2011.12.4

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「聖霊に生きる教会」

村椿嘉信

出エジプト記19,3-6; ヨハネの手紙(1)3,19-4

 先ほどお読みしましたヨハネの第一の手紙の中に、「愛する者たち」という表現が何度か出てまいりました。今日はこの「愛する者たち」ということがどのように描かれているのかを、聖書に基づいて確認したいと思います。「愛する者たち」というのは信仰者であり、しかも複数形で書かれています。そしてまた「愛する者たち」と呼びかけながら、「私たち」という言葉をこの手紙の著者は語っています。

 そういうところから、この「愛する者たち」とは、教会の交わりに生きる信仰者であるという事を、まず理解する事ができます。この手紙の著者は個人的問題を書いているわけではありません。この手紙は教会の交わりに生きる信仰者に宛てて書かれたものです。その教会の交わりに生きる信仰者、キリスト者に向かって、この手紙の著者が何を語っているのかを、4つにまとめてみたいと思います。

 

 まず第1は、この「愛する者たち」が真理に属しているという事です。教会の交わりに生きる信仰者は、真理に属する者なのだという事を、この著者は19節で書いています。私たちは、その「真理に属する」という表現に注目しなければならないと思います。「あなた方は真理を極め尽くしている」とか「あなた方が述べる事はすべて真理なのである」と書いているのではありません。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだ」(20節)とあるように、この私たちの心よりも大きく、そしてすべてをご存じである神さまが、真理を知っておられ、また真理そのものなのです。私たちの心は小さく、たとえ真理を知っているとしても、それは真理のごく一部であり、しかもおぼろげに知っているに過ぎません。

 ですからこの著者は、私たちキリスト者が真理に属する者となっている という表現をしているのです。「わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」(19節)。私たちは真理を知り尽くしているわけではありませんし、真理のごく一部を、しかもおぼろげに知っているに過ぎないのですけれども、しかしその私たちは真理である神さまに属する者となっている。だから神さまの前で、安心して歩む事ができる、とこの著者は語っているのです。私たちは神さまに助けられ、導かれながら、真理に属する者として、真理を明らかにし、真理に学びながら歩んでいく事ができるのです。

 

 第2は、「愛する者たちが神の御前で確信を持つことができる」(21節)と描かれている点です。この部分は「神に対して確信を持つ事ができる」とも訳する事ができます。このように訳した方が、次の22節とのつながりが良くなります。「愛する者」、つまり教会の交わりに生きる信仰者は、神さまに対し、神さまに願う事は何でもかなえられる(22節)という確信を持つ事ができるのです。

 ここで「願う事は何でもかなえられる」という言葉が語られています。私たちは主イエスのゲツセマネでの言葉を思い起こさなければなりません。イエスは「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈り願いました(マルコによる福音書14章36節)。神さまに全幅の信頼を寄せ、御心が行われる事を確信し、その上でイエスは「私」の願いを祈ったのだと言えます。そして御心に適う事が行われたのだと、福音書は私たちに証言しています。神さまに信頼を寄せたイエスの思いを想い起こしながら、私たちも確信を持って祈る事ができます。神さまに確信を持って祈るということ。そのことが大切です。私たちが心をこめて祈るときに、その祈りに対して神さまの御心が示されるでしょう。神さまの御心が示され、やがて神さまの御心が実現する事を、私たちは確信する事ができます。

 

 第3は、「愛する者たち」が神の掟を守る者(22節後半)であり、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合う者(23節)だという事です。23節で「神の掟」が具体的に説明されています。それは、神の子イエス・キリストの名を信じる事、そしてこのイエス・キリストが私たちに命じられたように、互いに愛し合う事だというのです。

 これこそ、私たちが決して忘れてはならない事です。大切なのは、ここで「神の掟」として二つの事が語られている、でもこの二つは密接に結びついているという事です。イエス・キリストの名を信じる「信仰」と、イエス・キリストの命じられた、互いに愛し合うという「愛」とは、しっかりと結びつけられています。

 どちらか一方が欠けたら他方もあり得ないのです。愛のない信仰は、信仰ではありません。信仰のない愛は愛ではありません。どちらかが欠けたら、すべては偽りとなってしまいます。神の掟というのは、その二つの事を同時に私たちに要求するものであると言えます。

 従って、教会の交わりに生きる者とは、神さまの真理によって生かされ、神さまの御心が行われる事を確信し、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストによって命じられている事、つまり互いに愛を持って生きる、そういう者なのです。

 

 そしてこの手紙の著者は、そのことは神から与えられる、神から来る聖霊によって明らかにされるのだと語っています。これこそ、私たちが今朝与えられた聖書から聞き取りたい第4の内容です。

 「愛する者たち」「教会の交わりに生きる者たち」というのは、神さまが与えてくださる聖霊によって生きる者なのです。「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」と書かれています(3章24節)。

 神さまが与えてくださる霊によって、神さまがわたしたちの内にとどまっていてくださることが分かる。その霊によって私たちは、自分たちが真理に属し、神の御心を知り、神に確信を抱き、また、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストが命じたように愛をもって生きる事ができるようになるのです。

 その聖霊について4章の初めの部分にさらに大切な事が描かれています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(1節)とあります。またこの段落の最後の部分には「真理の霊」と「人を惑わす霊」というものがあって、愛する者たちは真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができるのだという内容の事が書かれています(6節)。

 私たちはどのようにして神から出た霊、そして真理の霊と人を惑わす霊を見分ける事ができるのでしょうか。大切な部分は4章2-4節です。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(2節)。「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です」「あなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています」(3節)と書かれています。

 「イエス・キリストが肉となって来られた」(2節)というのは、クリスマスの出来事を指します。今ちょうど私たちは、クリスマスを前にしてその準備をしている時期にいます。聖霊は、ユダヤのベツレヘムで生まれたと言われているイエスが私たちの主であり、その主とともに歩むことが私たちの救いであると語り、イエスが肉となりこの世に来られたそのことこそが神の御心であり、その神こそが真理であり信頼に価する方なのであると、私たちに明らかにしています。

 手紙の著者は、その霊はすでにこの世にやってきているのだと書いています(3節)。聖霊はすでに来ている。その聖霊によって私たちはイエス・キリストという方を知る事ができる。クリスマスの出来事を、それは神の御心に適ったこととして理解する事ができるようになるのです。

 

 そしてさらに「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」(4節)と書いています。この世のあらゆる力を持ってしても、滅ぼす事ができない、あるいは変える事のできない、そういう力を神は持っておられ、その力の神が働いておられるのだと。それはこの世の中のすべての力を超えているのだと言うのです。

 私たちの内におられる方というのは、世にいるあらゆる者よりも強いのです。強く、そして大きく、すべてを知り、そしてすべてを支配されている方です。その方がおられる。そして私たちはその方の前で、その方に確信をもって歩む事ができる。私たちは真理を知り尽くしているわけではなく、おぼろげに知っているに過ぎないけれども、本当に真理を知り尽くし、真実な者である方の前で歩む事ができる。その方に導かれながら私たちは歩んでいくことができる。

 それがこのヨハネの描いているキリスト者の姿です。私たちもこの真理の霊に生きるものとなりたいと思います。この真理の霊を受けて、神さまの御心を尋ね求め、御旨に沿って歩み、そしてやがて御心が実現する事を確信する事ができます。人を惑わす霊によって生きるのではなく、人間の力によって生きるのではなく、神さまの力によって生かされるときに、私たちは共に信仰を言い表わし、また互いに愛をもって歩む事ができます。

 神の霊に生きる者となりましょう。イエス・キリストの招きに応じる者となりましょう。イエス・キリストの招きに応じるという事は、イエスの掟を守ること、つまり信仰をもって共に歩み、互いに愛し合う、そのことを意味するのだという事を、私たちは今日この聖書から聞き取りたいと思います。そして実際にそのように歩む者となることを決意したいと思います。

※ このテキストは村椿牧師の自筆によるものではなく、後日録音から起こしたものです。

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