古今東西に「時は金なり」と言います。時間はたいへん貴重だという意味です。時間は、それがあるうちに有効に使わないといけない。私たちは皆、一度きりの人生を生きています。先週は、相次いで二人の兄弟を天に送りました。一人ひとりに与えられた時間は限られており、私たちは有限な存在です。
他方で、「金なり」というとき、時間が「交換価値」であるという意味合いも、そこに感じられます。例えばある人のために自分の時間を使い、いつかその人に自分のための時間に協力してもらうという、ある種の「やりとり」が時間について可能なのでしょうか。そのとき時間は、かりにそれが同じ長さであったとしても、自分にとってなるべく最適のタイミングで、なるべく有効に使いたいと願うのが人情というものだと思います。じっさい「時間稼ぎ」という表現もあるくらいです。
何れの場合も、「その日、その時」を未来に想定するという点が共通しています。勤勉であっても怠けていても、終わりはいつか来る。現在はそのための準備ないし試練のための時間です。最終決定的な時が来る前に、何もかも遅すぎることになる前に、後で後悔しないように、今のうちに何か大切なことをやり終えてしまいたい、と私たちは考えます。
今日の聖書箇所は、『マルコによる福音書』13章の結びです。この章は、イエスが世の終わりについて語っているので、「小黙示録」と呼ばれてきました。
冒頭の「その日、その時」(32節)とは、直前の段落にいう「人の子」の到来の時、つまり世界の終末と最後の審判の時をさします。そのとき「人の子」とキリストは〈二重映し〉にされています。おそらくイエス自身が、何らかの意味で「人の子」について語りました。そしてイエスの復活はこの世の終わり、つまり終末の開始を意味しました。したがって最後の審判の執行者である「人の子」は、復活者「神の子」イエスと無関係ではありえません。やがてそこから、世の終わりに到来する「人の子」はイエスである、という再臨信仰が生まれました。
原始キリスト教徒は、「この世の終わり」に関する観念を、いわゆる初期ユダヤ教黙示思想から知っていました。歴史には始まりと終わりがあり、一度始まった時間は一度きりの時として、終わりに向かって進むという時間理解に、「今の世」と「来るべき世」という二つの世界に関する教説を組み合わせたものです。二つの世界の転換点に最後の審判があり、ここで神の決定的な介入が生じると考えられました。
終末思想を継承したファリサイ派も、イエスに向かって「神の国はいつ来るか」と問うたとあります(ルカ福音書17,20)。この問いは、現在と来るべき未来の間に、まだどれくらいの隙間があるか、という意味です。後どのくらい待てばよいのか、世の終わりが近づいたときの兆候はあるのか。「小黙示録」のイエスも、当時、終末の兆候と信じられたものをいくつかあげます。「わたしの名を名乗る者が大勢現われる」(6節)、「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(7節)、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」あるいは「方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)、「偽メシアや偽預言者が現われる」(22節)など。しかしイエスによれば、これら数々の不吉な現象はまだ終末ではなく、「産みの苦しみの始まり」(8節)に過ぎません。
その上で、今日のテキスト箇所でイエスは、こう言います。
それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
僕たちに仕事を託して旅立つ主人というモティーフは、他のイエスの譬えにも現れます。「ムナ・タラントン」の譬えなどです(ルカ福音書19,11以下、マタイ福音書25,14以下を参照)。そのとき、主人の〈旅立ち―不在―帰宅〉というタイムテーブルは、僕たちの側では〈委託―遂行―評価〉というタイムテーブルと重ねられています。主人の帰宅はタイムリミットを意味し、僕たちはそれまでの期間に何をなしたかが問われるのです。したがって主人が「不在」の時間とは、僕にとっては「猶予/テスト」の時間です。――これが〈旅立つ主人〉というモティーフの基本文法ですね。
これに対してイエスの発言の最も大きな特徴は、「突然の帰宅」という要素です。いつ主人が帰宅するかは、誰にも分からない。前後の枠で、そのことがたいへん強調されています。
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである(33節)。
だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない(35-36節)。
この〈神以外に誰一人として世の終わりがいつ来るかを知らない〉ということを強調する独特の表現に、「泥棒」というモティーフがあります。
主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである(ルカ福音書12,38-40)。
同じモティーフは、パウロも知っています。
兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。…しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです(第一テサロニケ5,1-4)。
神や人の子の到来を「泥棒」に譬えるのは、たいへん奇抜です。もしかしたらイエスの独創かもしれません。
ユダヤ教黙示思想において、通常〈委託―遂行―評価〉のタイムテーブルは「信仰を失うことなく中間時を持ち堪えよ」という勧告に利用されます。他方でイエスの発言の特徴は、「突然の帰宅」という要素が全面に押し出されるために、〈委託〉と〈評価〉の中間時間が実質的に消去されていることにあります。イエスの譬えは、「私の自由時間」としての「主人不在の中間時」という発想が通用しない状況を演出します。現在と終末の間に、自己責任で自由に生きるための「中間時」はありません。これは伝統的な発想に変更を加えるもの、スタンダードな台本パターンに書き直しを迫るものです。
それに代えて新しく要求されるのが、「覚醒」という生き方です。〈委託〉と〈委託者〉を切り離さない生き方とも言えるでしょう。神ないし主イエスが不在であっても、その委託とともに彼が私たちに現臨しています。〈不在なる者のプレゼンス〉と言ってよいかもしれません。そのとき世の終わりは、神の時・イエスの時の完成を意味するでしょう。そこで予想外の不吉な結末が私たちを待ちうけていることはありえません。
私たちは通常、決定的な瞬間としての「終わり」を未来に想定し、現在は準備と試練の時であると理解します。そのうえで忍耐や勤勉さ、早めの準備が要求されます。ところがイエスの発言では、終わりは現在に直面しています。したがって現在は覚醒と認識のための時、覚めた目でこの世界の現実を見分けるための時です。
なぜイエスは、現在を準備の時とせず、むしろ覚醒について語ったのでしょうか。それは彼が現在を、未来に組み入れられた時として経験していたからだと思います。このことは、私たちにとって何を意味するでしょうか。少なくとも二つのことが言えるだろうと思います。
ひとつは、今の時を過去の続きとしてではなく、未来につながる「可能性」の時として生きることです。これに関連してもう一つは、目の前の現実のクォリティーを見分けること、すなわち世界の現実のどの側面が過去の続きであり、やがて私たちを忘却の彼方へと押し流すのみならず、場合によっては未来の世代に巨大な「負の遺産」を残すものであるか、他方でどのような現実理解と行動が、希望に満ちた未来を開くという意味で未来に組み入れられるべき「可能性」であるかを、同じ現実の二つの側面として見分けることです。
「目を覚ましていなさい」という勧めを、イエスは「すべての人」に向けました(36節)。ならばイエスに従おうとする私たちは、いっそうそうでありたいと願います。