2012.05.27

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「真理の霊」

廣石 望

エレミヤ書31,31-34 ; ヨハネによる福音書14,15-27

I

 今日は聖霊降臨祭――イエスの復活から第50(ペンテコステ)の日に、聖霊の降臨を受けて教会がスタートしたこと、つまり教会の誕生を祝う祭りです。その日のできごとは、使徒言行録2,1-4によれば次のようでした。

 

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

 もっとも、この通りの物語は、他の新約聖書の諸文書にまったく証言されていません。しかし聖霊体験は、あらゆる原始キリスト教伝承に共通しています。すると使徒言行録の叙述は、ある種の理想化された物語なのかもしれません。そうであればなおさら、この物語は、できごとの本質をよく捉えている可能性があります。

 例えば〈一同がひとつに集まっている〉という描写は、ひとつの新しい共同体の誕生を予感させます。〈激しい風のような音が天から降ってきた〉とは、自分たちの能力を超えて、外側から突然与えられた力についての証言でしょう。さらに〈他の国々の言葉で彼らが話し出した〉という部分は、ペンテコステの経験を通して、言語や民族伝統の違いを超える相互理解が可能になったことを示唆します。――まさにこのことが聖霊降臨の中心的な意味に他なりません。

 今日のテキストであるヨハネ福音書は、この経験をイエスの不在と再来、愛と信仰、そして平和という視点から解釈したものです。

 

II

 文脈は受難物語の直前に置かれたイエスの告別説教であり、その主題は〈イエスの退去〉です。弟子たちは、イエスが去ってゆくので不安にかられています。これに応えてイエスは弟子たちには彼の「掟」を残し、さらに退去の後に「別の弁護者」を派遣すると予告します(15-17節)。

 この弁護者は「真理の霊」と呼ばれ、その霊は弟子たちと永遠に共にいる、彼らの「傍らに」また彼らの「中に」留まると約束されます。他方で「世」は、この霊を見ることも知ることもないので、それを捉えることがないと言われます。霊にアクセスできるか否かで、共同体と世はくっきり区別されるわけです。

 新共同訳で「弁護者」と訳されたギリシア語「パラクレートス」は、字義通りには〈傍らに呼ばれた者〉を意味し、「助け手」「代弁者」「慰め励ます者」というのが基本的な語義です。パラクレートスは明らかに去りゆくイエスの代理的存在です。この霊の派遣が、イエスの不在をカバーする役割を果たします。

 イエスと「真理の霊」がどのような内的関係にあるか、あるいは、なぜ「世」がその霊を捉えることができないのかについて、詳しいことはもう少し先に説明があります。

 

III

 続いてイエスは弟子たちに向かって、「私はあなた方のところに戻ってくる」と言います(18節)。いつのことなのでしょうか?

 聖書で、「かの日には」(20節)という表現は、しばしば世の終わりを指して使われます。では、イエスは終末における再臨を示唆しているのでしょうか? しかし〈生きているイエスを見る〉という表現は(19節)、むしろ復活節(イースター)の顕現を思わせます。そして「真理の霊」がイエスの不在をリカバリーして余りある、イエスの代弁者であるなら、彼が狭い意味で「不在」なのは処刑(および昇天)から顕現(および聖霊降臨)の間までということになります。

 するとここにも、ヨハネ福音書に特徴的な「終末の現在化」があるのかも知れません。ヨハネのイエスは、こう言っていました。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(5,24)――「移っている」は原文では完了形で、〈すでに移ってしまっている〉という意味です。イエスを信じる者は、世の終わりに初めてではなく、すでに今このとき「死から命へ」と移されるのです。

 この認識が決定的に拓けたのは、聖霊が到来したときであったと思います。そのときヨハネ共同体の人々は、彼らがイエスの内にあり、イエスが「父」なる神の内にあること、また弟子たちの内にイエスがいることを(20節)、すなわちヨハネ福音書に独特な神とキリストそして信仰者の〈相互内在〉を理解しました。

 さらにイエスは、自分が与える「掟」を守る人は、自分を「愛する」者であり、その人は「父」なる神からも愛される。そしてイエスもその人を愛して、自分をあからさまに示そうと宣言します(21節)。つまり復活節に「イエスを見る」という経験をした者はイエスを愛し、彼の掟を守ることで、父なる神とイエスに愛される者になります。その人は聖霊の働きを通して「イエスを愛する者」「イエス」そして「神」の相互内在を理解するのです。その人はイエスの愛、神の愛を自らのうちに宿し、これを証しする者になるでしょう。これがヨハネによる聖霊降臨の解釈です。

 

IV

 ここで弟子の一人がイエスに、「なぜあなたは世に対しては自分をあからさまにしないのか?」と質問します(22節参照)。その背景には、なぜイエスの本質は、この世界から当然のこととして受け入れられないのか、という疑問があるでしょう。

 この問いに対するイエスの返答は、「世」とはイエスを愛さず、彼の掟が守られない場所であるというものです。「世」は〈イエスを愛さない〉という本質をもっています。したがって「世」を、社会学的な集団としてマーキングすることはできません。イエスの掟が守られないとき、教会のど真ん中に突如として「世」が出現することはありえます。同時に、かりに教会の外側で無記名のうちにイエスの愛が証言されるとき、イエスはそこにおられるでしょう。

 イエスがどんなに人を愛しても、人々が彼を愛そうとしないとき、イエスはそこに留まることができません。イエスを愛さない人は、彼を愛することから出発して、イエスの本質をより深く理解することに進むことも、そうした理解を通してイエスから何かを受けとることもできません。つまりヨハネ福音書では、イエスを愛する者のみにイエスの啓示が生じる、と理解されています。

 信仰はイエスへの愛です。信仰は、この「愛」から定義されています。それゆえイエスへの愛が欠如した場所である「世」において、そこでいくらイエスが啓示されようとも、「世」はイエスの本質を把握することができません。イエスを愛さない者が、彼を復活者として認識することは定義上ありえないのです。

 ――ここで私の胸には、ひとつの疑問がわいてきます。信仰をもたない者にイエスを知るチャンスは来ないのか、という問いです。使徒パウロは、自分が神の「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」(ロマ5,10)と言います。この遅れてくる真理の認識とも言うべき事態の生じる余地は、ヨハネ福音書にはないのでしょうか? あると思います。聖霊の働きがそれを可能にします。

 

V

 先に「真理の霊」「弁護者」と呼ばれた存在は、今や「聖霊」のことであると明言されます(25節以下)。聖霊の役割は「教える」こと、そして「思い起こさせる」ことです。そしてその対象は、イエスの語るすべての言葉です。つまり聖霊はイエスの名によって派遣され、彼を現在化させる働きを担います。ですから聖霊が現臨する共同体すなわち教会において、イエスの言葉の真の意味は明らかにされ、その内容は「世」に向かって高らかに告げられます。

 イエスが共同体に託した「掟」、彼の言葉の頂点は、ご存知のように「互いに愛し合いなさい」という誡めです(13,34)。その真の意味は宣教の実践の中で、人と人の具体的な出会いを通して開かれてゆきます。

 そしてこのプロセスが「平和」を生み出します。それはこの「世」が与えるのとは質的に異なる平和であると、ヨハネのイエスは言います(27節)。これこそが、この世界に信仰共同体が存在する存在意義であると思います。キリスト教会が世界に対して独自の貢献をなすことができる根拠は、復活のキリストが与える平和にあります。

 

VI

 先ほどヨハネ福音書と並行して朗読したエレミヤ書の言葉を、まだ覚えておられるでしょうか(エレミヤ31,31-34)。預言者が夢見た、シナイ契約に代わる「新しい契約」についての言葉です。エレミヤの目の前にあったのは、イスラエル民族がシナイ契約をくりかえし「破る」という現実でした。それが聖なる契約である限り、違反者に対しては処罰なしではすまされません。この罪の現実を前に、救いはとうてい期待できません。

 これに対してエレミヤは、神自らがシナイ契約を、モーセの十戒のように石の板にではなく、一人ひとりの胸の中、心の中に書き込む日が来ると預言します。人が罪を犯さないためには、人が新しい存在になるという解決がある、神がそのことを成し遂げるという期待です。それが実現すれば、人はもはや互いに「神を知れ」と教え合う必要はありません。皆が心の中で神を知っているからです。

 聖霊の降臨とは――互いに愛し合う者がイエスのうちに存在し、イエスが神のうちにあることが分かるという意味で――この預言の成就です。私たちは人の心を一新する聖霊の力に信頼し、歩みたいと思います。


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