2012.08.12

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「神の選び」

廣石 望

申命記7,6-13; ローマの信徒への手紙11,28-36

I

 そもそも人は何によって救われるのでしょうか? この問いにユダヤ=キリスト教の宗教伝統は、いくつかの典型的な答えを与えてきました。例えば、神の約束を受けた民族に生まれることで、よい行いをすることで、神への信仰によって、生まれ変わることによって、神の選びによってetc…。

 いま述べたいくつかの救いのコンセプトは、使徒パウロの信仰の歩みをなぞったものです。それらを辿りながら、私たちがそこから学べるものが何であるかを考えてみたいと思います。

 

II

 民族宗教としてのユダヤ教には、二つの柱があります。ひとつはアブラハム、イサク、ヤコブという神の約束を継承する共通の祖先をもつこと、つまり血縁共同体であることです。もうひとつは、先ほど朗読した申命記の聖書箇所にあるように、エジプトの奴隷状態からの解放と約束の土地への定住という、民族史的な伝説に結び合わされた信仰共同体であることです。この場合、律法の遵守が民族帰属の目印になります。

 では、ユダヤ人が外国人と結婚した場合、また国際結婚で子どもたちが生まれてきた場合はどうなるでしょうか? 他方でユダヤ人らしい生活様式を守らないユダヤ人が出てきたらどうなるか?

 じつは両方の問題が、イスラエル史で生じました。バビロン捕囚が終わって第二神殿が再建されたエズラ・ネヘミヤの時代、異民族出身の妻とその子どもたちが、離縁によって強制的に排除されました(エズラ記10参照)。現代であれば重大な人権問題になるでしょうが、とにかく血縁共同体の「純血」がこうして回復されたと言いたいのでしょう。他方、紀元前2世紀前半、ユダヤ民族上層部は周辺のヘレニズム文化に合わせて、都市エルサレムの生活様式と祭儀をギリシア風に改革しました。しかし急激な異文化導入の政策は、伝統的な生活様式を重んじる人々の猛烈な反発を招き、最終的には農村出身の祭司グループによる革命に至りました(旧約聖書続編に収められた『マカバイ記一』と『同二』を参照)。

 私たちのことを考えてみましょう。日本は「単一民族」国家だと言われますが、もちろん違います。古代の帰化人や渡来人と言われる人々以外にも、アイヌ民族や琉球民族のことが思い浮かびます。他方、近代日本が植民地をどんどん獲得していった時代、日本は「混合民族」であるという考えが公に提唱されていました。戦前の教科書には、日本国民の「民族別」構成比が表示されていたそうです(小熊英二『単一民族神話の起源』参照)。いわゆる「単一民族」神話は、むしろ戦後の生まれです。私たちの民族意識は、領土の広さに合わせて融通無碍に変わるものであるようです。

 さてパウロは、民族宗教としてのユダヤ教の立場を、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではない」と説明しています(ガラテヤ2,15参照)。「生まれながら」というところが血縁を、異教徒を「罪人」と呼ぶところが律法に従ったユダヤ人的な生活様式をそれぞれ踏まえているようです。これはディアスポラ出身の、ファリサイ派に加入する以前のパウロの民族理解を反映する発言だと思います。

 そのように考えていたパウロは、しかし次のような驚くべき発言をするに至ります。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのだ」(ロマ2,29参照)。民族主義の用語である〈割礼〉という言葉を用いながらも、〈心の割礼〉と言うことで脱・民族主義的な救いが提唱されています。

 この二つの発言の間には、大きなステップがあったに違いありません。

 

III

 最初にパウロが通過したのは、人は「よい行い」ないし「律法の行い」によって救われるというステップでした。

 ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教には、異文化の外圧に対する反動として、父祖伝来の生活様式を確立することでアイデンティティを守ろうとする動きが活発になりました。〈たんに生まれがユダヤ人であるだけでなく、律法に従った生き方によってこそ、君は自分が救いの民に属することを証明せよ!〉というわけです。こうしてユダヤ教内部に、いくつかの分派(セクト)が生まれました。どのような生活様式が最もユダヤ人らしいかについて、多様な意見があったからです。

 律法主義の問題は、キリスト教にもあります。例えば次のように――〈私は毎週まじめに教会に通っていますし、私の所属する教会は町でも有名な由緒正しい教会です。最近、礼拝で見かけなくなったあの人は、きっとお金儲けに一生懸命で肉の世界に生きているかもしれませんが、私は心から救われたいと願っています。でも、じつは昨晩、会社の帰り道、思わず横断歩道を斜めに渡ってしました。神さま、私は地獄に落ちるのでしょうか?〉

 パウロ自身は、かつての律法主義の歩みをふりかえって、こう言います。「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人だ」――ここまでは「生まれ」に関する自慢ですね。続いて――「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さに関しては教会の迫害者、律法の義に関しては非のうちどころのない者に私はなった」――後半は、パウロが自分の選択を通して、ファリサイ主義に、また過激な熱心主義に参加したという彼のキャリアについて述べています(フィリピ3,5-6参照)。

 しかしキリスト教に転向した後のパウロの基本的な立場は、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」というものに変わりました(ロマ3,9参照)。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(同3,23)、つまりみんなダメだというのです。

 律法主義の弱点は、完璧であることを要求する掟に対する反発と引け目です。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われている。〈律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている〉と書いてあるから」(ガラ3,10参照)。「律法が〈貪るな〉と言わなかったら、私は貪りを知らなかった。ところが罪は、掟によって機会を得、あらゆる種類の貪りを私の内に起こした。…罪は掟によって機会を得、私を欺き、そして掟によって私を殺した」(ロマ7,7-8.11参照)。もちろんこれは、過激に律法遵守を追求したパウロの個人的な立場の反映です。

 このような発言ができるようになったのは、神が律法を破る者たちの側に立っている、という認識がパウロに啓けたからです。「律法は信仰をよりどころとしない。…キリストは、私たちのための呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖いだした」。(ガラテヤ3,12-13参照)。

 

IV

 この最後の発言は、「キリストは」という主語からも分かるように、キリスト教に転向した後のパウロの発言で、いわゆる信仰義認論の立場からの律法批判です。現在のキリスト教、とりわけプロテスタント教会は、この原理に立っています。

 すべての人が罪の下にあるなら、また「神の掟」に従おうとすることが律法主義的な傲慢か、あるいは生真面目な絶望しかもたらさないなら、人はいったい何によって救われるのか? パウロが見出した答えは、こうです。〈イスラエル民族の父祖アブラハムが、モーセ律法が到来する以前に、神を信じ、それが神によって彼の義と認められたのと同様に、キリストとその死がもたらす救いの働きを信じて受けとることだけに基づいて、万人が救われる〉。だから先ほど引用した、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」という発言に直ちに続けて、パウロは言います。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ロマ3,23参照)。

 信仰義認論に対しては、伝統的に二つの批判が知られています。ひとつは、信仰さえあれば自堕落な生活をしてもよいのかというもの。パウロもそれを意識して、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか?」と自問し、即座に「断じて違う」と言います(ロマ6,1参照)。もうひとつは、よい行いが伴わない信仰は無益だという、よく知られたヤコブ書の批判です。「自分は信仰をもっていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブ2,14以下参照)。

 

V

 信仰に生きる人はどのような生き方をするのかという問いに、パウロは〈神がその人を新しい存在につくり変えることによって〉と答えます。「私は神に生きるために、律法を通して律法に死んだ。私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。私の内で生きているのはキリストだ」(ガラテヤ2,19-20参照)。つまり、かつての私は、もはや死んでしまった。だから信仰者は〈生まれ変わって〉、新しい生を生きている。

 この新しい存在としての生き方を、パウロはしばしば洗礼を引き合いに出しながら説明します。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着たのだ。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一人なのだ」(ガラテヤ3,27-28参照)。キリストを「着る」とは、古代における身分変更のメタファーです。あるいは、「あなた方は知らないのか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちは皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストとともに埋葬され、その死に与るものとなった。それは…私たちも新しい命に生きるためだ」(ロマ6,3参照)。

 私たちの問題は以下のようです。なるほど信仰は万人に提供されている。洗礼を受けることは、皆に開かれている。だから私たちは懸命に伝道を行う。しかし、それにもかかわらずこれに参加しない人は、神の招きを自ら拒絶したと考えるほかない。彼らは滅びるがよい。――現在のキリスト教は、およそそのように考えているのではないでしょうか。しかし神の救いを、信仰の決断という人間の反応に依存させてしまってよいものでしょうか? 

 さらにパウロには、〈キリストを信じない者は滅びる〉と言い切ることのできない特別な事情がありました。キリストに帰依しない同胞ユダヤ人の運命のことです。

 

VI

 この問いにとりくんだ結果パウロが辿りついた結論の最後の部分が、今日のテキストです。

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。(28節

 皆さんにユダヤ人の友人はおられますか? その人々をパウロと同様、「神に愛された」人々であると思っておられるでしょうか? 同時にパウロが、彼らを「福音について言えば、神に敵対している」と述べていることの鋭さが、私たちに理解できるでしょうか? パウロは民族同胞の内部の、しかし教会の外部の敵対者を念頭に置いています。

 パウロは、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者のみならず、ユダヤ教徒もまた「神の憐れみ」のうちにあると考えることができました。キーワードは「不従順」です。

神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためでした。(32節

 かつては異邦人が不従順であったが、今はイスラエルが不従順である。しかしそれは異邦人が信仰に至るためであり、キリストの再臨にさいして、イスラエルに信仰が与えられるだろう。こうして一方には異邦人とユダヤ人からなるキリスト教会、他方にはイスラエルという二つの部分から成る、ひとつの神の民が生まれるだろう。なぜなら神は両方を選んだのだから。

 いくつかポイントがあります。この神の選びに、民族帰属はまったく関係がありません。また万人が「不従順」である以上、よい行いによって誇ることは誰にもできません。さらに人間の応答としての「信仰」ですら決定的ではありません。いまキリストを拒絶する人々に対しても神が憐れみをかけることが、救いの決定的な根拠と見なされているからです。

 この見方の背後には、パウロ自身の体験があるようです。彼は教会の迫害者であったときにキリストに出会いました。後にこの体験を、神の「敵でありながら、御子の死を通して神と和解させていただいた」と彼は述べています(ロマ5,10参照)。

 もうひとつ、具体的な状況があります。パウロがこの考えをローマ教会に向けて書いたとき、彼は最後のエルサレム訪問を直前に控えていました。異邦人諸教会から集めた献金を携えてエルサレムに行き、異邦人伝道の正当性をエルサレム教会とユダヤ教の人々に認めてもらおうと思っていたのです。もっとも状況は、彼にとって圧倒的に不利でした。パレスティナでは異民族憎悪の風潮が高まり、かねてよりエルサレム教会は異邦人キリスト教をユダヤ教に再吸収するかたちで衝突回避を試みてきました。例えばガラテヤ教会に、エルサレムから割礼を要求する対抗伝道が派遣されたのは、そのためです。

 

VII

 人は何によって救われるのか、と最初に問いました。パウロの歩みをふりかえると、彼が宣教や信仰の歩みの中で、救いについての理解を深化させていったことが分かります。そのさい救いの主体が、「人間」から「神」にどんどん移行してゆくのが一貫した特徴です。最後にパウロは、キリストを信じない「神の敵たち」に対する、神の先立つ選びという理解に到達します。これはたいへん寛容な立場と言えるでしょう。

 しかもこのポジションは、状況的にはパウロにとって不利な中で掴みとられています。彼は状況に合わせて、事をなるべく自分に有利なように運ぶというより、状況そのものを新しいものに造りかえる神の力に信頼したと言えるかも知れません。「万物は神から、神を通して、また神に向かって。栄光が、永遠に彼にあるように、アーメン」(36節参照)。

 私たちもまた、この人知を超える神の導きを信じて、自分たちと同じことを信じていない人々とも共に平和への道を歩みたいと願います。

 

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