2011.8.7

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「地の塩、世の光」

村椿嘉信

イザヤ書48,17-19; マタイによる福音書5,13-16

旧約聖書:イザヤ書48,17-19

イスラエルの聖なる神/あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神/わたしはあなたを教えて力をもたせ/あなたを導いて道を行かせる。
わたしの戒めに耳を傾けるなら/あなたの平和は大河のように/恵みは海の波のようになる。
あなたの子孫は砂のように/あなたから出る子らは砂の粒のように増え/その名はわたしの前から/断たれることも、滅ぼされることもない。

新約聖書:マタイによる福音書5,13-16

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

<塩>と<光>

 「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉は、多くの人に知られている言葉です。新約聖書の最初の福音書、しかも日本語の新共同訳聖書では第6ページという最初の部分に出てくる言葉で、たとえもわかりやすく、教会学校などでもかならず引用される箇所です。

 <塩>には、塩にしかできない働きがあります。味付けをしたり、ものを腐らせないようにするという作用があります。しかしそれだけではありません。塩分は、私たちがそれぞれの身体的な機能を維持していくうえで必要なものです。

 <光>には、明るくしたり、信号を送ったり、暖かくしたりするという作用があります。真夏の太陽がギラギラと照りつけると、地上では気温があがり、私たちは熱中症を起こしてしまいます。

 <塩>には塩の役割があるように、<光>には光の役割があるように、私たちにもさまざまな力が与えられていて、それを果たすことができます。<塩>は<光>にはなれず、逆に<光>も<塩>にはなれません。それと同じように、私たちも、それぞれ与えられているものを生かして、それぞれが、それぞれの仕方で、この地上で、この世で、役割を果たすことができます。

自分の能力ではなく、神の力に生きる

 しかしこのことは、自分の能力を自分の思いによって生かすということとは異なります。自分には塩の持つ力が与えられていて、それを生かすのが使命だ。そうすれば、絶対に人生はうまくいく、人にも認めてもらえるようになる‥‥と考えるとしたら、それはイエスの教えとは異なります。

 自分には人を指導する力がある、会社を経営する能力がある、自分には人のために果たすことのできる特別な力が与えられている‥‥と考え、それぞれが与えられている能力を生かすことを神さまが望んでいるはずだと考えるのは、「能力主義」であり、この世の中で、実際に多くの人たちが考えている同じことです。

 イエスは、それぞれが能力を磨き、それぞれの能力を発揮すればそれですべてがうまくいく‥‥と言おうとしているのではありません。

 イエスはこのことをはっきりと語っています。自分がたとえ<塩>であったとしても、塩気がなくなり、何の役にもたたずに、捨てられてしまうことがあると指摘しています。

 また<光>についての部分では、自分が<光>でありさえすれば、それでいい働きができるのではなく、その<光>をどこにおき、どのように用いれば、家の中全体が明るくなるかという議論をしています。

 それどころか、私たちは、どうして自分が<塩>や<光>になったりすることができるのでしょうか。それは、神さまがそのように私たちに働きかけていてくださるからです。

 つまり神さまが私たちに塩としての力を与えてくれるときに、しかもその力が弱くならないように支えてくださるときに、その味が消えてしまわないように養ってくださるときに、その役割を果たすことができるのです。

 神さまこそが光であって、私たちを照らしてくださるからこそ、私たちは、その光を受けて、みずからも、わずかながら光るものとさせられるのです。

 イエスは、山上の説教の中で、イエスが私たちを弟子として招いてくださるのであり、そのときに、私たちがどんな歩みをすることができるのかを描いています。

 イエスに従う人たちのかたわらに、常に主イエスがいて、ともに歩んでくださる。だからそのイエスの力を得て、私たちは<塩>としての働き、<光>としての働きを果たせるようになるのです。

 さて私たちは、どうしたら神さまに与えられる力を用いて、神さまに応える歩みをすることができるのでしょうか。

自由で責任ある行為

 ボンヘッファーはその問いに、「自由で責任ある行動を起こすべきだ」と言っています。行動、あるいは行為といっても、ボンヘッファーの場合、人間がもともと持つ能力や、思考力に基づく人間的な行動について語っているのではありません。私たちがそれぞれ遣わされている場所で、神さまの祝福を受けながら、神さまと隣り合って存在するさまざまな人たちに責任のある自由な行動をとることができるということをボンヘッファーは語っています。

 ボンヘッファーは次のようなことを述べています。

「私たちの負わなければならない責任は、
無制限なものではなく、限定されたものである。
だがその限定された責任を果たすときにこそ、
私たちの責任は現実の全体に及ぶ」。

 たとえば今も、沖縄では、新しい軍事施設の建設に反対を表明しようとして辺野古の海で座り込みを続けておられる方たちがいます。その人たちは、辺野古のことに関わっていて、原爆の問題とか、世界各地で起きている紛争の問題には直接的に関わっていないかもしれません。しかし辺野古での小さな責任を果たすことによって、現実の全体に対する責任を果たそうとしていると私は思います。

 しかし一方には、全体に対する責任を果たそうとして、限定された責任を負おうとしない人たちがいます。足元の問題、目の前にある問題を素通りして、全体に対する責任を果たそうといくら努力しても、それはそもそも不可能なことではないかとボンヘッファーは指摘しています。

 ボンヘッファーはさらに次のように述べています。

「世の中を根本的に変革することではなく、
自分に与えられた場所で、
現実に目を注ぎつつ、
必要なことを行うということが、
私たちの課題となり得る」と。

 この言葉はとても大切なことを語っていると思います。私たちは、世の中をいい方向に根本的に変革すべきです。全世界の平和を実現すべきです。なぜなら世界が平和にならなくて、東京も、沖縄も、平和にならないからです。でも、全世界の平和を実現すべきといっても、具体的に何をすべきなのか、何ができるのかすぐに明らかになるのではありません。そのような場合に、「自分に与えられた場所で神様が望んでいることを行う」ことが、私たちの課題となり得るのです。

 ボンヘッファーは、何らかの原則や、理念、信念をどこまでも貫徹することが大切だとは語っていません。私たち一人ひとりに与えられた状況のもとで、しかも、私たち人間の認識が不十分なものであることを踏まえつつ、今、自分の置かれている場所で何が起きているのか、自分に何ができるのか、神さまに応えるために何をしたらよいのかを問わなければなりません。

 ところでもし、理念や信念に基づいて行動した場合は、私たちが自分で選択した理念や信念に照らして、どれだけ成功したか、ということになります。自分で選択した原則によって、自分の行動が正当化され評価されることになります。しかしこれは、自己満足にすぎません。

 これに対しボンヘッファーが勧める「自由で責任ある行動」の場合は、その行動が正当であるかという自分の判断を放棄し、判断自体を神に委ねることになります。たとえば、私たちの独りよがりな態度、私たちの弱さや未熟さ、隣人に対する思いやりのなさに対して、神は何と言われるでしょうか。自分がよいと思ってしたことが誰かを傷つけてしまうような場合に、私たちは神の前で責任を果たせなかったことを悔いなければなりません。でもそのような私たちが、たとえ小さな場所であったとしても、神さまと隣人とに責任を負う行為を成し得たのであれば、神さまがそれを評価してくださるでしょう。私たちを憐れみ、私たちを愛し、私たちを見守っていてくださる神さまが、私たちを見て、評価してくださるでしょう。ボンヘッファーは次のようにも述べています。

「イデオロギーに基づいて行動する者は、
その理念によって自分を正当化するが、
(神の前で)責任ある行動をとる者は、
その行動を神に委ね、
神の恵みと憐れみによって生きる」。

最後に:

 今日は「平和主日」です。この日に、私があらためて願うことは、できるだけ多くの人たちが、戦争、平和、核兵器の問題等について考えてほしいということです。みなさんも同じなのではないでしょうか。そして私たちも、自分の生きている場で、平和を作り出すために、たとえ小さな一歩でも踏み出すことができれば‥‥と思います。

 でもみんなが同じことをする必要はないし、できるわけでもありません。それぞれさまざまな課題に取り囲まれている中で、自分の計画を実現するのではなく、聖書に学びながら、神さまの計画とは、それを実現することはどういうことだろうか、と考え少しずつ前進することが大切です。聖書に学び、神様に聞きつつ歩むときに、それぞれに与えられた課題は異なっても、私たちは、ともに「この世」の中で、「この地上で」<塩>として、<光>として生きることができるのです。



祈ります:

神さま、
私たちは自分を中心に生きています。
自分の能力を自分で見つけ、自分で生かそうとします。
自分で定めた目標に向かって歩もうとします。
しかし自分の力に生きようとするのではなく、
あなたの力にこたえて生きる者とさせてください。
あなたこそ、地の塩、世の光です。
そのあなたの力のもとで、あなたに導かれながら、
わたしたちもまた地の塩、世の光となって歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン
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