55:08わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
55:09天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
55:11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。
03:01わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。 03:02わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。 03:03馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。 03:04また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。 03:05同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。 03:06舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。 03:07あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。 03:08しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。 03:09わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 03:10同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。 03:11泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。 03:12わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。
「口はわざわいのもと」、「口はわざわいの門(もん)」、あるいは同じ「門(もん)」をいう漢字を「門(かど)」と呼んで、「口はわざわいの門(かど)」という日本のことわざがあります。どれも同じ意味で、「不用意な発言が、もともとは小さな間違いであっても、大きなわざわいをもたらす」という意味で使われます。
聖書では、「言葉による小さな過ちが、大きな過ちを生み出す」と言われています。ヤコブの手紙3章5節に「舌は小さな器官ですが、大言壮語する」と書かれています。「大言壮語」とは、日本語では「自分の力以上の大きなことを言うこと」を意味します。この部分は、原文に照らし合わせれば、「小さな舌が、傲慢な言葉を語る」とか、「大きな自慢をもたらす」と訳すことができます。
その前後にいくつかのたとえが語られています。
馬の口にくつわをはめれば、馬全体を動かすことができる。
船の小さな舵が、船全体の進む方向を決める。
この手紙の著者は、このような例を持ち出し、舌は小さな部分にすぎないけれども、全体に大きな影響を及ぼすと指摘しています。
あるいは少し後の部分では、小さな火が、森のすべてを焼き尽くすことがあると述べて、私たちのちょっとした言葉が、相手を傷つけたり、大きなわざわいをもたらすと指摘しています。
このようなことを述べながら、この手紙の著者は、当時の信徒に宛てて、言葉がいかに危険なものかを述べ、そして核心へと迫ります。
この手紙の著者は、言葉が相手を傷つける可能性があるから、注意しなさいとか、相手に誤解されないように注意しなさいとか、ていねいな言葉づかいをしなさいと言おうとしているのではありません。言葉による表現の仕方に気を付けなさい‥‥ということではなく、言葉を語る私たちの生き方や、私たちの心のありようを問題にしています。
表現されるいわば表面的な言葉を整えなさいということではなく、表現する私たちの生き方そのものを問題にしなさいと語っています。
9節以下にこうあります。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。
そしてまたたとえが出てきます。「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか」。それはまさにあり得ないことです。最後の部分に書かれているうように「塩水が甘い水を作ることもでき」ないことです。
一方でどんなに美しい言葉で神さまを讃美していても、神さまの存在を無視するような発言をしていたら、それはみずからにわざわいをもたらします。そのようは矛盾した態度で、神さまを讃美しても、それは神さまを讃美したことにはなりません。
一方で神さまを讃美し、一方でこの世の権力者に喜ばれる発言をし、友人には相手の言葉にうなずき、別の友人には美辞麗句を並べ立てても、そのような言葉は誰からも信用されません。ここでは、まさに相手に応じて言葉を使い分けることが問題になっています。あるいは建前と本音を使いわけること、虚偽を語ること、うそをつくことが問題とされています。
もし私たちが二心を抱くなら、つまり一方で神さまを信頼すると表明しておきながら、もう一方で神さまを信頼せず、自分の欲望を満たすために歩んでいたり、自己中心的あり方をしているのであれば、それは信仰とは言えません。そのような生き方では神さまを受け入れることができなくなるからです。
それではその場合に私たちはどうしたらよいのでしょうか。もし私たちが、神さまを信じられないのなら、その心のまま「信じられない」と告白することが大切なことです。その時に、神さまは私たちを受け入れ、私たちの歩むべき道を示してくれるでしょう。神さまは必要な支えや助けを与え、私たちとともに歩んでくださるでしょう。
たとえば、体の調子が悪いのに、私たちがもし医者の前で、自分は健康です、検査を受けるつもりはありません。薬も必要ありませんと語ったらどうなるでしょうか。なおる病気もなおらなくなってしまいます。それと同じことを私たちは神さまの前でも、さまざまな人たちとの間でも、しているのではないでしょうか。
そんなに体調が悪いわけでないのに、大げさに誇張して語ることによって、病状が的確に伝わらないこともあるし、また逆に自分は大丈夫だと語ることによって、情報が正確に伝わらないこともあります。自分がどのように病気とたたかっていくかを考えるために、自分がどういう状況にあるかを自覚することはとても大切なことです。
赦し合い、ともに支え合って歩む場ために、私たちがどのように対話を積み重ねていくかを考えなければなりません。相手に赦しを求めながら、もう一方であらそおうとしているのであれば、赦しを求める言葉は相手には伝わりません。
このことは私が教会の牧師をつとめながら、常に経験してきたことでもあります。
たとえば、長年信仰生活を送っていても、聖書の言葉の意味がわからないとか、神様のことがわからない、自分の生き方や考え方がこれでいいのかと、心の中にあることをそのまま語って下さることがあります。そのことによって、ともに、それぞれが生きている場で神様の言葉の意味を探したり、神様が何を望んでおられるのかを探す作業をしていくことができます。お互いが心を開いて対話しながら、聖書の言葉や神様のことについて、深めて行くことができるようになります。私自身、牧師をしていながらも私自身まだわかっていないことがあり、質問を受けたり、さまざまなことを指摘されることにより理解を深めていくという経験を常に繰り返しています。もし意味不明な事をそのままにして、対話をしようとするなら、お互いに対話を深め合うことは不可能になります。
このヤコブの手紙の著者は、このような厳しい指摘を率直に相手にしていますが、それは、相手を思うからこそ、相手を愛するが故にこそ、そのように語っています。相手を痛めつけようとして語っているのではなく、相手を信じ、共に神様を信じる相手ととらえ、その相手を生かそうとして語っています。
さてイエスはあるとき、おおわれているもの、隠されているものが、すべて明らかにされるときが来ると述べました。ルカによる福音書12章2節、3節にこうあります。
「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。
暗闇でささやいたこと、秘密、密約は、すべて暴露されるとイエスは語っています。でもこの言葉を、私たちは、「罪」が暴露されるというおどしのような意味でだけ、受け取るべきではありません。神の計画は、この世では、イエスを信じる人たちの間でささやかれるにとどまっています。しかし、たとえそのように小さな声でささやかれた「神の真実」も、明らかにされます。
神さまが暗闇の中にあるものをはっきりと指摘するときに、私たちは怖いと思うかもしれません。しかし、神は大きな愛を持って、私たちの誤った歩みを修正するために明るみに出すのです。私たちの過ちを見て神さまは私たちを見捨てたりはしません。神さまは、私たちそれぞれの「問題点を指摘する」と同時に、それをどう「解決するか」という道も示してくださいます。神さまは、罪人である私たちが、罪人であるにも関わらず、それぞれが神様に与えられた自分を生かし、お互いを生かし合いながら他者とともに生きる力を与えてくださいます。復活の主が私たちの罪を明らかにするのは、私たちをを導き、私たちを生かすためです。
神さまは私たちを苦しめるために罪を明らかにするのではなく、私たちが希望と喜びをもって、力強く生きるようになるために、私たちに真実を示してくれます。その神さまを信じて歩む者となりましょう。
神さまの前で、おろかな自分、罪人である自分を見つめながら、しかしその自分を支え、導き、力を与えてくれる神さまがおられることを覚えながら歩んでいく者となりましょう。
私たちの愚かさや罪が神さまによって明らかにされるところでこそ、神さまの救いのわざが、神さまの私たちとともに歩もうとする愛の力が明らかにされるのです。
「主なる神さま、
あなたの口から出るあなたの言葉が、
空しくあなたのもとに帰ることはありません。
あなたのみ言葉は、あなたの望むことを成し遂げ、
あなたの使命を果たします。
み言葉を語りかけてください。
あなたのみ言葉にこたえることができますように、
一方であなたを讃美し、
一方であなたのみわざを呪うことがありませんように。
私たちの日常生活においても、
言葉によって人を傷つけたり、
相手によって言葉を使い分けたり、
表面的な美しい言葉ばかりを相手になげかけたりすることが
ありませんように。
むしろたえず真実を語り、
自分のあやまちや罪を認め、
ともに赦し合って歩むことができるよう導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン」