2011.6.19

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「いのちの水」

村椿 嘉信

ヨハネによる福音書4,7-15

テキスト(新約):ヨハネ4,7-15節

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。
女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。

聖書の中の「水」:

聖書の中には「水」についてのお話がたくさんあります。

聖書の最初のページを読むと、この世の中は、もともとは暗くて、水がたまっていたようです。神さまは光を創りました。そしてたまっていた水をひとつの場所に集めて海ができました。そして乾いたところに陸ができました。この地球も、自然も、動物も人間も、そして宇宙も神さまが創ってくださったもので、私たちのいのちを支えてくれるのは神さまだと、聖書に書かれています。

創世記の2章の始めの部分には、ちょっと違った話が出てきます。水はもともとあったのではありません。もともとは地面しかありませんでした。そこには木も、草もはえていませんでした。動物も人間もいませんでした。水は、地下から湧きだし、乾いた地面を潤しました(6節)。また雨が降るようになりました。それで草や木が育ち、やがて生き物が誕生しました。

聖書をもう少し読んでいくと、ノアの箱船の話が出てきます。ノアさんという人がいました。そのころ大きな洪水が起こりました。洪水というのは、大雨になって、水があふれ出すことです。一度にたくさんの雨が降ったり、長い間降り続けると、川や下水から水があふれ、道路や建物が水浸しになります。ノアさんがいたときは、高い山の上まで水でいっぱいになりました。でもノアさんは、神さまに言われて、まだ、大雨が降らない前に山の上で大きな船をつくりました。「こんな高い山に船をつくって、どうするのだろう」と、その当時の人々は、ノアさんの行動を笑いました。でもほんとうに洪水が起こり、ノアさんや、家族、また動物たちが助けられました。

また、水のことで「けんか」も起きました。海の水は、私たち人間は飲むことができません。川の近くの人は、川から飲み水を手に入れることができます。池や、湖の水を飲むことができます。でも川や湖から遠く離れた人たちは井戸で地下水を汲み上げました。そこで井戸が誰のものかをめぐって、しばしば争いが起きました。水はなくてはならないものです。でもなぜ、人間は仲良くできないのでしょうか。「この水は、僕のものだ。この井戸を掘ったのは、僕のおじいさんだ。お父さんも、この井戸を大切にしてきた。だからこの水は、僕たちのもので、ほかの人たちには絶対にあげない」。こう言って、自分勝手なことをしていると、みんなと仲良く暮らすことができなくなってしまいます。

イエスさまは、「天の父、神さまは、正しい人にも、正しくない人にも、雨を降らせてくださる」と言いました(マタイ5,45)。正しくない人は、反省して、やり直さなければなりません。でも、悪いことをしている人でも、神さまにとって大切な人であることには変わりがありません。イエスさまは、水は、みんなのものだと語りました。だからみんなで大切にしなければなりません。

水の恐ろしさ、水の大切さ:

水は、恐ろしいものです。

東北地方では、大きな津波が起こりました。海で起きた地震によって、海の水が大きな波になりました。そして水が低くなったり、高くなったりして、その水がやがて人の住んでいる町や村を襲いました。自動車が流されたり、家の上まで水が来て、家が押し流されたりしました。

私は、去年の今頃はまだ沖縄にいました。沖縄では、夏から秋にかけてたくさんの台風が来ます。台風はたくさんの雨を降らせ、つよい風を吹かせます。沖縄のゴーヤーとか、バナナとかが雨と風によって吹き飛ばされてしまいます。「台風はこなければいいのに‥‥」と思います。

でも沖縄にいると、「台風がきてくれるといいのに‥‥」と思うこともあります。沖縄では、年によっては、1月頃から雨が一滴も降らないことがあります。また、5月から6月にかけての梅雨のときに、雨がほとんど降らないことがあります。そうすると、暑い夏がやってきても、水がなくなってしまいます。飲む水が無くなります。水がないと、ご飯も炊けないし、料理もできないし、トイレの水も流せないし、シャワーもあびることができなくなります。それだけでなく、飼っている犬にも水をあげられなくなるし、野菜も育たなくなるし、家畜も育たなくなります。

水は、大切なものです。なくてはならないものです。

沖縄では、そんなとき台風が一つでも来て、たくさん雨を降らせてくれれば、ダムの水が一杯になります。だから台風が来ると、みんな喜びます。

津波や台風がきてもみんなが困らないように、まえもって工夫することが大切です。大雨はこまりますが、でも雨が降るから、木や草が育ち、人間も生きていくことができるのです。

いろいろな水:

ここにペットボトルがあります。水不足のときに役に立ちます。

これは水道水です。世界中には、日本のような水道がないところがたくさんあります。水道も、井戸もなく、遠くの川やわき水から、水を毎日、運ばないと生活できない人たちもいます。

井戸水、川の水、湖の水、いろんな水があります。今は海の水から塩などを取り除いて、飲み水にすることもできます。

イエスさまは、ある時、水が飲みたくなり、井戸の水を飲もうとしました。でも「水をくむ道具」を持っていませんでした。だからそこにいたサマリヤの女の人に、「水を飲ませてください」と頼みました。このことを通して、話し合いが始まりました。水は大切なものです。だけどイエスさまは、水よりももっと大切な「いのちの水」があると言いました。今度はサマリヤ人の女の人のほうが、イエスさまに「水をください」と言いました。「いのちの水」とは何でしょう。

この壺の中に、いのちの水が入っています。これは本物ではありません。ほんとうの「いのちの水」はイエスさまからしかもらえません。これは本当のいのちの水ではありませんけれども、イエスさまが与えてくれるいのちの水とはどんなものかを考えるために、この壺の中にいのちの水を入れました[壺には、水滴のかたちに切った厚紙が入っています。表は、ブルー系の何色かの色がつけられています。裏は、下記のような単語が書かれています]。

ここに水滴があります。いろいろな色の水滴があります。これを今、教会学校の子どもたちに渡します。

これは紙でできた水滴ですけれども、裏にイエスさまが私たちに与えてくれるいのちの水がなんであるのかが書かれています。一人ひとり、裏に書かれている言葉を紹介してください。

 愛    お互いを大切にしながら、いっしょに生きて行くこと 

 平和 戦争や争いをやめて、いっしょに生きること

 いのち   神様から与えられているいのちを大切にすること

 思いやり 相手のことを考えること

 希望    あきらめずに、少しずつでも世の中がよくなるよう努力すること

 勇気    心配なことがあっても、へこたれないこと

 喜び   神さまと、みんなに喜んでもらえることをすること

 親切 自分のことばかりではなく、周囲にいる人たちのために働くこと

 やさしさ 相手の苦しみや悲しみを知ること

 赦し 赦し合ってともに生きること

 正直 嘘をつかず、正直になること

 忍耐  正しいことのためにガマンすること

 謙遜 ありのままの人間として生きること

 共感   相手の思いを知って、いっしょに考えながら生きること

 共生 いろいろな人と力を合わせること

この一つひとつは、神さまが与えてくださるいのちの水の一部です。イエスさまが与えてくださるいのちの水は、私たちの心の中に入ってきます。

これらは、水と同じように、なくては生きていくことができない大切なものです。

イエスさまは、こういういのちの水を私たちたちに与えてくださいます。このいのちの水をイエスさまからしっかりと受け取って生きていきましょう。

祈り:

神さま、あなたが私たちに雨を降らせ、私たちを成長させてくださることを感謝します。また一人ひとりにいのちの水を与えてくださることを感謝します。
あなたから与えられたいのちと、生きる力を大切にしながら、毎日、、生きていくことができますように。
あなたから与えられたものを、すべて自分ひとりのものとするのではなく、
お互いに分け合いながら、いろいろな人と一緒に力を合わせて生きていくことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン


礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる