2012.10.21

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「彼は叫ばず、呼ばわらず」

村上 伸

イザヤ書42,1-4 ; マタイ福音書27,11-14

 領土問題をきっかけに近隣諸国、特に中国・韓国との関係が険しくなり、さまざまな分野で深刻な悪影響が出始めた。どちらも自国の「固有の領土」と主張して譲らないから、結局は「水掛け論」になる。強い言葉で何か言っても、反論を誘うだけで問題は一向に解決しない。そんなことは分かり切っているのに、まるで戦争前夜を思わせるような過激な言論を弄ぶ人も出て来た。その状況を見かねたのか、作家の村上春樹さんは9月28日の『朝日新聞』朝刊に寄稿して、「政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ」と言った。その通りである。

 池明観先生が《唐の平和》ということを唱えたことがある。「唐」とは7〜10世紀の中国を指す。その頃の東アジアには戦争がなかっただけでなく、日・中・韓の人々は東シナ海をまるで内海のように使って盛んに往来し、漢字や仏教を共有する文化交流の豊かな恩恵に浴していた。彼はそれを《ローマの平和》になぞらえて《唐の平和》と呼び、そのような時代が再び来ることを切に願った。

 村上春樹さんも、ほとんど同じことを考えているように見える。彼は前記の文章において次のような認識を示した。「この20年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の『文化圏』が形成されてきたことだ」。つまり、中・韓・台が経済的に発展したことによって多くの文化的成果(知的財産)の交換が可能になり、この文化圏は今や「安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある」と言う。彼の言葉によれば、「それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ」。この認識は重要である。これが揺るがぬものとしてあるから、「領土問題は実務的に解決可能な案件だ」という言葉も出て来るのである。

 だが、その上で彼は一つの危険を指摘した。「その領土問題が『国民感情』の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない危険な状況を出現させる。・・・それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、後に残るのはいやな頭痛だけだ」。そして、1930年代にヒトラーがやったことは正にそれであったとし、「それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている」と警告を発した。彼はこう結ぶ。「安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない」。今、東アジアに住む人々に何よりも必要なのは、この冷静な洞察ではないだろうか。

 私はこの頃、詩編第2編の冒頭の言葉をよく思い起こす。ヘンデルの『メサイヤ』では、バスが印象的なアリアで歌うところだ。「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々は空しく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」。その声はこう続く。「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲られる」

 このような時だからこそ、我々は「在るべき言葉」について改めて考えたい。

 村上春樹さんのように言葉を使って仕事をする作家がそれをするのは当然だが、それ以上に教会は、「魂が行き来する道筋を塞がない」ために、その固有の使命を果たすべきではないか。なぜなら、教会には「神の言葉」が委ねられているからである。

 疑いもなく、「言葉」は神が人間に与えられた最大の宝物である。それなのに人間はその宝を汚している。ヤコブの手紙3章5-10節にはこうある。「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。・・・全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火で焼かれます。・・・舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。・・・わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」

 他方、聖書は決して言葉を汚さなかった人についても語る。第二イザヤは「主の僕」と呼ばれる不思議な人物について、彼は「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(42章2節)と言う。つまり、主の僕は決して大言壮語しない。それは「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して確かなものとする」(3節)ためだ。さらに、神はこの主の僕に「わたしたち(人間)の罪をすべて」負わせられたが、彼は「苦役を課せられて、かがみ込み、口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように口を開かなかった」(53章6-7節)と言っている。

 では、肝心のイエスについてはどうか? マタイ福音書27章12-14節は、イエスが宗教裁判にかけられたときのことをこう描写している。「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、(イエスは)これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、『あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか』と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った

 ローマ総督ピラトは、いつも「政治的な言葉」をやり取りしながら生きて来た。政治的な言葉は、ほとんど常に「政敵を攻撃し、自己を正当化する」ために使われる。ロムニー候補とオバマ候補のテレビ討論を見ても明らかな通りだ。

 だから政治家ピラトは、イエスの沈黙を理解することができなかった。なぜ黙っているのだ? 「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」。何か言ってやれ。黙っていればお前に不利になるだけだぞ。ピラトには、イエスの沈黙が「非常に不思議に」感じられた。無理はない。

 その後の展開は、福音書が記している通りである。群衆は大声で盗賊「バラバを釈放しろ」と叫び、それ以上に激しく、「イエスを十字架につけろ」と怒号した。裁判の場は、大声で罪を追求する言葉が渦巻く場となった。ナチスの民族裁判の場面をドキュメンタリー映画で見たことがあるが、裁判長はガラス窓がビリビリ震えるような大声で被告を辱め、追及する。被告は反論する余地もなく、死刑判決を受ける。それでも黙っていたのは、初めから殺すことを目的に開かれたあのような裁判の場では、どう反論しても無駄だと諦めていたからであろう。

 だが、イエスのあの不思議な沈黙は、「敗北主義」でも「諦め」でもない。いや、彼は「一つのこと」を知っていたのである。すなわち、相手を責め・自己を正当化する言葉は必ずエスカレートし、売り言葉に買い言葉の応酬となり、攻撃性を増す。遂には戦争になる。それは、神が人間に与えられた本来の言葉ではない。本来の言葉は「人間は共に生きるように造られている」という真理に仕える言葉、愛の言葉、善意の言葉であるということである。主の僕もイエスもそう信じていたから、あのような場面では沈黙していたのである。そして、その沈黙は「祈り」に他ならなかった。ボンヘッファーが言ったように、「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」。

 私は今日、皆さんとともにこのことを確認したい。そして、アッシジのフランチェスコの祈りをもって、この説教を終わることにする。

 
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