2011.8.14

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「大いなる他者」

村椿嘉信

詩編46,9-12; エフェソの信徒への手紙2,14-22

旧約聖書:詩編46,9-12

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
「力を捨てよ、知れ
わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙2,14-22

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

<平和の福音>、<和解の福音>

 14節に、「キリストはわたしたちの平和であります」と書かれています。15節に「キリストは‥‥平和を実現した」と、16節に「キリストは十字架を通して両者をひとつの体として神と和解させた」とあります。そして17節に、「キリストが平和の福音を告げ知らせた」とあります。

 「和解」の福音、「平和」の福音こそ、イエスが宣教し、聖書が証言している福音の内容です。

 私がキリスト教に関心を持ち、神学の勉強を始めたのは、ベトナム戦争が終わった頃でした。ベトナム戦争こそ終わったものの、教会が戦争にどうかかわるのか、教会が国家や地域の問題にどうかかわるのかが問われ出したときでした。高校生の頃、私が強い確信をいだくようになったのは、聖書の福音は「平和」をもたらすものだという確信でした。そして聖書の語る平和は、武力などの暴力によって実現される平和とは異なり、また社会制度の確立や世界の政治的秩序によってもたらされる平和とも異なり、「人と人との和解のできごと」によって達成されるものだということでした。

 どんなに正しい意見であっても、暴力を使って実現したものは、暴力を否定しなかったがために暴力によって破壊されます。暴力は否定されなければなりません。しかし暴力を否定すればそれだけでいいのかというと、否定するだけでは、そこからは何もうまれません。それでは、社会制度を改革したり、国と国とが戦争することなく、共存することができる国際関係を構築すればいいのでしょうか。たとえ「民主主義」というような制度であっても、それを動かすのは人間です。民主主義という制度を有効に生かして、平和を実現するためには、人と人とが、相手を認め合い、受け入れ合い、ともに歩む関係を築かなければなりません。

 和解し合うということは、今まで対立し合っていた人と人、あるいは無関心であった人と人とが、お互いに認め合い、受け入れ合い、心をかよわせ、ともに歩むようになる‥‥ことです。和解なしに、平和は達成されません。今日、教会に求められていることは、まず教会自身が、対立し合っていた人と人、あるいは無関心であった人と人とが、心をかよわせ、ともに歩むようにな「る和解の福音」の上にしっかりと立つということではないでしょうか。そして社会に向かって、「和解の福音」を宣べ伝えることではないでしょうか。このことこそ、コリントの信徒への手紙(2)の5章18節にあるように、「和解のために奉仕する任務」を果たすことです。

 

バルトの『和解論』

 ところでキリストこそ平和をもたらす方である、キリストこそ和解を実現する方であると気づかされた私は、以前にここで話しましたように父の影響もあって、バルトの『和解論』を読み始めました。今日はもう少し、自分自身のことを語ろうと思います。

 バルトの『和解論』は、膨大な書物です。日本では、バルトの立場に立つ人、バルトを批判する人はいますが、和解論をすべて読んで、議論の中で和解論を自由にこなすことのできる人を私は知りません。

 バルトの和解論とは、キリスト論といっても同じです。十字架の死と復活を踏まえながら、バルトは和解論を3つの視点から展開しました。旧約聖書に、「王」「祭司」「預言者」という3つの職務が出てきますが、バルトは「祭司としてのキリスト」、「王としてのキリスト」、「預言者としてのキリスト」というように3つの視点から、キリストについて語ることができると考えました。またそれに重ね合わせて、「まことの神としてのキリスト」、「まことの人間としてのキリスト」、「神と人間との間に立つ仲介者(つまり「執り成し人」)としてのキリスト」という3つの視点からキリストを理解しました。バルトの和解論は、主要部分が3つの部分から成り立っていて、これに倫理学が加わり、4部から構成されています。その各部が、ドイツ語では1千ページを超える量になっています。そしてバルトは、第4部の倫理学を途中まで書いて、息をひきとりました。とうとう未完の書となったのが、『和解論』の中の「倫理学」です。そこには「聖餐論」も含まれる予定でしたが、その部分はとうとう未完になってしまいました。バルトの『和解論』について、これだけの説明では、まだまだ何も説明したことにはならないのですが、今日は、このへんにしておきます。

 さて私は、和解論に関心を持ち初め、しばらくの間は、今から考えると、『和解論』という大きな森の中をさ迷っていたと言えるかもしれません。たとえていうなら、和解論という森の中には、花が咲いていたり、泉があったりで、楽しみながら森の中を歩きまわることができたのですが、そのことと、自分自身がこの世界の中でどう生きるのか、牧師として何を語るのかということが結びついていませんでした。バルトの体系的な神学の世界と、現実の世界がまるで別々の世界として存在しているかのでした。

 ドイツに留学し、クラッパート教授のもとでバルト神学をさらに学びました。でもかなりの間、神学として学ぶことと、自分が生きるということが分離したままでした。

 一方でクラッパートとはいろいろな問題について話しました。ヒロシマ、ナガサキの原爆のことが話題になることがありました。また私と妻がドイツで結婚式をあげたときに、クラッパート教授が結婚式の説教をしてくださったこともあり、そのことがきっかけで、沖縄の問題やアジアの問題がよく話題になりました。クラッパート教授が、戦前、インドネシアでドイツ人宣教師の家に生まれたこともあり、戦前の日本軍兵士の様子などを聞く機会もありました。

 その当時、私が学んでいたヴッパタールの神学校は、小高い山の上にあり、そのためにそのあたりは「聖なる山」と呼ばれていましたが、大学を出て、町の中心部へ向かおうとすると、ハルトと呼ばれる大きな公園を通り抜けることになりました。私たちは、大学の紹介で、クラッパート教授の隣りの小さな住居に住んでいましたが、大学から住居へ戻るためにはその公園を横切らなければなりません。そんなことで、クラッパート教授といっしょに散歩しながら大学に行き来することがありました。ある時、その公園でいろいろ立ち話をしていたときに、急にクラッパート教授が腰をかがめて、地面に絵を描きながら、私に話してくれたことがありました。その時、説明してくださったことが、バルトの『和解論』の第3部の内容の一部で、「光の教説」つまり「キリストが世の光である」ことの教えでした。その時、クラッパート教授が述べたことを、ひとことで、日本語に訳してしまえば、「何だ、そんなことだったのか」ということになると思いますが、それまでいろいろ議論してきて、そして私が和解論を読んでいることも知って、その上で、クラッパート教授が私に与えてくれたヒントによって、私は、自分が日本に帰って何をしなければならないか、和解論を読んで頭で理解するだけでなくて、それをもとに和解の任務を果たすということがどういうことかがわかったような気がしました。

 

キリストは「世の光」であるという信仰

 その時に、クラッパート教授が示してくれたヒントというのは、「和解者であるキリストは世の光である」ということでした。バルトが和解論の第3巻で力説したことは、キリストは世の光であるという、まさに聖書に書いてあるとおりのことでした。でもまさに、キリストが「世の光」であるということは、キリストが教会の光であるばかりでなく、キリスト者にとっての光であるばかりでなく、まさに世の光だということです。この光であるキリストが、「教会」の中に来られたのであれば、人間は教会の門をくぐらなければ、光にあずかることはできないかもしれません。しかしキリストは、この世を照らすために「この世のただ中」に来られたのです。そしてクラッパート教授は、この世といってもキリスト教化されたヨーロッパではなくて、日本やアジアのようなまさに異教世界の中でこそ、「キリストが世の光である」ということの意味が明らかにされなければならないはずだと付け加えました。

 このことは、教会は必要ないとか、教会の役割が終わったということを意味するのではなく、教会は教会として和解の任務を果たしながら、しかし「教会」に対してではなく「この世」に対して和解をもたらすキリストに仕え、わたしたちもこの世で和解の務めを果たさなければならないということを意味します。

 さきほどのエフェソの信徒への手紙によれば、キリストこそ、あらゆる敵意を取り除き、隔ての壁を取り壊し、和解させてくれるのです。「もはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です」と言われているのは、決して「規則や戒律ずくめの律法によって成り立つ」狭い意味での教会ではなく、神の国としての教会です。

 キリストは、まさに和解をもたらしてくださる方です。私たちと神さまとの間に溝があるのに、隔ての壁があるのに、それを打ち壊し、神さまの力を私たちにもたらし、私たちに生きる力を与えてくださるかたです。それと同時に、私たちと隣り合って存在するさまざまな人たちとの間にある溝や壁を取り除いてくださる方です。

 

この世の和解と、和解のための私たちの奉仕

 溝の向こう側にいる人たち、隔ての壁の向こう側にいる人たちとは、たとえば私たちが憎しみを抱く相手、あるいは私たちがもはや関心をもとうともしない人たちのことです。私たちは、それぞれ壁で囲まれた空間の中で生活していてその外にどんな人がいようと、何が起ころうと無関心でいることができます。ところがイエスによってそういう壁が壊され、私たちは、同じ環境の中に生きているのだと知らされ、ともに生きるために協力し合い、連帯し合うようになれるのです。それが和解の任務を果たすということです。自己中心的なマイホーム、自分の国さえ平和であればいいという一国主義は、壊されるのです。もっと心をかよわせ合い、ともに喜びに満ちた時間を過ごすことのできる神の家族、神のホームが、世の光であるキリストによって打ち立てられるのです。神の家族と言えるような交わりを私たちは、神さまの力を受けながら、求めていくことができるのです。

 今日、壁が乗り越えられなければならないのは、教会がみずからの周囲にはりめぐらしている壁ではないでしょうか。あるいは教会(=教団)の中に存在する壁といえるかもしれません。

 

私たちに和解をもたらす大いなる他者のもとで

 今日の説教題に「大いなる他者」とつけました。私たちからみれば「他者」であったはずのキリストがこの世に来られ、私たちの「隣人」として、私たちと和解しました。しかし私たちは、キリストのようにはなれず、キリストをまるで「他者」のように扱っています。その「他者」であるキリストが、私たちを招いていてくださることを覚え、私たちは「大いなる他者」とともにあゆむ努力をしなければなりません。そのときに、さまざまな「他者」との和解もまた実現されることになります。それは私たちとともに歩む「大いなる他者」としての神が、私たちに和解の福音を委ね、私たちが和解を実現する知恵と愛を与えてくださるからです。

 今日、ここで確認したいことは、教会を超えて世に輝く光としてのキリストが、壁を越えて私たちを招いていてくださるということです。あらゆる隔ての壁は取り除かれます。キリストの招きに応じる者となりましょう。


祈ります:

天の主なる神さま、
あなたは主イエス・キリストを「世の光」として、この世に与えてくださいました。
教会は、まるで自分たちに与えられたもののようにこの「光」に結びつこうしています。
主イエス・キリストが、この世界を照らすまことの光であること、
この世のただ中で和解のわざを果たされる方であることを覚えることができますように。
そしてその主を信じ、その招きに応じ、
和解の務めをこの世のあらゆる人たちが果たすことができるように導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン
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