もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
安息日の規定については、7月の最初の日曜日にも取り上げました。そのときの説教の聖書の箇所は、マルコ2章23−28節でした。今日はその続きです。
安息日の規定は、ユダヤ教にとっては、今でも、遵守しなければならない大切な宗教的戒律です。そもそも7日間を1週間と数えるのは、バビロニアの習慣だったという説もありますが、ユダヤ教の暦のなかでは、安息日は一番大切な日として定められています。それは『出エジプト記』20章と『申命記』5章に記されているように、十戒の中の戒律であることからもわかります。
『出エジプト記』20章では、神さまが天地創造において7日目に休まれたその日を祝福し聖であると宣言したことから、神さまに従うすべての人が安息日を覚えて聖なる日とし、労働してはいけないと述べられています。一方、『申命記』5章では、神さまがユダヤ人をエジプトの奴隷状態から連れ出してユダヤ人に休みを与えたゆえに、安息日を覚えて聖別し、労働してはいけないと述べられています。 したがって、ユダヤ教では、安息日は神が天地を創造したことを覚えるとともに、神がユダヤ人の歴史を救い、ユダヤ人が神の民であることを覚える記念日となりました。
一方キリスト教の教会では、当初は安息日つまり土曜日に集まって礼拝を行っていました。しかしのちに、キリストの復活を記念して、復活の日である日曜日を「主の日」と呼び、礼拝を行うようになりました。ユダヤ教から区別するため、またローマの諸宗教と区別するためであったと言われています。やがてローマを中心に発展したカトリック教会においては、日曜日の「主の日」を安息日と同一視するようになりました。
さきほど私は、ユダヤ教においては、安息日は、創造の出来事、また神さまが歴史的に導かれたできとごを思い起こす日だったと述べましたが、キリスト教においては、主イエス・キリストの復活の出来事を思い起こす日となりました。思い起こすという意味では、ユダヤ教にとっても、キリスト教にとっても過去の出来事を思い起こす日であるといえるかもしれません。しかしキリスト教の場合、復活を思い起こすということは、単に過去のできごとを思い起こすというより、私たちの未来を明らかにし、希望をもって現在の苦難を乗り越えることを意味します。私たちは、イエスの復活を思い起こすことによって、私たちもやがて復活するようになることを確信するようになるのです。その意味で、キリスト教の主の日は、過去を記念するというより、未来を告げ知らされる日です。日曜日の朝は、私たちに、夜が過ぎ去り、永遠の朝が訪れることを告げ知らせるものです。土曜日の安息日と、日曜日の礼拝のための主の日の理解には、そのような違いがあると言えます。
この安息日、ないし主の日を覚えることは大切なことです。イエスは、そのような必要はないと言おうとしたのでは決してありません。
イエスは、その規定を守ることは大切だが、形だけ守ることではなく、もっと大切なことがあると言おうとしたのです。もっと大切なことは何でしょうか。
イエスは「会堂に入」られました。「そこに片手の萎えた人」がいました。人々は「イエスを訴えようと思」い、「安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していました」。
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われました。そして人々にこう言われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。すると彼らは黙ってしまいました。
イエスが、会堂に入ったところ、そこに片手の萎えた人がいたのです。その日は、まさに安息日でした。でも今、目の前に病気で苦しんでいる人がいるのです。そしてイエスは、その病気をいやすことができるのです。イエスは、善を行うこと、<いのち>を救うことは、安息日であれ許されていることであると考えました。
イエスは安息日であるにもかかわらず、病人をいやしたのではなく、むしろそれこそが、安息日に許されるべきことであり、安息日にすべきことだと判断しました。しかし人々は、そのような判断はできませんでした。
さてここで2つのことを確認したいと思います。
「安息日」は、過去の神さまのわざを思い起こし、神さまに感謝すべき日です。「主の日」は、未来の神さまのわざを今、この時に前もって告げ知らされる日であり、未来に向かって希望を新たにされる日です。しかし主イエスは、私たちに、過去を思い起こしたり、未来に希望を持つのはよいが、神さまのわざは、過去や未来のできごとであるだけではなく、私たちの現在に関わるものだということを明らかにしました。第1に確認したいことはこの点です。過去をふり返ることも、未来を希望をもって見ることも大切ですが、神が働かれる今というこの時のことを忘れてはなりません。
何よりも大切なこと、それは今、神さまが働いておられ、その神さまのわざに参与するということです。安息日、主の日に思い起こすべきことは、神さまが今、働いておられるということです。
さて、第2に確認したいことは、安息日、主の日は、神の働きを覚える日であると申しましたが、その神さまの働きといいうのは、私たちを生かし、私たちが愛をもって隣人をとともに歩むように導くものです。私たちは安息日、主の日に、神さまが今、私たちに何を望んでおられるのかを知ることになります
神さまが願っていること、望んでいることは、私たちが生きる者となること、そして隣人を愛するようになることです。このような応答を神さまは求めています。これが大切な第2の点です。
だからこそ、私たちは安息日、主の日だからこそ、自分が生かされていることを覚え、自分を大切にする必要があります。静かな時、休養の時を持つ必要があります。そしてまた、私たちがほんとうに人を愛して生きているかを問い、神さまの前で相手に向かっていく必要があります。
神さまに向かうべき日であるにも関わらず、自分や隣人にも向かうというのではなく、神さまに向かう日であるからこそ、人に向かうことが求められています。神さまを大切にするからこそ、人も大切にしなければならないのです。
詩編51章18−19節にはこうあります。
もしいけにえがあなたに喜ばれ、
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、
わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を、
神よ、あなたは侮られません。
神様は人間に、宗教的な儀礼を求めているのではなく、打ち砕かれた霊、悔いる心をもって、神の前に歩むこと、そして傲慢にならずに、与えたれた人生を歩み、また隣人とともに力を合わせ、愛を持って生きることを求めています。
旧約聖書にも、今、働いておられる神さまの前で、悔いる心をもって、神さまとともに歩むことが大切であるという生き方が示されています。でも旧約聖書の時代のとらえ方には、いろいろな限界がありました。神さまのわざは、過去との関連において捕らえられました。現在における神さまの働きは、どちらかというと過去のできごとの再現にすぎませんでした。預言者の時代になってはじめて、現在における神さまの働きは未来のできごとの先取りなのだという理解が生まれました。
イエスは、神さまが生きて働かれるところで、新しいことが始まると強調しました。イエスの復活のできごとが明らかにされるところで、私たちは神さまの示す未来へ向かって歩む者とされ、神さまや隣人とともに愛をもって歩む者となるのです。
主の日は、神さまを愛するためにある日であり、またそれだからこそ、隣人を愛するためにある日です。
主の日は、神さまに喜ばれることをすべき日であるからこそ、私たちは、神に喜ばれるために、隣人と向き合い、愛をもってともに歩まなければなりません。
隣人を愛すことなしに、神を愛することはできません。そしてまた、神を愛することなしに、隣人を愛することはできません。そのことを思い起こし、そのように生きるためにこそ、主の日はあるのです。
祈ります。
主なる神さま、
主の日の礼拝に参加することができ、心から感謝します。
あなたの過去の働きを思い起こし、
あなたの未来の働きを望み見つつ、
今というこの時に働かれるあなたのみわざを知ることができますように。
そしてそのみわざに応えていく歩みをさせてください。
主の日にあなたを愛することができますように。
そしてまた、あなたが望まれるように、私たちが
愛をもってともに歩むことができるよう、導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって。祈り願います。
アーメン