03:01モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 03:02そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 03:03モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 03:04主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 03:05神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 03:06神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
17:11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 17:12ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 17:13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 17:14イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 17:15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 17:16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17:17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 17:18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 17:19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
今日は、この礼拝に引き続き教会カンファレンスが開かれます。この礼拝は、いつもと同じ礼拝ですが、カンファレンスの一部としても位置づけられています。
今回のカンファレンスのテーマは、「キリストに出会う−私たちの日々の歩みの中で−」となっています。カンファレンスの準備委員会の方々が、長い間、時間をけけて、これがいいということで選んでくださいました。あとでテーマについて説明があると思いますが、それぞれが、それぞれの歩みの中で、キリストに出会うということをどのように理解するか、あるいは「キリストに出会う」ということでどのような経験をしているかを述べてくださるといいのではないかと思います。中には、出会いということがよくわからない、あるいは出会いたいけれども出会えていないような気がするという方もおられるかもしれません。あるいは自分は神さまとは出会ったことがあるけれども、あるいは聖霊に力づけられたり、慰められたりする経験はあるけれども、キリストに出会うということはよくわからないという方もおられるかもしれません。そのようなことも含めて、率直に、自由に話し合いができればと思います。そしてそのような対話を通して、お互いに学び合えればよいと思います。
さて、ここではキリストとの出会いがどういうものであるかを考えるためのヒントになると思われる箇所をひとつ選びました。
イエスはある時、エルサレムへ行こうとして、サマリアとガリラヤの間を通り、ある村に入りました。すると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎えました。彼らは健康な人たちと接触することを禁じられていたため、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました。
正確に10人の人がいたのか、すべてここに書かれている通りだったのかというと、きっかり10人ということはあり得ないと思われますし、すべてが正確な記述であるかは疑わしくも思われます。でもここに書かれているようなことは、むしろ日常的にいろいろな場所であったことではないかとも考えられます。
いずれにせよ、重い皮膚病を患っている人たちは、感染の危険があるという理由で健康な人たちとの接触が禁止されており、彼らは、イエスに近づくことも、ともに食卓を囲み、親しく対話することもできませんでした。いわば「出会う」ことができなかったのです。でもその状態で、できるかぎりのことをしようと、彼らは大きな声をはりあげました。
それに対して、イエスも、「重い皮膚病を患っている人たちを見」、彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言いました。イエスも彼らを見て、彼らに声をかけたのです。彼らは、イエスに言われたとおりに、祭司たちのところへ行こうと立ち上がりました。すると祭司たちのところへ行く途中で癒やされました。
彼らはイエスを見、声をかけました。イエスも彼らを見、声をかけました。そして病気がいやされました。10人の人が、確かにイエスに出会い、病気を癒やされ、救いの体験をしました。まさに奇跡を体験しました。でもこの話には後日談があります。そのうちの9人の人にとっては、このできとごは1回限りのこととして終わってしまいました。もしかするとその9人の中にも、あとになって、自分をいやしてくださった方がキリストであると知って、感謝するようになった人がいたかもしれません。でもすぐに感謝するためにイエスのもとに戻ったのは1人だけでした。
その1人について、聖書には、「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」と書かれています。 そして、その人は「イエスの足もとにひれ伏して感謝し」ました。この人はサマリア人でした。イエスはそれを見て言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。 そしてイエスはその人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
ユダヤ人がサマリヤ人を「自分たちの国には属さない外国人」と見なしていたかどうかは、よくわかりません。日本語では「外国人」と訳されていますが、「よそ者」とか、「生まれた場所が異なる人」と訳すほうがよいと思います。
いずれにせよ、10人のうち、神を讃美し、イエスのところに感謝しながら戻ってきた人は、1人だけだったのです。それがたまたまサマリヤ人だったということなのか、それとも、病気のゆえに差別され、しかもサマリヤ人だというゆえに差別されていた人だったからこそ、イエスに感謝するために戻ることができたのか、その点ははっきりしません。
ここでは、サマリヤ人がどうして戻ってくることができたのかということより、9人の人たちがどうして戻ってこなかったのかを考えてみたいと思います。
9人の人たちが病気を癒やされたということ、これはその人たちにとって大きなできごとだったと考えられます。家族や村の人たちとともに生活することができなかった人たちが、その後、仕事をし、さまざまな活動をすることができるようになったのだからです。
しかし彼らの関心は、自分の人生がどう変化するかというだけで、関心は「自分」にしか向かいませんでした。自分が経験した大きな体験を、自分というひとりの身に起こったこととしてしか理解できなかったのです。その体験が、自分の出会った「相手」によるのだということにまったく無関心でした。その相手が誰なのか、その相手がどのような方であるから自分がそのような体験をすることができたのか‥‥というようには考えませんでした。そしてそのような相手とともに歩むことが自分にとって救いであり、喜びとなるというようにはとらえませんでした。
彼らは、他者との関係において、つねに「受け身」であると言えます。その9人は、イエスに言われたとおりに、自分の体を祭司に見せに行ったと思われますから、神殿に関わり、神への信仰を持っていたものと思われます。でもその信仰は、困った時には、神さまに助けを求め、困らないときには、自分さえよければそれでいいという常に受け身の信仰であったと思われます。そのような人は、また別の問題が起きれば、その解決を求めて、神さまに、あるいはイエスに願いごとをします。でも自分の抱えている困難な問題さえ解決されればそれでいいのです。
自分のことしか考えない、自分の目の前にいる相手が誰かを考えない、自分が生きていくために相手の助けを必要とする場合には、相手に声をかけるけれども、相手を必要としなくなれば、すぐにその相手のもとを去り、自分の歩みを始める‥‥これが9人の人の生き方でした。
この9人の人たちにとって、イエスとの出会いは、自分の必要としているものを与えてくれる人との出会い、自分の要求を満たしてくれる人との出会いにすぎませんでした。そして自分に必要なものが与えられれば、それ以上、相手と関わる必要はありませんでした。9人の人にとって、自分の病気がいやされるということがすべてであり、それをいやしてくれた相手が誰かはどうでもいいことだったのです。
しかしイエスが求めた生き方、他者との関わり方、また神との関わり方は、そういいうものではありませんでした。つまりそれぞれ自分自身が満足して生きていくとができるように、必要なものを他者から求める、あるいは神さまにかなえてもらえればいい‥‥ということではありませんでした。自分自身の欠けを補うために、隣人が必要だ、また神さまが必要だ‥‥ということをイエスは教えたのではありませんでした。神さまを必要とする時にだけ、神さまに頼めばいい、あとは自分でやるべきだ‥‥ということではありません。別の言い方をすれば、「苦しい時の神頼み」のために、神さまや、イエスさまがいるのではありません。
自分ひとりでは生きていくことができないということ、私たちは、神とともに、そして神の前でさまざなな人たちとともに歩むことが大切であり、神さまはそのために私たちとともにいてくださり、イエスはそのために人間の世界に来られ、この世で見捨てられ、苦しむ人たちを含めあらゆる人たちとともにいてくださるということを聖書は私たちに伝えています。
何でも自分の思いが実現できたら、それは自分にとってはすばらしいことなのかもしれませんが、その思いはひとりよがりなものです。自分ひとりがこれこそが正しいと考えても、それがほんとうに正しいかはわかりません。神さまだけが正しく、力のある方であることを覚えることが大切なことです。そして、その神さまに見守られ、その神さまとともに生きるものとなるときに、私たち1人ひとりは生かされ、日々、喜びを持っていきることができます。そのために復活したキリストが私たちとともにいてくださるのです。イエスと、ともに歩むことが、大切であり、私たちはその方のもとで生かされるのです。
最後に2つのことを述べたいと思います。
ひとつは、私たちの周囲にいるさまざまな人たちに、「あなたも9人のうちのひとりかもしれませんよ」と語ることができるということです。世の中には、自分は神さまからまったく見捨てられていると思っている人もいるのかもしれません。でも、神さまは1人ひとりのいのちを支配し、守り、日々の糧を与え、見守っていてくださることには変わりはありません。その人たちに、あなたのためにもすでに神さまは働いていてくださいます。あなたのためにもキリストはすでに行動を開始し、人間の罪を引き受け、新しい道を備えていてくださいますということを伝えることが伝道だと思います。つまり9人の癒やされた人に対して、あなたがたは自分が癒やされたという自分の経験を自分の経験として踏まえるだけでなく、そこにそのような経験を引き起こした相手がいたということに気づき、その相手に関心を持ち、その相手とともに歩みなさいということ、それが伝道です。
もうひとつは、私たち自身の中にも、「9人の人と同じ面がまだまだあるのではないか」と考え、自分自身に問うということです。私たちは、キリストに生かされたと思うから、教会に来て、キリストとともに歩もうとしているのだと思います。でも、本当はもっともっと神さまに、キリストに助けられているのかもしれません。私たちはキリストに生かされていると思って歩んでいますが、キリストが10回も、20回も、いやもっと数え切れないほど、私たちに手を貸し、助け、いろいろな時に導いているのに、そのうちのわずかしか気づかず、あとは自分ひとりの力で何とかやってきたというように考えているかもしれません。そうであるとしたら、やはりキリストに出会い、キリストに癒やされつつも、それで終わりとなってしまった9人と似ていることになります。今日のカンファレンスが、お互いのことを知り合うと同時に、自分のことを知る機会となればと願います。
神さま、 私たちは、自分中心にものごとを考えたり、生きていることが多く、 私たち自身にできないことを、人に求めたり、あなたに求めてしまいます。 そしてその結果、問題が解決すると、また、もとのように、自分の考え、自分の行動を優先させて生きようとします。 それがいかに愚かなことかを悟ることができますように。 苦しい時にだけあなたを求めるのではなく、 私たちとともにいてくださるあなたと、常にともに歩むことにより、 私たちそれぞれが生かされ、また交わりの中でそれぞれの役割を担い合いながら、 ともに歩むことができます。 あなたの愛もとで、私たちのすべてが受け入れられ、守られ、導かれています。 そのあなたの愛のもとを歩むことができますように。 あなたがすでに私たちとともにいて、私たちの心の扉をたたき、 またすでに私たちをとらえ、導いてくださることを覚えることができますように。 あなたの愛に感謝をもって、日々、応じていくことができるよう、力を与えてください。 今日のカンファレンスを始めから終わりまで、ともにいて、導いてください。 主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。 アーメン