I
人の命は財産によらない――いちおう、誰もが知っています。
留学時代、同じアパートに住んでいた年配の女性がよく言っていました。「世界で一番お金持ちの人でも、いったん失った健康は決して取り戻せない。健康は、この世で一番大切なものなのよ」。私くらいの中年になると、男同士が集まっても健康が話題になります。肩こりや腰痛、不眠、血圧や血糖値、それから人間ドックのことなど。
では、健康であればよい人生なのでしょうか? 単に長生きできればよいのでしょうか?――いいえ、近年クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)が注目されるようになりました。世界保健機構(WHO)が先ごろ「健康」の定義を改定しましたが、そのさい「霊的な健やかさ」が追加されたそうです。
Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
(spiritualは、人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものだという観点から、字句を付加することが提案されたのだと言われています。)
以上、http://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html より
この定義を試みに訳せば、「健康とは、たんに病気でないとか虚弱でないとかでなく、肉体的、精神的、霊的かつ社会的にまったく健やかであり、しかもそれらが互いにダイナミックに連関していることである」とでもなるでしょうか。
今日のテキストは、そうした問題と関係がありそうです。
II
「愚かな金持ち」の譬えは場面設定(13-15節)と譬えの本体(16-20節)、そして適用句(21節)から成っています。
場面設定では、遺産相続が話題にされています。ある人がイエスに、「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」と頼みます。民事案件の手伝いをしてほしいという依頼です。イエスはこれを断り、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」とアドヴァイスします。しかし遺産相続の要求を「貪欲」、「有り余るほど物をもっていて」なおも欲しがることと言われても、この人は困ったのではないかと思います。
先行する文脈でイエスは、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」(4節)、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれた時は、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない」(11節)と教えています。これは迫害状況の暗示のようです。続くユニットでは「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)とあります。所有を放棄して、村々を訪ね歩きながら説教するイエスと弟子たちの生活が前提されているようです。このことは、先の文脈でも同じであると感じます。ならば、故郷と家族、所有と職業を棄ててイエスに従う人々が、それ自体としては正当な遺産相続の要求を「貪欲」と評価することも理解できるように思います。
他方で、イエスと弟子たちの周りには、もちろん定住して私有財産をもっている人たちもいました。イエスたちを受け入れて食べ物と寝る場所を提供したのは、定住してふつうに暮らしている人々です。主にそうした人々に向けて、「愚かな金持ち」の譬えは語られているようです。
さらに譬えの前後には、枠となる発言があります。前には「人の命は財産によってどうすることもできない」(15節)、後には「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」(21節)。したがって「愚かな金持ち」の譬えは、神を無視して自分のために富を蓄えようとするネガティブな見本として提示されているようです。
III
譬えの本体を見てみましょう。
冒頭に、「ある金持ちの畑が豊作だった」とあります。これは状況設定です。すでに富裕者である人の畑が、さらに豊作をもたらしたというわけです。〈持てる者には、ますます与えられ〉という状況が出発点であると言ってよいでしょう。
続いて主人公が、独白形式で、現状認識と打開策の発案について、直接話法で発言します。すなわち「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」というのが現状認識。他方で「こうしよう、倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。〈さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ〉と」が打開策の発案です。
このパターンは、その他のイエスの譬えに並行事例があります。例えば放蕩息子は、独白の中で、「父のもとにはパンが有り余っているのに、私は(外国で)飢え死にしそうだ。父のもとに帰って言おう、〈お父さん、私は罪を犯しました。雇人の一人にしてください〉と」と発言します(ルカ15,17以下参照)。あるいは不正な家令は、背任行為の噂を聞きつけた主人から帳簿の返却を命じられたとき、再び独白の中で、「困った、私は失業してしまう。土方をする体力はないし、乞食をするのは恥ずかしい。よし、こうしよう」と言って、主人の負債者を次々と呼び出して、帳簿を操作して負債額を減じてやります(ルカ16,1以下参照)。
しかし毎回、思いついた打開策とは別の、予想外の結果に至ります。それがストーリーをドラマティックな彩りを与えています。放蕩息子は日雇い労働者にしてもらえればと思っていたのに、期待を超えて、家の息子として迎え入れられます。不正な家令は、主人を裏切ったつもりでいたのに、予想に反して、主人から「賢い奴だ」と褒められてしまいます。これは主人が不正行為を、それと知ったうえで黙認したという意味だろうと思います。
では、私たちの譬えの場合はどうでしょうか?――彼の発案した打開策は、倉庫を今よりも大きいものに改築し、そこに財産と穀物を蓄えることでした。彼はこの先何年も、心安らかに生活できる、財産によって自分の命が保証されたと思い込んでいるようです。彼が蓄えようとしている財産は、現代のように有価証券ではなく、穀物です。もしかしてこの人は穀物を貯蔵し、飢饉のときとか、市場で穀物が品薄になるときとか、とにかく価格が上がるのを見計らって市場に大量投棄するつもりなのではないか、という疑いがわいてきます。だってどう見ても、この人が建てようとしている倉に蓄えられる穀物量は、一人ないし家族が食べてゆくのに必要な量をはるかに超えています。
さて今回も、結果は主人公にとって予想外のものです。神が(夢で?)彼にこう告げるからです。「愚か者よ、今夜、お前の命はとりあげられる」。――イエスの譬えで、「神」が登場して直接話法で、人間の登場人物に語りかける事例は、ここだけです。
興味深いのは、ギリシア語原文が3人称複数の能動形であることです。「今夜、人々が君の魂を要求する」。新共同訳で「とりあげる」と訳されているギリシア語動詞は、〈本来自分に属するものの返却を要求する〉の意です。すると、この富裕者は「他人の命を不当に奪った」と考えられているように見えます。つまり〈お前が蓄えようとしている穀物は、本来はおれたちの命の養いとなるべきものだ〉と考える人々が、今夜やってくるぞ…。これは、小さな革命のようです。
IV
イエスのいう「神の前に富む」とは、どういうことなのでしょうか?――それは単純に、私たちが自らの富を、貧しい人々と分かち合うことだと思います。このことが私たちの命をも豊かにする。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というイエスの言葉も(マコ8,35)、同じことではないでしょうか。自分の命を自分のために保存したいと願う者は、かえってそのクオリティを損ねてしまう。他方でイエスのため、福音のために自分の命を失うとき、すなわち富や命を分かち合うことで、いわば我を忘れるとき、その命は本来の輝きを放つ。世界保健機構の「健康」定義にいう「霊的な健やかさ」も、まさにそのことを指しているように思います。