2012.11.25

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「朽ちないもの」

廣石 望

イザヤ書35,1-7 ; コリントの信徒への手紙一15,50-55

I

 なんと大胆なことでしょう――死に向かって、直接に語りかけるとは!

死は勝利に呑まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。(54-55節

 なぜ使徒パウロは、すべてのものの終わりである死に向かって、このようなことを言うことができたのでしょう?

 人は、言うではありませんか。死者たちは、ただその人々とともに生きた私たちの記憶の中にだけ存在し、その私たちもやがて過ぎゆく。そのとき私たちとともに、愛する人々についての記憶も過ぎ去る。後には、何も残らないだろうと。

 私たちは知っているではありませんか。年月とともに、いつか私たちの骨すらもさらさらになり、まったく塵に返ることを。

 だから人は皆「朽ちゆくべき者」であり、死こそが万物の勝利者であると、私たちはうすうす考えているというのに。

 いったい何を根拠にパウロは、〈死こそがすべての終わりである〉という命題に公然と抗い、命こそが最終決定的な現実である、という勝利宣言を行うことができたのでしょうか。いったい死者たちを、誰が思い起こすというのでしょうか?

 

II

 私たちの教会は1997年、「上原教会」と「みくに伝道所」という二つの教会が合同して生まれました。そのとき以来、またそれに先立って天に召されていった信仰の仲間たち、および教会に関係の深かった方々のお名前が、本日の週報の裏面に印刷されています。

 私はみくに伝道所の会員でした。だから教会合同以前に天に召された上原教会の方々とは、個人的には面識がありません。

 教会は「生ける者」と「死ねる者」の両方から成る共同体です。その両者を裁きたまう主イエス・キリストの支配下にある群れです。

 リストに名を記されているのは、私たちよりも先にキリストに従って生き、私たちの知らない人生のさまざまな苦労を経験し、多くの苦しみに耐えて、私たちに先んじて死を通り抜けるという大仕事の後に、主にある眠りに就いた方々です。

 私が存じ上げるかぎり、その人たちは生前にあって決して偉ぶることなく、慎ましく、かつ忠実に生き、助けを必要とする人々には両手を広げながら、懸命に生きてこられました。この方々の後に、自分たちも続きたいと願います。

 

III

 今日の聖書箇所は、「生ける者」と「死ねる者」の両方にキリストが何をなさるかについて述べています。キリストは私たちを等しく「朽ちないもの」へと変貌させるとあります。その意味するところは何でしょうか?

 まずパウロは「肉と血」を指して、これを「朽ちるもの」と呼び、それらが「神の国」を継承することはないと言います(50節)。塵に返ってゆくものは「復活」のできごとに含まれない、とパウロは考えているようです。

 続いてパウロは、ひとつの「神秘」について語ります(51節)。〈皆が眠りにつくわけではないが、皆が変貌させられる〉と彼は言います。暗黙裡に前提されているのは、世の終わりにキリストが再び来るという再臨信仰です。そのとき私たちは、死せる者も生ける者も、ともにキリストと同じあり方へと変えられる。別の書簡でパウロは、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に代えて下さる」と語っています(フィリピ3,21)。

 そのできごとは「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに」生じるとあります(52節)。そのとき「死者は起こされて朽ちない者とされ、私たちもまた変えられる」。

 もちろん私たちには、世の終わりに何が起こるのかは正確には分かりません。パウロもまた、独自の霊感を受けたのだろうと思いますが、同じ人間である以上、やはり本当のところは知らないでしょう。彼の発言には、切なる希望が込められているに違いありません。

 

IV

 それでもこれは、経験的な根拠に基づく希望です。イエスの復活のできごとがそれです。

 イエスは十字架刑で殺され、その「肉と血」は滅びました。彼は私たちど同じ死を死んだのです。今も死んだままです。そしてそのままに、イエスは神の命を生きており、私たちに働きかけます。その「霊」は彼の個性をはっきり備えています。だから新約聖書の時代を生きた人々は、そのようなイエスを指して「霊の体」「栄光の体」、つまり神の創造性によって新しく創設されたイエスの「私」、輝きの「彼自身」と呼んだのだと思います。そのイエスが、私たちをも神の命に向けて導くだろうと。

 最後にパウロは、「朽ちるべきもの」「死ぬべきもの」が「朽ちないもの」「死なないもの」を「着る」と言います(53-54節)。「着る」とは、先に言われた〈変貌〉の言い換えでしょう。古代宗教思想で、しばしば肉体を「脱ぐ」ことで「霊」になる(/戻る)ことが救済と見なされたのに対してパウロは、私たちは「脱ぐ」のではなく「着る」と言いたいのでしょう。それは私たちの変貌が、身体性つまり私たち一人ひとりが「個」であることを消し去ることでなく、その新しい確立であることの強調です。キリストによって起こされる死者たちは、その個性的な相貌を新しく獲得するという理解です。

 これは、キリストにあって眠りについた人々は、決して忘却の彼方に忘れ去られることなく、世の終わりに神によって〈思い起こされる〉ということだと思います。神の「おもい」とは、命を造り出す神の息吹のこと。その「思い/命の息吹」が、私たちを「起こし」、新しい個性的な人格として立てる――これがパウロの希望です。

 

V

 いったいそれは、どんな出来事なのでしょうか? 二つのイメージが浮かびます。

 ひとつは先ほど朗読したイザヤ書35章です。バビロン捕囚にとられたイスラエル民族が、ついにパレスティナの故郷に帰還する日、彼らが砂漠の真ん中を通り抜けてゆくとき、自然もまた変貌を遂げるだろうというヴィジョンです。

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。(イザヤ35,1-2

 ところで古代中近東の人々にとって、砂漠は〈死者の国〉でもあります。すると続いて現れる次の言葉、

そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。(5-6節

 ――この言葉は、弱った人々に力がみなぎるだろうという意味を超えて、死者たちの復活を指しているのではないかと思います。

 もうひとつのイメージは、村上牧師が何度か紹介して下さった三好達治の詩です。鈴木秀子『死にゆく者からの言葉』に、山中で記憶喪失の状態であったのを施設に保護された「山のおじいさん」がふとした機会に諳んじたという、祈りのような詩です。

あはれいまひとたび
わがいとけなき日の名を
よびてたまはれ
風のふく日のとほくより
わが名をよびてたまはれ
庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
ちらちらと雪のふる日のとほくより
わが名をよびてたまはれ
よびてたまはれ
わが名をよびてたまはれ

幼き日
母のよびたまいしわが名もて
われをよびてたまはれ
われをよびてたまはれ

 主キリストもその再臨のとき、「幼き日、母の呼びたまいしわが名もて」私たちを呼び覚まして下さると思われてなりません。

 そのとき私たちは――生ける者も死ねる者も――朽ちないものへと変貌させられ、そして、こう歌うことでしょう。

死は勝利に呑まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。

 そのときまで、私たちは心を合わせて歩みたいと願います。

 
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