられると思います。
しかしヨハネ福音書のイエスは違います。〈この受難のためにこそ自分は来た〉と彼は言う。「私は心騒ぐ」と訳された箇所は、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14,34)とはまったく違います。それはこの世に派遣された神の子イエスが、啓示の業が完成される時が来たことに対する興奮の表現、あるいは今こそ裁かれようとしているこの世とその支配者に対する憤りの表現です。
ヨハネのイエスにとって受難は彼の最大の使命であり、その意味で勝利です。だからイエスは「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈り、天からは「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう」と答えます(28節)。
神の「名」の栄光を現わすとは、神の「本質」を人間たちに知らせることです。神はイエスを地上に派遣することで自己を示し、いまイエスが十字架にかけられることでその行為が完成される。イエスは苦しみながら、嫌々ながら、絶望しながら殺されるのではありません。彼は自分の意思で、決然として十字架に昇ってゆきます。十字架に「あげられる」とは、ヨハネ福音書では、天の父なる神のもとにイエスが帰ることと二重映しです。
III
いったいヨハネ福音書にとって、イエスの受難とは何なのでしょうか? そのことの簡潔な説明が31-33節にあります。
第一にイエスの受難は、この世に対する「裁き」です。「今こそ」その時だとイエスは言います(31節前半)。第二にそれは、この世の支配者がこの世から追放される(直訳「外に投げ出される」)時です(31節後半)。そしてそれは「わたしが地上から上げられる」時でもあります(32節)。そのときイエスは「すべての人を自分のもとに引き寄せる」と言います。――イエスの十字架とはイエスが天の父のもとへと帰ると同時に、この世の支配者つまり罪の人格化であるサタンが人間に対する支配権を剥奪されることで、この世に白黒が付けられる瞬間なのです。
こうしたイエスの死の解釈は、とても大胆かつユニークです。常識的に考えれば、イエスの十字架刑は、イエスが敗者であることを証明する彼への裁きであり、イエスを殺したこの世の勝利の瞬間でしょう。しかしヨハネのイエスは、イエスの死こそ、神がイエスを通して行う、この世への裁きであると言います。これまでこの世界を蹂躙してきた罪の力が無力化され、この世から罪が――イエスではなく――追い出される瞬間であると。
またイエスの刑死を見た世間は、彼が神から見棄てられて罪と死の中に沈んだと確信したに違いありません。なのにヨハネのイエスは、この死を指して「わたしは地上からあげられる」つまり天の父のもとに帰ると言います。
ところで世界に対する審判やサタンの追放といったできごとは、当時のユダヤ教においては、世の終わりに初めて生じることと一般に理解されていました。ヨハネ福音書は、この終局時に期待されていた解放のできごとが、イエスの十字架死の意味であると言っているのです。なんという大胆な発言でしょう! 2000年前に世界の終わりは来た、この世に白黒がついたというのです。
ヨハネ福音書の背後にある共同体は周辺世界、とりわけ出身母体であるユダヤ教会堂連合からの敵意に晒されて、かなり孤立無援の状態にあったと想定されています。その中にあってこの自信と信頼! どうしてこんな大胆なイエス解釈が、彼らに可能であったのでしょう。その背後には、〈イエスは生きている〉という強い確信のあったことが感じられます。
キリスト/メシアは「永遠に留まる」はずという群衆の問いかけも(33節)、ユダヤ教のメシア期待との違いを暗示しています。〈なのにイエスは去っていったではないか。ならばイエスがメシアや人の子であるはずはない、お前たちはいったい誰のことを言っているのか〉という批判です。――これに対してヨハネ福音書は、こう答えます。〈人の子イエスは神のもとに上げられるのだから、当然この世から去ってゆく。そして彼は、彼を信じる者たちを父なる神のもとに引き寄せて下さるだろう〉と(34節参照)。
IV
そのイエスは群衆に向かって「光のあるうちに」歩むよう、またその光を信じるよう、そして「光の子となる」よう教えます(35-36節)。有名な言葉です。
これは直接的な福音書の文脈では、受難に向かおうとするイエスが群衆に向かって、イエスを信じる最後のチャンスを与えるという意味だと思います。彼らはそれに従わないわけですけれど。しかし同時に福音書の読者にとって、「光のあるうちに」とはこのイエスの言葉が朗読される瞬間、もっと広く言えばキリスト教のメッセージが語られる瞬間を意味すると思います。
「闇が君たちを捉えないように」とはまことに意味深長で、象徴的な表現だと感じます。同じヨハネ福音書のイエス自身が、少し前の文脈でこう語っています。
昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。(ヨハネ11,9-10)
この格言的な発言は、私たちの文脈ではキリストを理解するものに深められます。すなわち受難を通してキリストはいったん姿を消します。イエスの光に照らされて、彼の真理――イエスが命を与える創造者なる神の啓示者であること――を受け入れるとき、人は「光の子ら」になるでしょう。しかしそのことを信じない者、イエスを拒絶する者たちは、自らの内に闇を抱えたまま、自らに闇を呼び寄せ、ついにはそれに捕えられるのです。
V
〈去ってゆくイエス〉、〈光のあるうちに光を信じる〉とはどういうことなのでしょうか?
今回のインド研修旅行でも、イスラム教やヒンドゥー教を日々実践している人々と対話するチャンスがありました。新しかったのは、対話の相手が決して宗教間対話に慣れていない人々であったことです。だから「無宗教」の学生たちには、彼らが自分の宗教を絶対視しているように見えたでしょうし、当地の方々にとっては、日本の学生たちが「神を信じない」のが理解できなかったに違いありません。
例えばあるヒンズー教徒の少女は、「あなたたちはピンチになったらお母さんや友だちを頼るっていうけど、彼らは神じゃないからシヴァのような力はないのよ!」と言いました。あるいはイスラム教徒の男性は――真っ白な服と帽子をかぶり、真っ黒な顔にひげをたくわえ、腕を振りつつ大迫力のタミール語で――、「コーランに従って生きる者が天国に入り、それを拒否する者は地獄に落ちる」と自らの宗教的な確信を語ってくれました。宗教が生きているさまを目の当たりにすることは、学生たちにとっては基本的によいことです。
ところで、こうした発言を受けて、ある日本人学生が次のように言いました。「私たちは神々を信じる人々を尊敬している。自発的に何らかの神を信じることを私たちはしないが、それでも心の中によい思いをもっていて、これを行いたいと願っている」と。
――特定宗教に属する人々が自らの信仰心を絶対化して、他宗教や多文化に対して、あるいは自分の宗教や教派内部の異なる信仰理解に対して、無理解であるのみならず、敵愾心まで煽るような現実がないわけではないとき、こうした「無宗教者」の理解の方がよっぽど平和に貢献できるのではないかとすら思います。
ヨハネ福音書のイエスならば、この問いかけに何と答えるでしょうか?
VI
「光のあるうちに歩む」という表現は、私たちが基本的に光に照らされて歩む存在である、という意味を含んでいます。つまり私の内側に自家発電の懐中電灯はないし、私は自分の内側に、光なるイエスを閉じ込めて所有することもできません。むしろイエスは「去ってゆく」。
しかしこの世からのイエスの退去は、私たちに大きなプレゼントを残します。「罪」の支配からの解放がそれです。イエスが身に受けた死は、十字架にそして同時に天へと上げられるできごとであり、彼が罪に支配されないのみならず、罪の支配を廃棄したできごとだったからです。
ならば私たちにできることの第一は、このイエスを(もう一度)私のたちの罪のために――例えば他者に対する無関心や既得利益の正当化のために――利用しようとしないこと、自分たちとイエスを区別すること、自らの信仰心と神ご自身を区別することです。それを怠るとき、私たちは神やイエスを「信じている」と言いながら、思わず知らず自らに闇を呼び寄せることになるでしょう。
「世が裁かれる」とは、私たち自らが、自己中心的な思い込みから解放されることを含んでいるに違いありません。