主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
さきほど創世記第3章の最後の部分をお読みしましたが、2章、3章にわたって、エデンの園でのできごとが描かれており、2章9節には、そのエデンの園の中央に神さまが、「いのちの木と善悪の知識の木」という二本の特別な木を「生えいでさせられた」と書かれています。
主なる神は創造したばかりのアダムに命じてこう言われました。2章16、17節。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず,死んでしまう」
ところが人間は、「善悪の知識の木」の果実を取って食べてしまいました。
エデンの園の中央にあるもう一本の木であるいのちの木は、この時、人間は手をつけませんでした。その木の果実を食べることはありませんでした。そして先ほどお読みしました3章の最後の部分で、神さまは人間が近づけないように囲いをつくり、人間の手が届かないようにしました。
先ほどの聖書の箇所の3章22節の後半に「今や、手を伸ばしていのちの木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」とあります。だから、23節にあるように、人間をエデンの園から追い出し、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を起き、いのちの木に至る道に誰も入り込めないようにしたのです。
ケルビムは想像上の生き物と言われていますが、神が遣わした天使のような存在であり、いのちの木に至る道に誰も入り込めないようにする門番、あるいは監視人と言えます。
このことは、私たち人間が生命を思い通りに操作したり、この地上に永遠に生き長らえることはできないということを意味します。私たちはいのちをつくりだすことはできません。いのちは、神さまから与えられるものです。私たちは、自分の意志で、この時代に生きたいとか、男に生まれようとか女に生まれようとか、どの民族に生まれようとか、選択することはできませんが私たちは、そのいのちを大切にすることはできます。自分に与えられているいのち、隣人に与えられているいのちを、守ることはできます。健康に、元気に生きることができるよう配慮することは、大切なことです。病気にかかったら病院に行き、お医者さんの言うことを聞くことは、大切なことです。交通事故を引き起こさないように、巻き込まれないように努力する、自然の災害によっていのちが奪われることのないように、自然を侮らず、傲慢にならず、日頃から災害に対応できるように準備を怠らないことは、とても大切なことです。そのようにして、神様から与えられたものを大切にすることができます。
でももう一方で、人間のいのちには限界があるのだということ、誰でもやがて死を迎え、一生を終える時が来るのだということを私たちは忘れないようにしなければなりません。
主イエスは、マルコによる福音書8章36節を読むと、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか。自分のいのちを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と語りました。
神さまから与えられたいのちを大切にすることはできますが、いのちそのものは、神さまの領域に属するもので、それを私たちの力でどうこうすることもできません。私たちはいのちを与えられ、生かされていることを神さまに感謝し、この世で神さまからさいわいを得、神さまの見守りのうちに祝福を得て歩むことができるよう、そして永遠のいのちに至ることができるよう願い求めるしかありません。
一方、最初に確認しましたように、「善悪の知識の木」の果実を人間は食べてしまいました。いくつかの重要な点を聖書から確認したいと思います。
「善悪の知識の木」を造ったのはそもそも神さまです。「知恵」そのものは、神さまが造ったもので、神さまが造ったものはすべて素晴らしいものです。それは人間を神さまのようにするものです。それを神さまはエデンの園の中央に置きました。人間が手を伸ばせば、届くところに置いたのです。これは私の勝手な想像ですが、いずれ神さまはそれを人間に与えようとしていたのかもしれません。
でも人間は、神さまに与えられるまで待って、神さまの手からその果実を受け取ることをしませんでした。人間は、神さまの意志に反して、みずからその果実をもぎ取り、神さまの手から奪い去ったのです。
聖書では、ヘビが誘惑して、人間が「知恵の果実」を食べたことになっていますが、ヘビは誘惑者というよりは「知恵」の象徴でもあります。マタイによる福音書の10章16節に、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とイエスが語ったとしるされていますが、イエスは誘惑者のようになれと言ったのではなく、知恵をもって賢く歩みなさいと述べたのです。
ヘビが知恵の果実を取って食べるようにと勧めたということは、知恵が際限なく知恵を追い求め続けるものであることを示唆しています。人間は、知恵を手に入れると、それで満足することなく、ますます、より多くの知恵を得たいという衝動にかられます。
知恵を手に入れた人間は、科学技術を発展させ、人間の文化や生活を向上させてきました。人間はハイテク技術なしには、もはや生きていけないようになっています。しかし生活が便利になったはずなのに、余裕をもって自分の人生について考えたり、互いに支え合ってともに歩むことができるようになっているかというと、決してそうではありません。かえって私たちは、生活に余裕がなくなり、いつも時間に追われる毎日を強いられています。競争社会の中で、ますます孤独に陥りつつあります。
さきほど知恵はすばらしいものだと言いました。知恵は人間を神さまに近づけます。でもまさにその点に知恵のもうひとつの深刻な問題がひそんでいます。
知恵があるから、人間は傲慢になります。知恵を手に入れた者は、やがて自分が神であるかのようにふるまうようになります。知恵があるから、人の命を奪う大量殺戮兵器を造ったり、自分のために知恵を働かせて、人を騙したり、裏切ったり、人の心を傷つけたりします。
聖書が語っていることは、知恵そのものは決して悪いものではなく、むしろすばらしいものだということです。神さまが知恵を用い、神さまのもとで人間が知恵を働かせるかぎり、私たちは知恵のもたらす恵みにあづかることができます。でもその知恵を、私たちが自己中心的に生かそうとすると、その知恵を用いて自分が神であるかのようにふるまい、人間の存在を否定し、人を傷つけたりするものになってしまいます。そうではなく、私たちは、その知恵を隣人のために生かすことができます。
私たちはその知恵をどのように用いるのか、その責任を神さまの前で問われています。
主イエスは、ある時、もっとも大切な戒めは、神を愛することであり、自分のように隣人を愛することだと言われました。
イエスはある時、弟子たちとともに湖の向こう岸に渡ろうとし、急に起こった嵐を静め、自然現象にも、すべてに権威を持つ方であることを明らかにしました。
人間の魂にも、自然現象にも権威を持っているイエスに従いながら、私たちが知恵を用いることが大切なことです。自分が神のようにふるまうのではなく、むしろすべての人に仕えようとしたイエスを理解し、イエスに従うために、知恵を用いるものとなりましょう。神さまを、隣人を愛するためにこそ知恵を用いるものとなりましょう。また神さまと隣人を愛するために、知恵をもって自然に関わるものとなりましょう。
祈ります。
主なる神さま、
私たちを造り、私たちを生かし、いのちを与えて生き長らえるようにさせてくださることに
心から感謝します。
与えられている自分のいのち、それぞれのいのちをお互いに大切にしながら歩むことができますように。
あなたから与えられているものを、私たちが生かすことができますように。
私たちは、自分で手に入れた知恵によって、自分の思い通りに歩むことができると錯覚し、傲慢な者となることがあります。
しかし私たちの知恵が、今まさに、自然を破壊し、人類を破壊してしまうかもしれないほどのものであることを知ることができますように。
そしてそれぞれが責任をもって知恵を生かすことができるよう導いてください。
あなたを愛するために、あなたの導きのもとで隣人兄弟姉妹を愛するために、
知恵を用いることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン