2012.03.04

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「愛の掟とイエスの十字架」

陶山 義雄

詩編25編6-18; マルコによる福音書12,28-34

 教会の暦では先週の日曜日、2月26日から受難節に入りました。(22日が灰の水曜日)

 今日は、受難節第二の日曜日になります。先ほどお読みした詩編第25編6節から11節は、この日から始まる1週間、修道院などで読まれる聖務日課になっておりまして、ラテン語の出だしが Reminiscere miserationum tuarum, Domine とあり、その最初の言葉 :思い起こして下さい、のラテン語 reminiscere をもって、受難節第二主日とその週が表されて来ました。受難節について若干お話ししておきますと、復活節の前の、六つの日曜日を除く、40日間が受難節にあたります。長いので、これもラテン語で「長い」という言葉から「レント」とも呼ばれています。この期間に六つの日曜日が含まれない理由は、主の受難を覚える40日間ではありますが、日曜日は主の復活記念日ですから、粗布をまとい、懺悔をしながら主のご受難にならって慎ましく過ごす40日であっても、日曜日は喜びの日として教会は礼拝を守って来た訳です。

 イエスご受難の出来事が持つ意味を最も的確に表わしている讃美歌の一つに先ほどご一緒に歌いました、294番があります。「人よ、汝が罪の大いなるを嘆き、悔いて涙せよ」。この讃美歌を最も有名にしたのは、J.S・バッハが1729年(バッハ44歳)に作曲した「マタイ受難曲」(BWV244)であると思います。彼はライプツイッヒに移り、聖トーマス教会のカントール(宗教音楽監督:1723〜1750)に就任した1723年から6年経った1729年の受難週・聖金曜日(キリストの受苦日:1729年4月15日)のためにマタイ福音書26章から27章に記されたイエスの受難物語をルター訳の聖書テキストで福音史家に歌わせ、受難の持つ意味をコラールと呼ばれるプロテスタント教会の讃美歌を織り込んで合唱曲として歌わせ、聖書のテキストとコラールの意味を解説するために独唱を各場面の結びに置いて壮大な作品を完成させました。先ほどの讃美歌294番は、マタイ26章56節で、ペトロを含めた弟子達が全てイエスを見捨てて逃げ去ったその場面で、それはマタイ受難曲第一部の終わりである第35曲で歌われる壮大な合唱曲です。通常は、コラールをそのまま私たちが讃美歌として歌ったのと同じように歌われるのですが、バッハは弟子を始め,全てに人がイエスを見捨てて逃げ去ったとの悲壮な知らせに、自らむせび、悲しみを堪えきれず、すすり泣きを表わす大合唱で変奏曲として歌わせています。すなわち、17小節に及ぶオーケストラのすすり泣き、涙のうねりをオーケストラで描き上げたあと、ソプラノの軍団がコラールを歌い始めます。他の3パート(アルト、テノール、バス)が第二オーケストラ群に伴われて、「人よ、泣け、汝の大いなる罪に」を注釈しながらソプラノに遅れて寄り添うように進行します。このように第一群の讃美歌群がコラールを歌うと、それを追いかけて第二合唱群が劇的に対話を重ねて行くのです。「死にたるを生かし」の場面からは、一行一行寸断して自由な和声付けによって合唱隊が、コラールの先になったり、後になったりして、オーケストラもそれに合わせて、前、間、後奏をつけて終曲部に入って行くのですが、このあたりでは、もう、フルートとオーボエが、裏切り者である自らの懺悔を涙で表わし、終始「すすり泣き」を奏でて閉じて行くのです。

「おお、人よ、汝の大いなる罪に泣け」このコラールが日本の讃美歌に取り入れられたのは1967年に作られた讃美歌第二編で、その第99番に収められたのが最初でした。日本訳は深津文雄牧師(1910〜2000年)で優れた翻訳であると思います。私共の讃美歌21(?294番)でもそのまま載せられています(第二編ではホ短調 / 21では二長調)。深津先生と言えば、カニタ婦人の家を創設され、現在でも100名近くの婦人達が共同生活を千葉県館山で営んでおられます。先生は売春防止法の成立のためにご尽力され、70年前に、ある婦人を伴って厚生省へ赴き、売春防止法の成立を戦前から訴え、法律ばかりでなく、厚生施設がなければ更生は困難であることを訴え、カニタ婦人の家を創設されたのです。(明治学院神学部出身で先輩として尊敬していましたが2000年8月17日に90歳で天に召されました。ご子息を教えたこともあり、近さを感じている先生のお一人です)ここでは、農業、酪農、機織、手工芸などで経済的自立を図りながら、平和運動もしておられます。従軍慰安婦石碑が建てられ、実際に韓国や中国から被害に遭われた婦人達も入って共同の生活をしておられます。先生は音楽にも造詣深くあられ、東京バッハ合唱団を設立されたり、聖書学者として聖書学研究所の設立にも携わった先生です。

「おお、人よ、汝の大いなる罪に泣け」はルターの宗教改革に共鳴したニュールンベルグのカントール, ゼバルト・ハイデン(1499〜1561)が作詞した歌で、これを、同じく宗教改革時代に修道士から ルターに共鳴して牧師となったマテウス・グライターが作曲して出来上がったコラールです。全部で23節まで原作にはあるのですが、現在では第1節と終わりの第23節のみを歌うよう、既にドイツの讃美歌でも改編されておりまして、深津先生も、それに倣って、先ほどご一緒に歌った通り2節に纏められています。優れた翻訳で付け加えることは殆どありませんが、翻訳は得てして原作の半分ほどのメッセージしか載せられないことが多いなかで、深津先生の訳は殆ど完璧に日本語に写し変えられています。

1)おお、人よ、あなたの大きな罪に泣きなさい。
   そのために、キリストは彼の父の懐から離れて、地上に来られたのだ。
清く優しい一人の乙女から、わたしたちのために、地上でお生まれになったのだ。
   彼は仲保者となることを望み、死者に命を得させ、あらゆる病を取り除き、
  時が迫り来たり、わたしたちのための犠牲となるまで、
   わたしたちの罪の重荷を担い、久しく十字架のもとに背負われたのである。
2)だから、わたしたちは彼に感謝を捧げよう。私たちのためにこのような苦難を負い、
  御旨に従って生き、また、わたしたちの罪を敵とされました。
   神の御言葉を高く掲げ、輝かせ、昼も夜も、そのために身を惜しまず働かれ、
  すべての人に愛を示し、それを彼の全生涯と死をともって私たちに働かれました。
  おお、人よ、神の怒りが罪を打ち砕いたその姿を見て、その恵みを大切に守りなさい。

この第2節について、深津先生は十字架を見つめる信徒の視点で訳しておられます。

それは2節の2行目以下に良く現れています。

 「み傷あおぎつつ、み旨に従わん。罪を仇となし、み言葉にたちて、夜昼戦わん。」

原文では「み旨に従う」のはキリストであり、罪を仇として戦い、み言葉にたちて、夜昼戦った」のもキリストでした。でもこうしたキリストの十字架によって表わして下さった生き方は、信徒として見倣うべき生き方でありますから、深津訳は間違いではありません。しかし、キリストによる十字架の愛があってこそ、私たちも見倣うことができるようになったのでありますから、先ずは、この「十字架の愛」が歌われていることに注目しなければなりません。また、「人よ、心して、み神の怒りを恐れつつ歩まん」の訳も、最後の審判に深津訳は拡大解釈しているのですが、先ずは、十字架の愛に注目して、神の怒りが罪に向かって一撃を加え、これを撃退してくださった、その恵みを信徒は思い起こし、大切に守って行きなさい、というのが主旨であります。

総じてこの讃美歌で歌われているイエスの受難と救いの出来事は、今年のレントから受難週、そして、イースターに向かって私たちが新たに与るべき最も大切な使信ではないでしょうか。罪なき方が、世の罪、人の罪を担い、その命を賭して表わした下さった生き方に現われた愛こそ、今、私たちが与り倣うべき道であることを痛感いたします。聖餐式の持ち方にこだわって、牧師をお止めになるような出来事を見るにつけても、イエスが命を賭してまで表わして下さった十字架の愛が見受けられるでしょうか。相手の側に立って、相手の理解が及ぶ立場にまで身をおいて分かり合える道を求めてこそ、キリストの愛とそれを記念する晩餐にあずかる意味があるのです。そうしてこそ、今の時代にキリストの十字架が高く掲げられる筈ではありませんか。キリストは十字架によって敵意という隔ての中垣を打ち破って下さったのです(エフェソ2:16f)。ここに愛があります。開かれた聖餐を執行したとして牧師職を解任する教団上層部も、キリストの愛に程遠い人々であり、悲しい出来事でありますが、反対に、教会が開かれた聖餐に無理解であることを理由に、自ら牧師を辞任することも十字架の愛からは程遠い出来事です。私たちに必要なことは、レントから受難週を、ひたすらイエスが歩まれた十字架の道を辿りながら、自らの内にある隣人との隔ての中垣を打ち壊して行くことではないでしょうか。開かれていようが、閉じられていようが、イエスは十字架で裂かれたご自身の体と血を全ての人に分かち与えておられます。どちらかに固執して相手を排除する中に主はおられないように思います。十字架の愛も消え失せ、残るは命令された勤めに固執することをもって、それが信仰であるかのように振舞う律法主義でしかありません。それにしても、この教会は良く試練に耐えたと思います。そして、十字架の愛の元に希望を新たにして再び立ち上がろうとしています。

 本日の説教題は「愛の掟とイエスの十字架」とさせて頂きました。先ほどお読みしたテキストはイエスが律法学者から「最も重要な掟」について質問を受けた時に、イエスがなさった答えの中に主の十字架が隠されていることに注目して頂きたかったからであります。

 一読すると、イエスは律法学者と愛の掟について同じ理解をもっているように聞こえます。この箇所をもとにして、イエスもユダヤ教に近いお考えをもっておられたことの証拠として受け止められたり、マルコ記者も、キリスト教がユダヤ教から「愛の教え」に関して負っていることをマルコも認めている証拠として捉える人もいる程です。しかし、間違えてならないことは、律法学者はイエスを十字架の罪に定めようとして、相手の非を見出そうとしてイエスの前に現われている所を見落としてはなりません。この辺の事情は、少し前に記されている納税問答:ローマ皇帝に税金を納めるべきか否かをイエスに問いかける、悪意に満ちた問答と全く同じ次元の問いかけが「最も重要な掟」についても当てはまります。 マタイ福音書(22章34-40)でも、また、ルカ福音書の当該箇所(ルカ10:25-37)でも、そちらの方が、イエスを罠に落とし入れようとする律法学者の悪意が良く表わされています。律法学者はイエスを「試そうとして」(マタイ22:35 // ルカ10:25)やってきたことが述べられています。本日のマルコ福音書にはこの「試そうとして」と言う言葉はないのですが、このエピソード全体がマルコ12章の論争物語集に収められているので、同じところに置かれている「納税問答」や、直前にある「復活論争」と同じく、ここでもイエスは試されているのです。イエスという人物はユダヤ人父祖伝来の613ある律法のなかで、どれが最も重要な掟であるのか、私ほど知っているかどうかを試すための律法学者による質問であったのです。そもそも、どれが一番重要な掟であるかを訊ねる事その行為が、律法学者の関心であり、イエスには無かった問題意識であった筈です。にもかかわらず、イエスは実に的確にこの問いに答えています。しかも、あとで律法学者が述べる以上に正確に、旧約聖書申命記6章5節を一字一句タガエルことなく答えています。:

 「聞け、イスラエル。わたしたちの神である主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

「聞け」がヘブライ語で「シェーマー」と言うので、この第一の掟は「シェーマー」と呼ばれています。マタイ、ルカ福音書では、簡略化してイエスに語らせていますが、これは、シェーマー全文を欠けることなく語っているところに意味があるのです。それは、正確に答えられた、として律法学者を満足させる意味もありますが、後で述べるように、イエスは必ずしも、このような形式主義によって愛を語ってはいないこと、つまり、イエスは律法学者とは違う独自の位置にあることを、暗に指摘しいるのです。

また、第二の掟についてもレビ記19章18節後半を正確に引用しています:「あなたの隣人を自分のように愛しなさい。」先の、申命記6章5節(神を愛すること)が第一の掟であり、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛すること」が第二の掟であるとするのも、ユダヤ教律法学者の教えに適っています。だが、イエスはこの二つの掟に序列をつけて、第一の方が第二よりも大切で上位に来る、果たしてそのようにお考えになっておられたのでしょうか。その前に、律法学者は悦に入って、イエスが全く同じ判断を示したかのように受け取り、得意になって、唱復していますが、その内容はイエスと異なっています:「先生、結構です(仰るとおりです)。『神は唯一である。ほかに神はいない』とは真実です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する』と言うことは、どんな焼き尽くす捧げものや生贄よりも先行しています。」

律法学者はイエスがしたようにシェーマーを正確に答えられなかったばかりでなく、彼らが重んじていた「知恵」と言う言葉を加え、「知恵を尽くし」とまで口を滑らせています。最後に隣人愛を宗教儀礼の焼き尽くす捧げものや生贄と比べて、祭司やレビ人が神殿でしていることを批判する材料にまで使っています。

 34節で「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは神の国から遠くない』」と言っているので、まるで、イエスは相手に同意したかのように受け取られ兼ねない言葉が続いています。しかし、先ず「適切な答えをしたのを見て」ですが、「適切な」と訳された元のギリシャ語は「ヌーネコース」(νουν?χω?)とありまして、これは「ヌース」と「エコース」の二つが合体した言葉で、「ヌースを持っているように」と言う意味を持っています。実際は持っていないのに、あたかもヌースを持っているかのように律法学者は答えた、という意味です。その「ヌース」とは古代ギリシャの哲学者たちが大変重んじた人間の精神活動で、「思考力」とか、「理解力」、「考え方」、「心構え」などを意味しています。聖書ではあまり用いられていないのは(パウロが2回つかっているだけで、信仰とは切り離されて)それが、信仰の働きではなく、超越的な思考を表わす言葉であるからです。つまり、哲学的な知性や思考力であるからです。イエスがこのような言葉を律法学者に向かって語られたのは、律法学者への批判があったからです。ですから、決して褒め言葉ではありません。「あなたは、理解力を持っているかのようではあるが、それではまだ不十分である」と言えば、このヌーネコースに相応しい日本語の意味になります。

 そして次の言葉、「あなたは神の国から遠くない」。これも「あなたは神の国に入っている」と言っているのではありません。「あなたは私の宗団に近くはあっても、まだ入れてはいない。」と言うに等しい評価であることを知っておくべきであろうと思います。それは、婉曲に相手を批判した言葉であるばかりではありません。相手を、更に引き入れようとする優しさが読み取れる言葉です。私たちも、教会の外にいる人たちに向かって、せめて、あなたは「教会やイエスの宗団から遠くない」つまり、「宣教の対象である」「無関係ではない」という姿勢をもって宗門外の人々に接して行くべきことをイエスは教えているのではないでしょうか。イエスはここでそのように律法学者に対応しているのです。

このように「愛の掟」に関するイエスと律法学者のやりとりを追ってくると、やはり、この物語も他の納税問答や宮潔め等と同じように、ユダヤ人指導者とイエスとの論争物語であることが分かります。マルコ記者もそのように、これを論争物語の枠内に置いています。愛の掟についての論争性を大変分かり易く、また、ドラマチックに展開しているのは、ルカ福音書10章25節以下の物語で、愛の掟に関する律法学者とイエスの論争を「良いサマリア人」の譬話と結びつけてルカ福音書記者が私たちに解説を加えている所に注目したいと思います。

 ルカ福音書10章25節から28節のところでは、愛の掟に関するイエスと律法学者とのやりとりがユダヤ人社会の枠を超えて、今の私たちに近い状況に置き換えて語られています。律法学者(グラッマテウス)ではなく、法律家(ノミコス)になっています。法律家ならこの教会にもおられます。つまり、ユダヤ人社会を越えて、何時の時代にも存在しているような人物に代っています。質問の内容も、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」となっています。言い換えれば、「天国に行っても評価され、通用する地上での生き方は何ですか」と言う問いかけです。これは、今の私たちが抱く問いかけとおなじではありませんか。その答えは「あなたの神である主を愛することと、隣人を自分のように愛すること」で、マルコやマタイと同じように聞こえますが、決定的な違いは、二つの掟を一つにしている所にあります。つまり、どれが第一で、どれが第二の掟であるのか、と言うユダヤ的な関心はもはや問題にはなっていないのです。イエスがマルコ福音書で哲学的に答えた律法学者に対して、「あなたは神の国に近くはおられるが、それだけではまだ足りない」と言った相手の問題点は、ルカの法律家ではクリア出来ているのです。どちらが第一であり、どちらが第二であるのかは問題にならない世界にルカ福音書記者は生きているからです。そして、イエスもそうでした。ところが、別な問題をこの法律家はかかえていたのです。「イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』イエスの批判は、正しい答えでも、それを知っているだけでは駄目であって、「その通り実際に行いなさい」と言うのが批判点でした。気分を害した法律の専門家は「では、わたしの隣人とは誰ですか」とイエスに問い返しています。そこには、「まさか異邦人、異民族などはこの愛の掟が教えている隣人の範囲には入らないでしょうね。」と言う意見に同意を求めてイエスに詰め寄っているのです。そこで、お答えになったのが「良いサマリア人の譬」話であったのです。ご承知のように、エルサレムからエリコに下って行く街道で追剥に襲われ、傷つき倒れているのはユダヤの旅人でした。そこに差し掛かった祭司やレビ人も同族のユダヤ人であるにもかかわらず、見て見ないフリをして通り過ぎて行きました。しかし、サマリア人の商人は、この旅人を哀れに思い、手厚く介護したあげく、宿屋に連れて行き、二日分の宿料を払ったばかりか、もっとかかったら、帰りがけに不足分を支払うとまで言って立ち去る話でした。誰がこの傷つき倒れていた旅人に対して隣人となったのか、あの愛の掟に相応しい働きをしたのはだれであったのかは一目瞭然です。イエスの問いは、「さて、あなたはこの三人の中で、誰がこの追剥に襲われた人の隣人になったと思うのか」。律法の専門家は言った「その人を助けた人です。」そこでイエスは言われた「行ってあなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37節

 「愛の掟」を巡るイエスの律法学者批判には、やがて訪れる十字架が潜んでいます。これほど、優しく、相手を配慮しながら、相手の足りない所、なお、共に目指すべき生き方を教えておられるにもかかわらず、宗門の枠に閉じこもり、自己保身から抜け出せない権力者たちは、イエスを亡き者にしようと企んで行くのです。

 「愛の掟」を前にして、私たちも、律法学者や祭司、レビ人と変わらない自分であることに気付かされます。良いサマリア人こそ十字架に向かわれた主イエス・キリストのお姿と重なります。己が罪を悔い、なお、従うように呼びかけておられる主に倣い、わたしたちは、十字架の道を、レントの中で見つめながら、「神の国」を地上に齎す働きを、愛する主と共に歩んで行きたいと、願う者であります。

「食するひまも、うち忘れて、虐げられし人を訪ね、
  友なきものの 友となりて、心くだきし、この人を見よ」
「すべてのものを 与えしすえ、死のほか何も報いられず
  十字架の上にあげられつつ、 敵を赦しし、この人を見よ」
「この人を見よ、この人にぞ こよなき愛は 現われたる
  この人を見よ、この人こそ 人となりたる 生ける神なれ」

父なる神様
人類の罪を贖うために、あなたが御一人子を世にお遣わし下さり、十字架の死をもって隔ての中垣を打ち壊された、その恵みを思うこの時節にあって、どうか私たちの中に未だ拭いがたくある、隔ての石垣を打ち壊して下さい。そして、愛の御国の世継ぎとしての勤めを共に担うものと成らせて下さい。


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