2012.12.16

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「神の子羊」

廣石 望

出エジプト記12,37-51 ; ヨハネによる福音書1,29-34

I

 イエスとは何者か?――この問いは、ヨハネ福音書が、他の新約諸文書と比較しても、ずばぬけて大きな集中力をもって取り組んだ主題です。キリストの降誕を待つアドヴェントの時期にある私たちにとっても、改めて重要な問いでしょう。

 今日の聖書箇所では、洗礼者ヨハネがイエスについて証言しています。そのさいヨハネの聴衆は特定されていません。これは〈イエスとは何者か〉という問いが、〈誰に向かって話しているのか〉よりも遙かに重視されていることのひとつのしるしです。福音書は、洗礼者の口を通して、未知の存在であるイエスを読者に紹介してもいるわけです。

 まず洗礼者イエスとヨハネの関係について、いくつかの点をおさらいし、その後でヨハネ福音書に特徴的なキリスト理解について考えてみたいと思います。

II

 ヨハネは紀元20年代、忽然としてユダの荒野に登場した預言者です。そしてヨルダン川で「洗礼」――文字通りには「(水)沈め」――の儀礼を開始しました。「洗礼者」というあだ名は、この特徴的な象徴行為に由来します。

 彼は自分が、最後の審判を目前に控えて、神がイスラエルに派遣した〈最後の預言者〉である、という自覚をもっていたようです。

わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、〔聖霊と〕火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタイ3,11参照)

 ここで「わたしの後から来る方」というのが審判の執行者です。神が直接に介入するのか、代理人である「人の子」と呼ばれる天使的な存在のことが考えられているのか、どちらかであると思われます。その人は、「火であなたたちに洗礼をお授けになる」(原文は「君たちを火に沈める」)。これが「火の審判」です。洗礼を受けるとは、この審判に直面して悔い改めること、つまり死と再生(ないし新生)を意味しました。

 原始キリスト教は、洗礼者ヨハネが「わたしの後から来る方」と言ったのはイエスのことであると再解釈し、洗礼者が「火」の洗礼について語ったのを、聖霊降臨の経験を受けて、「聖霊」による洗礼という要素を追加したのだろうと思います。

III

 当時、ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、周辺のヘレニズム・ローマ文化から強大な同化圧力に晒されていました。その結果、民族のよりどころとしての「律法」の権威と規範性が、どんどん強化されました。律法に忠実に生きることで、異文化の圧力に抗して民族の固有性を堅持しようとしたわけです。

 ところが、このごくまっとうと思われる方向性が、民族内部に分裂を引き起こします。外国人差別は民族内差別に転じ、いまやユダヤ人の中に「罪人」と蔑称される人々が生じました。〈我らこそは真のイスラエルなり〉と主張するグループが乱立して、互いに競合しました。その結果、民族の統合性はズタズタに引き裂かれてしまったのです。規範を厳格化することで自らを正当化するという、内向きの隠れた攻撃性が、そうした規範を守らない(/守ろうとしない/守れない)人々に対する、あからさまな攻撃性に転じたからです。

 洗礼者ヨハネの活動では、この規範の厳格化という傾向が極限点に達し、反転に転じる寸前までいっています。敬虔な者たちも、不敬虔な者たちも、ラディカルな者たちも中庸な者たちも、いまや万人が等しく神の裁きの下に立つからです。

 蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。(マタイ3,7-9)

 いまや真のイスラエルであることを主張できる人は誰もいません。アブラハムの子孫であることもそれを保証しない。イスラエル宗教史上、アブラハム契約を全面的に否定したのは、洗礼者ヨハネが最初です。いまや悔い改めのしるしに、洗礼を受けるものだけが例外とされました。

 イエスは、そのような宣教を行ったヨハネの弟子になりました。その意味するところの一部は、本日週報の「牧師室から」の欄に書かせていただきましたので、ご覧ください。

 イエスがやがて師ヨハネのもとを離れて独立した理由は、イエスに「神の国」のヴィジョンが開けたからです。万人が神の怒りの審判の下に立つというヨハネの認識は、神の無条件の恵みという現実認識へと反転したのです。

 だからイエスは、もはや洗礼を施しません。ヨハネの洗礼へと人々を促したのは、最後の審判への不安であったでしょう。他方でイエスの「神の国」とは婚礼の喜び、畑に隠された宝、高価な真珠、放蕩息子の帰郷の宴です。その基調は喜びと信頼です。規範の強化という内面に向けられた攻撃性は、神の無限の愛にもとづく自己受容に反転しました。

 ヨハネ福音書に描かれた洗礼者ヨハネの姿は、この転換を踏まえています。

IV

 では、今日の聖書箇所に出る「世の罪をとりのぞく神の子羊」という証言は、何を意味するでしょうか?

 現代キリスト教会に標準的なキリスト理解、すなわち〈イエスが私たちの贖罪のために十字架上で犠牲となった〉という理解は、ヨハネ福音書には希薄である、ないし欠けていると言われます。

 イエスの十字架のできごとは、ヨハネ福音書では、彼が天に引き上げられることと同義です。神のもとから派遣された神の子が、地上で啓示の業を完了した後に、十字架を通過して、父なる神のもとに勝利の凱旋をするからです。

 いわゆる代贖の思想に合致すると思われるのは、むしろ次のような発言です。

一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。(ヨハネ11,50)

 ところがこれは大祭司カヤファが、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と恐れる最高法院のメンバーを説得するために、イエスを殺そうと提案する言葉です。この〈身代わり〉の死に、民族を罪から救うという意味合いは皆無です。

ヨハネ福音書では、イエスの死ではなく、彼の言葉に留まるか否かが救いにとって肝心要です。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(8,31-32)。

 この福音書において、イエスの十字架の死とは、この世の支配者サタンに対する勝利宣言に他なりません。受難を控えたイエスは言います。

今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。(12,31-32)

 では「世の罪をとりのぞく神の子羊」とは、どういう意味なのでしょうか?――その背景としては過越祭の子羊(出エジプト記12章)、苦難の僕の歌(イザヤ書53章、とくに7節「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」)、浄罪の供犠(レビ記4章16章)などが考えられます。しかし過越祭の子羊は罪を贖うための犠牲ではなく、イザヤ書で用いられる「羊」の形象は過越祭とは無関係です。さらにレビ記によれば、浄罪の供犠に用いられるのは牛や山羊であって、羊ではありません。つまりユダヤ教に伝統的な理解のどれかひとつにピタリと一致するものはありません。おそらくそうした複数のイメージを背景にした、原始キリスト教のクリエイティヴなイエス理解を反映しているのでしょう。

 そして「世の罪を取り去る」とは内容的に、先ほど引用した「この世(の支配者)」への裁きないし追放のことであろうと思います。つまり「世の罪」とはイエスへの不信であり、イエスの十字架と高挙は、不信仰に対する無効宣言なのです。「子羊」のイメージはヨハネ福音書にそれ以上の展開がないので詳しいことは分かりませんが、私には〈小ささ〉や〈柔らかさ〉などの意味合いが連想されます。

V

ヨハネ福音書の洗礼者は、イエスについて「わたしは、“霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(32節)と証言します(マルコ1,10も参照)。

 ヨハネ福音書によれば、「聖霊」はイエスの死後に初めて共同体に与えられるものです。――「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7,37)という生前のイエスの発言について、福音書の物語り手は「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊"について言われたのである」(7,39)とコメントしています。受難に向かうイエスは、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16,7)と言います。そして復活したイエスは、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20,22-23)と弟子たちに告げています。

 したがって「“霊"が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)という洗礼者の発言は、イエスの死と復活のできごと、さらには聖霊降臨の体験をも踏まえたものです。

 洗礼者はイエスについて、「私はこの方を知らなかった」と二度も言います(30節、33節)。これは表面的には、初めてイエスに出会ったという意味です。しかし「知る」という語がイエスとの霊的交流の意味を含むとすれば、聖霊が派遣されて初めて可能になったこの交流の中に、洗礼者ヨハネはいないということなのかもしれません。

VI

 イエスとは何者なのでしょうか?――彼は、〈こうでなければならない!〉という強迫観念――これが共に生きている人々の間に分裂を生み、互いに裁き合う原因になります――から人を解放して喜びと絆による自己受容を、父なる神との生きた関係を作りだします。

 さらにイエスは、彼の言葉を信じようとしない「この世」、イエスが神のロゴスの受肉であることを信じないという「世の罪」を、聖霊の派遣によって克服する存在です。聖霊を通して、イエスは私たちと共にあります。私たちのうちにイエスがおり、イエスの霊のうちに私たちはいます。来週、私たちはクリスマス礼拝で洗礼式を予定していますが、それは霊なるイエスの現臨を祝うことでもあります。

「神の子羊」であるイエスが、聖なる風として、私たちのもとに到来するのを待ちたいと思います。

 
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