I
今日のヨハネ福音書のテキストは、イエスのエルサレム入場に続く場面に属しています(ヨハネ12,1以下)。町の群衆がナツメヤシの枝をふって、「ホサナ、主の名によって来られる方に」と歓呼してイエスを迎えたという冒頭のエピソードは、他の福音書からも知られています(例えばマルコ11,9以下)。
しかしこれに続いて語られる、エルサレム入場後のイエスにギリシア人たちが面会を求めたというエピソードは、他の福音書に証言されていないヨハネ福音書だけが伝える話です。そこにイエスの受難死を暗示する、「一粒の麦が落ちて死ねば多くの実を結ぶ」という有名な言葉が現れます(12,24)。
それに続く今日の箇所で、イエスは自らの十字架の死についてさらに説明を加え、最後に「光のあるうちに、光を信じなさい」と言います。これもヨハネ福音書にしか見られないイエスの発言です。
どうやらヨハネ福音書の受難物語は、伝統的な受難伝承の個別要素を踏まえつつ、それらを独自に再解釈することによって書き綴られているようです。この福音書を生み出した人々は、イエスのエルサレム入場とやがてくる十字架の死をどう理解したのでしょうか。
II
「『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか? しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27節)。――このイエスの自問自答と神への祈りは、ゲッセマネの苦悶の祈りの伝承を踏まえつつ(例えばマルコ14,36「アッバ、父よ、…この杯を私から取りのけてください」を参照)、それを再解釈したものです。ヨハネのイエスは十字架を避けようとせず、自らの意志で十字架に上ってゆく存在です。そしてそれは父なる神の名の栄光が現される瞬間です。
「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)という天から響く神の言葉が、正確に何を意味しているのかは不明です。しかし多くの解釈者が、最初に現された栄光とはイエスの「受肉」のこと、そして再び現されるそれはイエスの「十字架死」のことであろうと推測しています。いずれにせよ明らかなのは、イエスの死が神の栄光の現れであり、十字架は勝利のしるしであることです。
この点でヨハネの十字架理解は、それをまずは弱さ・愚かさと捉えたパウロとはまったく違います。では、ヨハネの理解は、先週ふれたコロサイ書にあるような、ローマ軍の凱旋行進にちなんだ「勝利のトロパイオン」と同じものなのでしょうか。じつは、これまた全然違うのです。新約聖書の十字架理解はそれぞれがきわめて個性的で、鮮やかです。
III
「この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなた方のためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せそう」(30-32節)
このイエスの発言は、彼が「どのような死を遂げるかを示そうとして」言ったものであると、ヨハネ福音書の物語手によるコメントがついています(33節)。ポイントは三つあります。まず、イエスの死が「あなた方のため」の死であること。つぎに「世が裁かれる」とは、正確には「この世の支配者が追放される」ことであること。そして最後に、イエスが地上から「上げられる」のは、万人を自分のもとに「引き寄せる」ためであることです。
イエスの死が他の人々に益をもたらすのは、それが罪の力の人格化である「サタン」とか「悪魔」とか呼ばれる支配者の追放を、そして同時に人間たちには解放をもたらすからでしょう。他方「上げられる」という表現はヨハネ福音書に独特の用語法で、「十字架に架けられる」と「天の父なる神の右に座す」の二重の意味をもっています。イエスの敵他者は彼をイエスを十字架刑に処することで「殺す」、そして片づけると考えている一方で、十字架刑を指して「上げられる」というのは信仰者にのみ開かれる視点です。
さらに、イエスが上げられることで、やがて万人を彼のもとに「引き寄せる」とは、万人に信仰のチャンスが開かれるという意味だろうと思います。別の箇所に、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられなければならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(3,14-15)という発言があります。そこでも「上げられる」とは、十字架による処刑と天上世界への帰還の二重の意味をもっています。さらに「信じる者が皆、永遠の命を得る」という発言が、万人を自分のもとに「引き寄せる」に対応していることにも注目してください。
IV
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」というイエスの発言で閉じられる群衆との対話は(34-36節)、メシアは永遠の存在だという理解に対する修正を含んでいます。
じつは「私たちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました」という群衆の発言が、旧約聖書のどの箇所を受けた理解であるのか、正確なことはわかりません。おそらく、メシアの支配は永遠に続くという意味のことが考えられているのでしょう。
他方、ヨハネ福音書がもちだすポイントは、〈イエスが去ってゆき、その結果、彼の不在が生じる〉という問題です。ヨハネ福音書は、不在であるイエスとの交わりを「霊」「助けぬし」「真理の御霊」が可能にすると考えています(例えば14,15以下)。では「光のあるうちに、光を信じなさい」とは、いったいどういう意味なのでしょうか。
V
そのことを考えるために、三つのことをもう少し詳しく考えてみましょう。第一は十字架を「栄光」とみる理解について、第二に「世」の理解について、そして第三に「光」についてです。
なぜ十字架は「栄光」なのでしょうか。――先に述べたように使徒パウロは、十字架をまずは弱さ・愚かさととらえたうえで、これを神の弱さ/愚かさと理解しつつ、それが人の(この世的な)強さや賢さよりも、もっと強く/もっと賢いと、と捉えました。つまり十字架は栄光などではない、というのがパウロの出発点です。
これに対してヨハネは、キリストを永遠のロゴスが受肉したできごと、つまり歴史的で個別的な存在になったできごとと捉えます(とくに1,14「言葉は肉となった」参照)。つまりキリストは受肉することで、すでに死に向けて定められた存在になったのです。受肉の中に、死が含まれています。そして、このようなかたちで神がリアルにこの世に到来することが、救いの根拠なのです。
したがってヨハネ福音書によればイエスの十字架、神の子の死は、神がこの世界に到達したできごとの最終的な到達点であり、神の自己啓示のプロセスの頂点です。「上げられる」という、おそらく元々は天上界への昇天を指す用語が、わざと十字架刑を指すかたちで用いられるのは、そのためであろうと思います。
ヨハネ福音書に特徴的な〈受肉のキリスト論〉は、復活信仰を独自の仕方で展開したものと言えます。人間イエスが死後に神によって起こされた結果「神」になったとは言わず、むしろ神が死すべき人間になることで、神の命を人に分け与えたと見るのが、その特徴です。
次に「世」について。イエスの死は、支配権の交代をもたらします。罪すなわち「この世の支配者」は、もはや世界に対する独占的な支配権を行使することができません。世間で通用している価値を批判的に相対化するという意味で、ヨハネの十字架理解はパウロに一脈通じるところがあります。
しかしその場合に「世が裁かれる」とは、キリストないしキリスト教徒がキリスト教信仰をもたない人々に有罪判決を下し、場合によっては暴力的に迫害するという意味ではまったくありません。今日のユニットの直後の文脈で、イエスが「私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は世を裁くためではなく、世を救うためにきたからである」(47節)と述べている通りです。
もっともそれは審判がないという意味ではなく、むしろ「私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(14,48)とか、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。それが、もう裁きになっている」(3,19)とか言われています。――イエスの死は、神の命との交流を開く一方で、これを拒絶する者は、神なき生すなわち死を生きるほかありません。この世の裁きとは、じっさいには信仰と不信仰の区別が鮮明になることです。これは、たいへん静かな裁きであると言えるでしょう。
信仰と不信仰の区別は、〈私は正しい信仰の集団に属しているのでだいじょうぶ!〉などのグループ帰属の問題ではなく、むしろ信仰者の各人が自分を問い直す中で何度も遂行すべき区別です。そして私たちは、日々新たに働きかけるイエスの霊の助けなしには、信仰と不信仰を区別することはできないだろうと思います。
最後に「光を信じる」という表現の意味について考えてみましょう。
ヨハネ福音書でキリストは「世の光」と呼ばれます(8,12; 9,5)。あるいは「世に来て(/世に来る)すべての人を照らす」まことの光(1,9)とも。こうした表現は、キリストという人格を「光」に喩えて、その人格の意義を明らかにしようとするものと言えるでしょう。それと同時に、私たちが「光」という現象に接するとき、その経験にもとづいてキリストや信仰について、もっとよく理解できるようになるのではないかと思います。
季節と天候さえよければ、昼間、「光」は世界にあふれています。私たちは光に照らされて生活します。キリストが光であるなら、彼は世界にあふれていることでしょう。世界の色合いを明らかにし、その美しさを鮮明に浮かび上がらせるのはキリストの働きです。この光の中を歩むことが信仰であり、本来それはごく自然なことと思われてなりません。そのとき不信仰とは、春の日差しあふれる野原の真ん中で、頭を黒頭巾ですっぽり覆って「世界は闇だ!」と叫ぶのと同じくらい、グロテスクな実存的倒錯です。
「光のあるうちに、光を信じる」とは、万人に降り注ぐキリストの光に〈照らされて〉、私たちがともに歩んでゆくことであると思います。