I
原始キリスト教は、古代社会において、まれに見る女性参画型の運動であったことが知られています。今日は、キリストの誕生を祝うクリスマスにちなんで、いわゆる「マリアの賛歌」に耳を傾けてみましょう。
ちなみに「マリアの賛歌」とはマリアを称える歌ではなく、マリアが神を称える歌で、そのラテン語訳の最初の語により「マグニフィカト」と呼ばれています。
II
その前に、あるデータについてご紹介したいと思います。
国連に「国連開発計画 UNDP」という部局があり、定期的に『人間開発報告書 Human development report』を公表しています。「人間開発指数」というインデックスは、出生時平均寿命、平均就学年数、予測就学年数、一人あたりの国民総所得などを総合して計算されます。これによれば、日本は「人間開発最高位国」(全42国)に属し、その中で第11位。ちなみにアジア・オセアニア地域では、オーストラリアが第2位、ニュージーランドが第3位、韓国が第12位、そして香港が第21位です。まだまだアジア諸国は少ないですね。
他方、「ジェンダー不平等指数 Gender Inequality Index」というものがあります。こちらは妊産婦死亡率、15-19歳の女性の1000人あたりの出生率、国会での議席数、中等教育を受けた人口、就労率その他を勘案した指数とのことです。最新データでは、日本はスウェーデン、ドイツについで再び世界第11位とのこと。悪くない数字なのでしょう。
しかしジェンダー間の不平等に関しては、別の指標があります。世界経済フォーラムが公表している「世界ジェンダー格差指標Global Gender Gap Index」は、経済、教育、政治および健康の4分野14項目を、該当する国の男女間の相対的格差のみに注目して比較したものです。それによると2012年、日本はアゼルバイジャン、マレーシアについで第101位です。統計は項目の立て方やデータのとり方によって、ずいぶん差があるのでしょう。
こうした統計をどう理解すれば良いのか、専門的なことは私には分かりません。しかし一般的に言って、日本は女性たちの「人間開発」はたいへん優れているが、国内の「男女格差」はかなり激しいと理解してよいのではないかと思います。
私たちの教会が所属する日本基督教団においても、先の教団総会で選出された議長・副議長・書記は全員が男性です。常議員は教職者が全体で14名中、女性は1名。信徒の常議員は13名中、女性は3名です。つまり合計すると27名の常議員のうち、女性は4名に過ぎません。
これが、およそ日本社会の現状に近いのではないか、という気がします。あるいは、宗教界は一般社会よりも男性優位である可能性もあります。こうして会堂を見回してみると、圧倒的に女性信徒の方が多いのですけれど!
III
こうした視点からマリアの賛歌を読むと、これは古代の最初期キリスト教を生きた女性たちが、マリアに託して掲げたマニフェストのように思えてきます。
現代日本の女性たちは高等教育を受け、労働市場に参入します。その結果、男性たちと同様に、いきおい能力と所有にもとづく自己実現を強いられます。「私は・・・できる。ゆえに我あり」ともいうべき自己理解がそこにあります。
しかしマリアは、これとは対照的に、〈神が私に何をしたか・私の身に何が起こったか〉という視点から自分の存在・尊厳を理解し、そこから生きる勇気を得ています。「私は超越者から受け入れられた。ゆえに我あり」とでも言うべき自己理解です。
他方で、現代日本において男女格差が大きいとは、簡単に言えば、女性がしばしば男性を頼らないとやっていけないということだと思います。若い女子学生には、父親と同等ないしそれ以上の経済水準を保証してくれるボーイフレンドが欲しい、と発言する人もいます(冗談かもしれませんが)。「私は・・・男性から求愛される。ゆえに我あり」。
しかしマリアは、これとは対照的に、神に心を閉ざして「高ぶる者」、「思い上がる者」あるいは「権力ある者」に対して激しい言葉を語り、はっきりと弱者の側に立っています。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。これは社会の不正義を大胆に批判し、これに抗って行動する能動的な姿勢と言えるでしょう。つまり「私は弱い人々と連帯する。ゆえに我々あり」。
IV
マリアは一方では「私は神の憐みに出会った。神のみに栄光あれ」と歌い、他方では「私は弱者と連帯し、社会の不正義に抵抗する」と歌います。この歌は人間が神にならず、真の意味で人間らしくあることを求める、古代の宗教的な表現であるようにも感じます。ではマリアにとって、クリスマスはどのような出来事であったのでしょうか?
新共同訳が、神は「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」と訳す箇所を、岩波版の新約聖書は、神は「そのはしための悲惨を顧みてくださった」と訳します(佐藤研訳)。では、マリアの悲惨とは何だったのでしょう?
それは単に「身分の低さ」といった一般状況というより、もっと具体的で個別的な経験に関係があると考えることも可能です。
第一にマリアは、許嫁であるヨセフとの婚約期間中に、ヨセフが関与しないかたちで妊娠しました。これは世間的に見れば婚外妊娠に当たります。ユダヤ社会では「姦通罪」に問われる可能性がありました。告発されれば死罪です。当時(そして今も)シングルマザーは、その子ともども社会的に差別の対象となりました。マリアは若い女性として、絶体絶命のピンチにあったのです。
第二にマリアは、そのように生まれた長男イエスを、十字架刑という古代世界において最も悲惨で恥ずべきもの、さらには神から呪われた者の死と見なされていた処刑によって失いました。彼女は、子どもを虐殺された母の一人になりました。
これら二つの悲惨に関連して、マリアが経験した神の「顧み・憐み」とは、何であったでしょうか?
ひとつは許嫁ヨセフが、婚外妊娠したマリアを妻として受け入れ、生まれた男子に「イエス」(ヤハウェは助け)という名を与えて認知したことです。マリアとイエスは母子ともに、社会的・経済的に命拾いしたのです。
他方で、処刑されたイエスを神は見棄てなかったという信仰、いわゆる復活信仰が生まれました。この信仰は、世界から見棄てられたと見える人々との連帯を、内容的に含んでいます。
こうしてマリアの運命は、彼女の息子イエスの運命と並行関係にあることが分かります。マリアの生は、イエスの生涯と運命から逆照射されています。「マリアの賛歌」は、歴史上の一個人としてのマリアには、おそらく遡りません。むしろキリスト教信仰を前提とし、その光のもとで、彼女の身に降りかかった悲惨と恥を、神の慈しみと誇りに向けて転換することで、マリアに託してシンボリカルな連帯を果たした女性たちの証言だろうと思います。
その意味では、マリアの賛歌は彼女個人のため、あるいは女性たちだけの歌ではありません。マルティン・ルターが言ったとおり、次のような境遇にあるすべての人に、神の救いを告げるものです。
「人に侮られる、みすぼらしい、卑しい状態ないしは境涯に他ならず、例えば、貧しい人々、病む人々、飢えている人々、渇いている人々、捕らわれている人々、悩んでいる人々、死にかけている人々はそれである。試練に遭った時のヨブ、領国から追い出された時のダビデ、窮迫した時のキリスト、及びすべてのキリスト教徒たち」。
V
今年の8月、私の勤めている女子大のボランティアセンターという部局が、昨年に続いて「サマースクールプログラム@横浜」というプログラムを実施しました。
福島県の子どもたちが環境への不安から解放され、横浜の緑あふれる公園で、太陽の下、マスクを外して思い切り遊び、学ぶためのプログラムです。5泊6日のプログラムに、25名の子どもたちが参加しました。これを支えたのが、合計34名の学生ボランティアです。皆で横浜の歴史文化や国際協力を学びながら遊んだそうです。
このプログラムを立ち上げたのは、福島出身の女子学生です。小さなできごとかもしれませんが、マリアの賛歌は、こうして受け継がれてゆくのだと強く感じます。「magnificat anima mea dominum 私の魂は主をあがめ」――この歌を継承するキリスト教会も、そうでありたいと願います。
皆さん、お一人おひとりにメリークリスマス!