2012.7.29

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「世界と人間」

廣石 望

イザヤ書28,23-29 ; マルコによる福音書4,1-9

I

 今日は「地球環境のために祈り、考える礼拝」です。

 私たちは、環境破壊は時間をかけてゆっくり進むと思ってきました。今の快適な生活を続けていれば、例えば二百年後の地球環境にどのような影響が出るのか。そうしたことについて科学者の予測を聞き、そうならないために何をすべきなのかを考えてきました。そのときの問題のひとつは、自分が直接関与しない遠い将来の世代のために、いま生きている人々に対して、どのような説得的な動機づけを提示できるかということでした。

 しかし原子力発電所の爆発事故による放射性物質の大量放出というできごとは、環境破壊がゆっくり来るだけでなく、突如として到来するものでもあることを示しました。まるで「盗人が夜やって来るように、主の日は来る。人々が〈無事だ、安全だ〉と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う」と聖書にあるように(テサロニケ 一 5,3参照)。

 だから〈今こそ行動すべきだ〉と言われています。先日も都内の公園に、原子力発電所の再稼働に反対する人々が何万人も集まりました。皆さんの中にも、この集会に参加した方々がおられますね。小さな声を集めること、弱い立場に置かれた人々との連帯を示すことは、いま本当に大切です。

 しかしアクションを起こすことと並んで、これに負けず劣らず重要なのは、真の認識を得ることです。人間とは何か、世界とは何であるかについての真の認識こそは、どのような場合にも〈よい行い〉のための最善の基盤です。

 今日はそのような視点から、イエスの種まきの譬えをいっしょに読んでみましょう。

 

II

 種まきの譬えは、先ほど朗読したマルコによる福音書と並んで、正典福音書ではマタイおよびルカによるそれぞれの福音書に(マタイ13,1以下; ルカ8,4以下)、外典福音書ではトマス福音書に(語録9)、そして使徒教父文書と呼ばれる文書のひとつである第1クレメンス書簡(24)にも伝えられています。この譬えは、とても有名だったのです。

 もっとも伝えられた具体的な文言は、それぞれのヴァージョンによって微妙に違います。それで学者たちは、もともとのイエスの話がどういうものであったかについて、いろいろ議論してきました。

 イエスの発言の原型を一字一句どんぴしゃり復元することは、まず不可能です。それでも元歌のようなもの、つまり元来のメロディーラインがおよそこうであったなら、現在残されている複数のカヴァーヴァージョンがほぼ説明できる、というものなら再構成できます。例えば次のようなものです。

種まく人が種まきにでかけた。そして蒔く中で〔つぎのことが〕生じた。
あるもの〔単数〕は道端に落ちた。そして鳥たちが来て、それを食べた。
そして別のもの〔単数〕は岩地に落ちた。そして太陽が昇ったとき、焼かれた。
そして別のもの〔単数〕は茨の中に落ちた。そして茨は伸びあがり、それを窒息させた。そして実を結ばなかった。
そして別のもの〔複数〕は良き地に落ちた。そして実を結んでいった。〔すなわち〕伸びあがり成長しながら、30倍、60倍、100倍〔の実り〕をもたらしていった。

 冒頭の「種まく人が」で始まる一文は、導入です。そして「あるものは道端に落ちた…」と始まるのがストーリーの本体です。そこでは「落ちた」という動詞がつごう4回繰り返されて、種の4通りの運命が語られます。そのさいストーリーの本体は、前半と後半の二つに分かれます。前半は落ちた種が死んだという話です。末尾の「そして実を結ばなかった」というコメントは、茨の中に落ちた種だけにかかるのではなく、死んだ種の全体を総括しているようです。他方で後半には、落ちた種々が次々と実を結んでいったとあります。「種」や「実り」は、この世界における命のシンボルです。

 

III

 この譬えの中心にあるのは「死」と「生」のコントラストです。

 まず数の対比を通して、そのことが表現されます。前半では種が「あるもの」「別のもの」として単数形で語られます。つまりここにあるのは三つの個別サンプルです。そのそれぞれが、「鳥」とか「太陽」とか「茨」とかの小さな妨害要素に出会うことで死にました。他方、後半で良き地に落ちたと言われる「別のもの」は複数形です。まるで他の種々はすべて良き地に落ちたように。おそらく畑の全体が視野に入っています。こうして三つの種の死と、その他たくさんの種の命の結実が対比されています。

 さらに死と生は、使用された動詞時制の違いによって、くっきり描き分けられています。前半で使用されているのはアオリスト形と呼ばれるもので、物語の基本時制です。この時制は、できごとのつながりを〈まずこのことが生じました。そして次にこうなりました〉と時系列に沿うかたちで再現するために用いられます。

 これに対して後半部分で使用されるのは未完了形という時制です。この時制は、できごとの内側の構造を描き出すときに使います。最初に「実を結んでいった」と言われ、次に「伸びあがり成長しながら」とあり、最後に「30倍・60倍・100倍をもたらしていった」とありますが、これは時系列に沿ったできごとの報告ではありません。そうではなく、最初の「実を結ぶ」がプロセス全体を名指しており、後の二つはその縦軸と横軸からなる内部構造です。すなわち「伸びあがり」云々が縦方向の成長を、他方で「30倍、60倍、100倍をもたらしていった」はそれぞれの成長段階における水平軸を、つまりそのときどきの畑全体の結実を描いています。

 ビデオカメラの技術になぞらえるなら、前半が遠景を捉えるパンの視点から、種が落ちてやがて死んださまを淡々と報告するのに対して、後半の結実プロセスは一転してズームインの視点から、あたかもどんどん天井が高く広くなってゆく礼拝堂を内側から眺めるような仕方で描き出されます。

 また「30倍、60倍、100倍」という数字の羅列は、おそらく算術の域を超える無限の結実というイマジネーションです。新共同訳は「あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍になった」と、あたかも三つの成功した種の個別事例であるかのように訳していますが、これは誤訳と思います。もっとも学者の中には、一つの麦粒が発芽成長して計100粒程度の実をつけるために、どのような農業技術が古代に存在しえたかについて一生懸命に資料を調べた人もいます。もしかするとそうなのかも知れません。それでも私の見るところ、イエスの譬えはJAが発行する農業ガイドブックではありません。それは植物の現実描写ではなく、この世の命がもっている運命についてのイマジネーションを表現するものです。

 死と生は単なる半々の可能性ではありません。生は内側に死をはらみながら、これを質的に凌駕するものと捉えられています。

 

IV

 イエスの譬えは、死と生の差異をどのような図柄の中に描き出しているでしょうか。「種」や「結実」というイメージは、ユダヤ教文化の伝統の中で、この世界とは何か、また神とは何かを表現するために用いられてきました。

 知恵思想の伝統では、この世界は〈働くための場所〉であるということを言うために、「種」や「実を結ぶ」というイメージが用いられました。

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。(コヘレト11,6

 これは、〈世の中に失敗はつきものなのだから、できるだけ成功の確率をあげろ〉〈より多く収穫するために、より多く働け〉という意味です。それでも基本にあるのは、労働にはそれに見合った成果があるはずだという理解です。だから、こうも言われます。

人は、自分の蒔いたものを刈り取ることになる。(ガラテヤ6,7

 これに対してイエスの譬えは、労働ではなく、種の生命力そのものに焦点を合わせます。種まきがなされるのですから、当然そこには労働が含まれます。しかし直ちに種は「落ちた」と言われ、その後は農作業について一切言及がありません。無限の結実は人の努力の成果ではなく、種の生命力の発露です。それゆえここには、労働に成果が対応するという応報論理はありません。種まく人はすでに舞台を去っており、そこに成果を受けとる人はいません。

 他方、ユダヤ教黙示思想で「種をまく」というイメージは、悪しきこの世界が過ぎ去り、やがて新しい世界にとって代わられたとき、神は新しい人類を創造するために「種をまく」という意味に使用されます。

悪はすでに蒔かれた。しかし、その摘み取りはまだである。蒔かれたものが刈り取られ、悪の蒔かれた畑が消え去らなければ、善が蒔かれた畑は来ないであろう。(ラテン語エズラ記4,28-29)

 『ラテン語エズラ記』が書かれたのは、紀元一世紀末、つまり後に新約聖書に収められた福音書が書かれたのと同じ時期です。世界は「いまの世」と「来るべき世」の二つに分離され、今の世は救いのない灰色一色である一方で、来るべき世はバラ色一色です。これは世界に関する二元論です。これに対して、イエスの譬えは明瞭な一元論です。畑は一つなのですから。道端も岩地も茨も良き地も、すべて同じ畑の一部分です。それゆえこの世界は灰色一色のモノトーンではありません。クォリティの多様な差異を含むカラフルな世界です。

 黙示思想に属するテキストには、新しい世界は古い世界とはまったく異なるという理解に合わせて、次のような発言もあります。

大地はその実を一万倍産するであろう。一本のぶどうの蔓が千本の枝をはり、一本の枝が千の房をつけ、一つの房が千の実を結び、一つの実が1コルの酒を産するであろう。(シリア語バルク黙示録29,5)

 この量化表現は、新しい世界が今の世界とは何の関係もない別世界であることを言うための、反事実的な誇張法です。これに対してイエスの譬えが「30倍、60倍、100倍」の結実を描くのは、別世界について何かを言うためではありません。そうではなく、イエスはこの世の命について、そこにこそ無限の可能性が秘められていると言っています。

 

V

 地に落ちた麦粒は、私の命のシンボルです。それは、ほんの小さな妨げに出会うだけで死んでしまう。しかしこの傷つきやすい命には、無限の未来につながる力が備わっています。このことを知ることが、イエスが伝えようとした「神の国」を分かることなのだと思います。

 この世の命の傷つきやすさは、イエスという人格において、その十字架刑という苦悶の死を通して、見紛うかたなき仕方で示されました。そしてその小さな命に無限の未来が秘められていることは、イエスの復活を通して、つまりこの世的な生と死の限界を超える神の愛の力によって啓示されたのです。

 ならば私の命もまた、その神の愛に包まれています。ならばその同じ愛の中に、この世界もあるのです。

 
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