I
マルティン・ルターは、パウロの信仰義認論を再発見したと言われています。――律法の決まりごとを遵守する行いによらず、ただ神の子キリストへの信仰によって、人は救われる(sola fide)。人は罪深い存在であり、自分の力で救済に達することはできない。救いはただ神の恵みによる(sola gratia)。そして、このことは聖書に記されている。教会は、この信仰を証しする聖書によってのみ立つ(sola scriptura)。
ルターは、とりわけ「信仰のみ」の条項をキリスト教信仰の肝心要と見なして、〈この条項によって教会は立ちも、倒れもする〉、〈この条項がなければ世界は闇である〉と言いました。
彼は志を同じくする人々とともに教会を改革し、カトリック教会から分離したかたちの教会の形成に至りました。じっさいにはカトリック教会がルターを破門したのです。この破門は、それから500年が経とうとする今も解けていません。
改革以前の教会では、「ヴルガータ訳」と呼ばれるラテン語聖書が用いられていました。典礼も祈祷もラテン語でした。そして一般民衆はラテン語を理解しませんでした。そもそも礼拝堂の構造も、司祭団が入る内陣と一般信徒のための場所は区別され、二つの空間の間には壁がありました。さらに信徒たちのための空間に現在のようなベンチはなく、信徒たちは〈立ち見〉の状態で、内陣で行われるミサを壁越しに眺めていたわけです。
これに対してルターはドイツ語による説教を重視し、「神の言葉」が一般民衆の心に届くよう聖書をドイツ語に翻訳して、信徒たちが自ら読めるようにしました。またドイツ語の讃美歌をたくさん作って、会衆が自分たちの言葉で神を称え、神に応答できるようにしました。
II
私はルターのパウロ理解は基本的に正当であると思います。しかし別の意見もあります。
例えば、ルターのような〈良心の内面的葛藤〉という特徴はパウロには見られない。パウロは律法遵守の点では誰にも負けないという自信をもっていた(フィリ3参照)。よいものを願いながらも悪いことをしてしまう自己分裂を嘆く彼の発言は(ロマ7)、一般論であって個人的告白でない。信仰義認論は〈異邦人のキリスト教会への参加資格〉をめぐるユダヤ主義者との論争から生まれた宣教論ないし教会論の問題であって、キリスト教信仰の中心ではない。パウロの最大の関心はむしろ民族問題、すなわちイスラエルと異邦人の分裂という問題の克服である、などなど。
この最後の論点すなわち民族問題は、なるほど今日の聖書箇所の最後にも現れます。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります(29節)。
しかし、そのさいの論拠は次のこと、すなわち「実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」(30節)にあります。「信仰」はユダヤ人と異邦人の両方に開かれた可能性です。両者は「信仰のゆえに」「信仰によって」義とされる。
III
今日は、この「信仰」について申し上げたいと思います。「信仰」(ギリシア語「ピスティス」)とは私たち人間が神ないしキリストを信じることだと、教会とりわけプロテスタント教会は教えてきました。ところがパウロのギリシア語原典テキストには、これとは少し違ったニュアンスがあることが知られています。
新共同訳に、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22節)と訳された箇所は、直訳すると「神の義〔、すなわち〕イエス・キリストの信を介する、信じる万人に及ぶ〔それが明らかにされた〕」です。ニュアンスの違いは、新共同訳が「イエス・キリストを信じることにより」と訳す箇所にあります。原文は「イエス・キリストの信を介して」(英語ならthrough faith of Jesus Christ)です。そして「イエス・キリストの」という部分を「イエスにキリストに対する」と理解するのは、本当はギリシア語として無理があるのです。
ご説明します。「信仰」と訳されるギリシア語「ピスティス」と同じ語根の動詞「信じる/ピステウオー」は自動詞です。日本語で言えば「走る」や「眠る」がそうです。そして自動詞を名詞化したもの、例えば「走り」や「眠り」に所有代名詞、例えば「私の」がついた「私の走り」「私の眠り」にあって、「私の」は目的語ではなく主語です。したがって「イエス・キリストの信仰」とは「イエス・キリストを信じる」という意味ではありえず、むしろ「イエス・キリストが信じる」という文を名詞化したものなのです。
では、この文全体は〈イエス・キリストがもっていた(神への)信仰を介して人は義とされる〉という意味なのでしょうか? おそらく違います。一番ありうるのは、〈イエス・キリストを通して明らかになった、神が信実な方である事実を介して、人は義とされる〉という意味関連です。あえて言えば、「イエス・キリストという(神の)信実」ということです。この神の信実に対して、人もまた真心で応じる。神が開いた信のできごとに対して、人もまた信で応答する。――そう理解した方が、「律法の行い」との違いが、いっそうくっきりと明らかになります。
IV
もっともユダヤ教徒たちは、まさか自分たちが「律法の行い」によって初めて救われるなどと思っているわけではありません。彼らは、そんなに傲慢ではありません。エジプトでの奴隷状態からの救出という恵みの出来事を通して、「律法」は与えられました。律法を守ることは、救いに〈入る〉ための条件ではありません。そうではなく、与えられた恵みの中に〈留まる〉ための、そして、そこからこぼれおちないためのガードレールです。その意味で「律法」は、神の恵みが人の応答に先行することのしるしです。
しかしパウロ時代のユダヤ教には、いろいろな流派がありました。ファリサイ派もそのひとつです。「ファリサイ」という名称の意味は「分離派」です。彼らは律法順守に独自の方法をもちこみ、これを守らない者たち、「罪人」から自らを分離したのです。パウロはこの流派に参加したのみならず、律法を自由に解釈する者たちへの攻撃活動をも辞さない過激派へと転進してゆきました。この場合には、律法の行いは限りなく〈救いの条件〉に近づきます。神の恵みは後ろに退き、人間の行為が前面に躍り出てくるからです。
これに対して、「イエス・キリストを通して明らかになった神の信実」とは、神の恵みのプライオリティの復権ないし回復を意味します。だからこそ、「信仰」を人間の行為として強調しすぎることは、「律法の行いによって救われる」の二の舞になってしまう危険性があるわけです。
ちょっと考えてみれば分かるように、〈私の信心〉が私を救うはずがありません。私を救うことができるのは、神だけです。
さらに新共同訳で、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)と訳されている箇所も、ギリシア語原文を読めば、それがnot - but 構文でないことに気づきます。直訳すると、「人は律法の行い(複数形)の彼方で、信実〔という関係〕に〔あって〕義とされる、と私たちは考える」。つまり「律法の行い」がもたらす有効性の圏外で、「信実」との関わりにおいて「義」が生じるというわけです。「信実〔という関係〕に〔あって〕」と訳したところは、「ピスティス」の語が前置詞なしで与格形になっています。「律法に死んで、神に生きる」というときの「に」と同じです。パラフレーズすれば、「信に応答することで関係は回復される」とでもなるでしょうか。
「神の義」とは、神が造り出すところの失われた関係の回復です。まさに同じことを、「神はイエスを死者たちから起こした」という復活信仰が指しています。イエスの十字架の死は、人間世界を支配する死の原理の表われです。そしてイエスの復活は、神による創造的な回復行為です。こうしてイエスは人間としては死んだまま、神の命にあって生かされて私たちに働きかける。このできごとを通して、神はご自分が信実な方であることを私たちに示しました。だから私たちは、この神に自らも信実をもって応答することで生きるのです。
信仰義認の教えはつねに、このような意味での「神の義」とのつながりの中で理解されなければなりません。