2011.9.25

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「実り」

廣石 望

イザヤ27,2-6; マルコによる福音書4,10-20

I

 今日のテキストは、有名な「種を蒔く人」のたとえ(4,3-9)に続いて、イエスが弟子たちに、たとえの意味について説明している箇所です。もともとイエスは「種を蒔く人」のたとえを、湖に浮かんだボートの上から、湖畔の大群衆に向かって語るのですが、「イエスが一人になられたとき、12人と一緒にイエスの周りにいた人たち」(10節)が、たとえについて尋ねたというのが、この解説部分に独特の場面設定です。

 興味深いのは、イエスが弟子たちに向かって「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられている」と言うにもかかわらず、どうやら弟子たちがたとえの意味を理解していないらしいこと、したがって「神の国の秘密」のことも分からずにいるらしいことです。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」とイエスは語りかけています(13節

 いったい「神の国の秘密」とは(口語訳では「神の国の奥義」と訳されていました)、何のことなのでしょうか? それから、もうひとつ。先ほどの、「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられている」というイエスの言葉には、しかし「外の人々には、すべてがたとえで示される」という発言が続きます(11節)。〈たとえ〉は外部者用の、謎めいた言語と理解されているのかもしれません。いずれにせよ内側にいる弟子たちと、アウトサイダーは明瞭に区別されています。これにイザヤ書からの引用が、「〈彼らが見るには見るが、認めず/聞くには聞くが、理解できず/こうして、立ち帰って赦されることがない〉ようになるためである」と続きます。「弟子」であるとは、どうやら救いのインサイダーであることを意味するようです。それなのに彼らは、たとえの意味が分かりません。いったい弟子であるとは、どういうことなのでしょうか?

 

II

 マルコ福音書のイエスによる、「種を蒔く人」のたとえの説明は、たとえの筋立てをたどりながら個別の要素に解説を加えるというかたち、つまり再話的な注釈というスタイルをもっています。しかもそのさいに、道端に落ちた種を食べた鳥たちとは「サタン」のことである、石地に落ちた種を焼いた太陽とは「御言葉のために生じる艱難や迫害」のことなのだ、あるいは「茨」とは「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」であるというぐあいに、まるでトランプのカードを一枚ずつ裏返すように、一つひとつの要素の隠された意味が説明されます。

 この手法は、寓喩的解釈(アレゴリカルな解釈)と呼ばれる古代の文学解釈によく似ています。例えばホメロスの英雄叙事詩にはたくさんの神々が登場し、たがいに論争したり、裏切ったり、和解したりしますが、古代の哲学学派の中には、このような仕方で描かれた神々の姿に、違和感を覚えた人たちがいました。本当の神々は、こんなに人間的すぎてはいけない、もっと理論的であるべきだと感じたのです。そこで、ホメロスが描く神々の行動は文字通りに理解すべきでなく、それは宇宙生成の諸原理の対立と統合を暗号化して描いているのだ、と彼らは主張しました。こうした解釈の背景には、伝統的な権威である文化遺産を、新しい文化状況に見合った再解釈を通してアップトゥデートすることで、その権威を救うと同時に、自分たちの理論を広く宣伝するという動機があるようです。

 その場合、新しい解釈は、時代遅れになってしまった古典テキストをとりあげるよりも先に、初めから定まっているのが特徴です。これを規準に、古い文化伝統が再解釈されるのですから。では、イエスのたとえの解き明かしも、初めから決まっていた解釈に向けて、彼のたとえをとりあげて、自らを権威づけただけのことなのでしょうか? 逆にいうと、たとえの説明だけあれば、たとえの本体は、本当はなくてよいものなのでしょうか?

 

III

 こんなことを問うのは、この解き明かしは、歴史上のイエスに遡るものではなく、原始教会になって初めて生まれたという学説があるからです。私自身も、その説に全面的に同意しています。主たる論拠はボキャブラリーです。解釈の冒頭に、「種を蒔く人は神の御言葉を蒔くのである」(14節)という言葉が立っています(ギリシア語原文をそのまま訳せば「蒔く者は御言葉を蒔く」です。「種を」「神の」は原文にありません)。ここで「御言葉」と訳された言葉は、原始キリスト教によって宣教された、イエス・キリストの人格を中核とする福音の言葉のことです。言うまでもないことですが、イエスの死と復活を中心とする福音宣教は、イエスの生前にはそのままのかたちでは存在しませんでした。

 では、この解き明かしの言葉は、原始キリスト教で成立した福音理解を、伝承されたイエスのたとえにあてはめただけのものなのでしょうか――ちょうど古代の哲学者たちが、ホメロスの神話を彼らなりに現代的に再解釈したのと同じように? 私は違うと思います。福音書のイエスの口に納められた、このたとえの説明は、原始キリスト教を生きた人々が、キリスト宣教の中でさまざまな困難に出会い、その本当の意味が何であるかを、伝えられたイエスのたとえを手掛かりに理解しようと試みたその証言です。イエスの言葉をたよりに、自分たちの「今」を新しく受け止めようとしているという意味では、なるほどそれはアップトゥデートな解釈ではあります。でも、その解釈行為は、イエスのたとえから離れたところで、初めから決まっていたわけでは全然ありません。むしろ、イエスのたとえがなければ、この解釈は生まれることができませんでした。この点で、古代神話の寓喩的解釈とは事情が違います。

 

IV

 さて、たとえの解き明かしに特徴的な要素に、以下の二つがあります。

 一つ目は、「聞く」というモチーフです。福音の御言葉を「聞く」という意味です。「信仰は聞くことに由来する」という発言がパウロにあります(ローマの信徒への手紙10,17)。それと同様に福音宣教は、神の言葉を聞くという行為の成功ないし失敗という視点から理解されています。「聞く」とは〈受けとる〉行為、つまり受動的な行為です。ふだん私たちは〈生産する〉行為だけが行為であると考えがちです。だから信仰とはどのような行為かを問うときも、例えば〈それは心から信じるという私たちの行為である〉というふうに、それが何かを生み出す、自らの能動的な行為であると勘違いしてしまうのです。これに対して、マルコ福音書のこの箇所では、信仰は「聞く」行為として主題化されています。じつは現代社会にあっても与えられた命を生きること、他人の言うことに耳を傾けること、客人たち(自分たちの集団に属さない人たち)を迎えてもてなすことなどは、相変わらず重要な〈受けとる〉行為です。

 先週、私たちの教会は教会カンファレンスを開いて、私たちが日々の歩みの中でどのようにキリストと出会うかについて、互いから聞き合いましたね。このことも〈受けとる〉ことによって関係を生み出すという、根源的な出会いの場であったと思います。

 

V

 もうひとつの重要な特徴は、アナロジーの移動とでもいうべき現象です。すなわち「蒔く者は御言葉を蒔く」という出だしの部分では、蒔かれるものが福音の言葉、そしてそれを聞く人々は大地のイメージで捉えられています。しかし説明が進むにつれて、このアナロジーが奇妙にずれてくるのです。例えば、石だらけの土地や茨の中に「蒔かれる者たち」という表現が現れます。蒔かれるのは御言葉だったのではなかったでしょうか。さらに迫害その他が生じると信仰を棄てる人々について、彼らには「根がない」と言われます。御言葉を聞く人々は、大地だったのではないでしょうか。「根がいない」と言われる以上、福音の言葉を聞く者は、大地というより、今や植物と理解されています。さらに「30倍、60倍、100倍の実を結ぶ」というときの主語は、「良い土地に蒔かれた者たち」つまり御言葉を聞く者たちです(たとえの本体では、実りをもたらすのは「落ちたもの」すなわち種でした)。

 つまり御言葉を聞く者は大地から、芽生えた植物をへて、実りをもたらす段階にまで生長した姿へと、イメージが移動してゆくのです。同時に、「蒔かれたもの」という表現は一方では御言葉を指し、また他方では御言葉を聞く者たちを指して用いられます。なぜなのでしょうか?――マルコ福音書のギリシア語が下手くそだからだと説明する学者もいます。でも私には、このイメージのダブりはとても有意義に思えます。なぜならそれは、信仰者とは、その外部から蒔かれた御言葉によって成った人格であることを示しているからです。私の外側から蒔かれた御言葉が、私の人格の中核を形成しました。だから御言葉も私も「蒔かれたもの」であり、私は御言葉の実りなのです。そのような実りである私を通して、さらに「30倍、60倍、100倍」の実りをもたらす神の力が働くのだと思います。

 これが「神の国の秘密」なのではないでしょうか。「神の国」の奥義とは、外側から語りかけられた言葉が私たちを人として立てる、御言葉が私たち信仰者という「実り」を生み出すことを指していると思います。

 

VI

 では二つ目の問い、すなわち「弟子」であるとはどういうことかについて考えてみましょう。

 もう半分、答えは出ています。すなわち「弟子」とは、御言葉を聞く者のことです。――問題は、むしろその先でしょう。「弟子たち」はある集団を形成しますが、あらゆる集団形成は社会学的に内側と外側を分けるマーキング・ラインを必要とします。この点で、キリスト教会も例外ではありません。物理的には礼拝堂という建築物の内と外の区別があり、儀礼的には洗礼式や聖餐式への参加あるいは不参加という区別があります。

 一般的な集団形成の論理として、グループの排他性はマイナスというよりはむしろプラスに作用します。それが内部の結束と特権意識を高めるからです。例えばクレジットカードを販売する場合、少なくともイメージ戦略として、〈選ばれた一部の方たちだけに特別に提供されるサービスです〉と売り込んだ方が、よく売れるのではないでしょうか。――「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(11節)という発言は、こうした排他性原則の魅力と無関係ではなさそうです。

 その意味で、弟子とそうでない者たちの区別は明瞭に前提されています。しかし最初に申し上げたように、弟子たちは自力ですべてを理解できる者たちとしては描かれていません。さらに興味深いのは、場面全体のセッティングです。これも最初に申し上げたように、イエスは一日中、湖の上のボートに座ったままで、湖畔の群衆に向かって説教をしたというのが全体の設定です。ところが、その場面のど真ん中に――つまりイエスは、ずっとボートに乗ったままなのに――「イエスがひとりになられたとき、12人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが…」という表現で、別の場面が導入されるのです。この中で、種を蒔く人のたとえの説明がなされています。「イエスの周りにいた人たち」という表現は、「12人」以外にも、「弟子」になってゆく人々がいることを暗示しているようです。

 そもそも不思議なのは、イエスが群衆のいないところで、広義の弟子たちだけに語ったという秘密の言葉を、マルコ福音書の著者が出版によって一般公開している事実です。だから私たちもその言葉を、いわば〈公然の秘密〉として読むことができます。そして読む私たちは、おそらく無意識のうちに、自分がインサイダーだと思っているのではないでしょうか。ところが面白いことに、たとえの説明の後には(21節以下)、多くの比喩的な発言やたとえが、とりわけ「神の国は次のようなものである」という導入句(26節30節)を伴うたとえが続きます。これらの発言が弟子たちだけに向けられているのか、はたまた湖畔の群衆も(再び?)いっしょに聞いているのか、まったくもって不明です。たぶんマルコは、そんなことは気にしないのでしょう。何れにせよ明らかなのは、自分はインサイダーだと思って読んでいる私たちが、知らぬ間に、本来はアウトサイダー向けの話法であるはずの〈たとえ〉で、再び「神の国」について語りかけられているという事実です。

 つまりマルコ福音書の場面構成法は、自分たちは内側にいると思っていた読者が、知らぬ間に外側にいる自分に気づく、という仕掛けなのです。これは、私たちの人格の中心をなす御言葉は、私たちの「外部」であり続けることに関係があるのかもしれません。少なくとも神の言葉が、私たち以外の人々にも語りかけられていることは確かです。

 

VII

 最初に、「神の国の秘密」とは何かと問いました。そして「弟子たち」とは何であるかとも。いま、こう考えることができると思います。すなわち私たちは神の言葉によって作られた人格であり、弟子たちとはこの公然の秘密を生きる者たちであると。その意味で私たちは、さらなる実りをもたらす御言葉の実り、御言葉の被造物(creatura verbi)です。それは今から500年ほど前に、宗教改革者マルティン・ルターが言ったのと同じことです。すなわち「fides facit personam/信仰が人を作る」。


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