2011.6.5

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「キリストのもとへ」

村椿 嘉信

詩編20,7-10; エフェソの信徒への手紙1,8-14

テキスト(旧約):詩編20,7-10

今、わたしは知った
主は油注がれた方に勝利を授け
聖なる天から彼に答えて
右の御手による救いの力を示されることを。
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。
彼らは力を失って倒れるが
我らは力に満ちて立ち上がる。
主よ、王に勝利を与え
呼び求める我らに答えてください。

テキスト(新約):エフェソの信徒への手紙1,8-14

 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

私たちの知恵と理解

エフェソの信徒への手紙1章の8節、9節に、こうあります。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです」。ここに書かれていることを整理するとこうなります。

神さまが恵みを私たちの上にあふれさせてくださった。

そしてすべての知恵と理解を与えてくださった。

そのことにより、秘められた計画を私たちに知らせてくださった。

これは前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものである。

ここに、「すべての知恵と理解」、「あらゆる知恵と理解」を与えてくださった。そして「秘められた計画」を知らせてくださったとあります。

この部分だけをとらえ、私たちにはすでに優れた知恵と理解が与えられている、そして秘められた計画はすべて明らかにされていると考えるとしたら、それは私たちの傲慢にほかなりません。

私たちには、まだまだわからないことがたくさんあります。自然の驚異について、その破壊的なエネルギーについて十分に明らかにされているわけではありません。神さまがどのように平和を打ち立てようとしているのか、この日本をどうしようとしているのか、わかっているわけではありません。また人間がどのような存在なのか、私たち一人ひとりもそれぞれがどう人生を歩むべきなのか、今後、どのような事態が待ち受けているいるのか、それにどう対処しなければならないのか‥‥など、すでに知っているのではありません。

すべてを知り尽くすことはできません。むしろ自然についても、人間についても、自分自身についても、まだまだわからない部分がたくさんあります。自分のことだから何でもわかっていると言うのではなく、自分でもわからないことがあるということを認め、自分や隣人を、人間や自然を、常に発見する努力を怠らないことが大切なことです。聖書は私たちに決定的に重要なことを教えています、でもそのことは、私たちが何もかも理解し、知ることができるということではありません。。

それでは、この箇所になぜ、「すべての知恵と理解」を与えてくださった。そして「秘められた計画」を知らせてくださったと書かれているのでしょうか。

神の秘められた計画

ここで語られているのは、私たちの知恵や理解力がどんなに優れたたものであるかということではなく、神の秘められた計画、救いの計画について、決定的なことが明らかにされ、それを私たちは理解することができるということです。それは10節に書かれている内容と関連します。10節にこうあります。

「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」。

わかりにくい表現が使われているかもしれませんが、ここでまず、

「時が満ち、救いの業が完成する」と言われています。

そして「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」とあります。

この部分の原文には、「一つ」という言葉はありません。「キリストの支配に置かれる」、「キリストのもとにまとめられる」という意味で、日本語に翻訳するさいに、「まとめられる」ということは「ひとつにされる」ということだという理解し、「一つ」という言葉を補ったものと考えられます。

いずれにせよ、この部分から明らかになることは、「キリストの救いの業が完成し、キリストがあらゆるものを支配するようになる‥‥という秘めらていた神の計画」こそが、明らかにされたということです。そしてそのことが明らかになるように、「知恵と理解」が与えられたということです。

キリストにより救いのわざが完成することになります。それはまだこの世界では明らかになってはいません。多くの人たちはそのことを認めていません。また実際に戦争があったり、暴力が蔓延していたり、憎しみ合いが生じたりするのがこの世界です。でもそういう計画があり、キリストがすべてを支配し、救いの業を完成させるということを、神さまはすでに私たちに知らせてくださったのです。

真理の言葉、救いをもたらす福音

このことは、さらにこの箇所を読み進めていくと明らかになることですが、ていねいに説明していくと時間がかかるので、13節を読んでみたいと思います。ここにこうあります。

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。

前半に語られていることは、今までの部分と同じ内容です。

手紙の著者は、「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞いて、それを信じたはずだ」と相手に同意を求めています。ここに「キリストにおいて」とあるのに注意する必要があります。

ただ単に、キリストから真理の言葉、救いをもたらす福音を聞いたということではなく、キリストの言葉、そのわざ、その存在を通して、真理の言葉に触れ、救いをもたらす福音を受け取ることができた‥‥ということです。その内容は、「時が満ちるに及んで、キリストの救いの業が完成し、キリストがあらゆるものを支配するようになる」というという神の計画です。救いについての神の計画が、キリストによって、決定的な仕方で、私たちにすでに伝えられているとこの箇所は語っています。

そうは言っても、この世はまだ完成していません。完成していないどころか、悪や不法がはびこっています。人間の生命が軽んじられています。愛が冷えてしまっています。自分のことしか考えない、あるいは人のことを考えるにしても、常に、自分を優先させ、自分の都合のよいように考える人がたくさんいます。ともに生きることができないので、多くの人たちが孤独においやられ、孤立しています。孤立した人は、ますます自己中心的になり、深みにはまり込んでいきます。

この世では、まだ神の計画は秘められたままです。でもキリストにおいて、私たちは真理の言葉、救いをもたらす福音を聞くことができるのです。それを信じて歩むことができるのです。13節の後半で、この手紙の著者は、まさにそのことが確かなことであると聖霊が保証してくれると書いています。聖霊の力が私たちにそそがれ、それが確かであると知ることができるようになります。そして聖霊の力が、キリストの言葉が、真実であることを明らかにしてくれるのです。

「キリストにおいて」=「人となり苦難の道を歩んだイエスにおいて」

さて、私たちはどこで、このキリストに出会い、どこでキリストの真理の言葉に触れ、福音を受けることができるのでしょうか。

聖書が私たちに明らかにしていることは、私たちは、ナザレ人イエスにおいて、神の救いのわざを見いだし、イエスの言葉とわざによって、救いをもたらす神の計画について確証を得ることができるということです。秘められた神の計画を、私たちは、イエスから学ぶことができます。だからこの世に闇の力が蔓延していても、イエスの言葉と力にふれることによって、私たちは、神の計画を知り、希望をもって歩むことができるようになるのです。

私たちは、神さまとどこで接点を持とうとするのでしょうか。私たちが接点を持つことができるのは、神と出会うことができるのは、イエスを通して以外にはあり得ません。

その時に忘れてはならないのは、イエスがこの地上で「苦難の道」を歩んだということです。そして「十字架にかけられた」ということです。イエスは、この世で、王宮で生まれたのではなく、この世的な権威のある場所で活動したのでもありませんでした。また神殿で生まれ、聖なる場所で活動したのでもありませんでした。

そのイエスは、まさにこの世の中で、多くの苦しむ人と接点を持ち、苦しむ人たちとともに歩み、十字架への道をたどったのです。

それ故私たちは、神さまと出会うために、神さまの秘められた計画を知るために、私たちは、超越的な力を身につけ、この世から離れ、神のもとに近づく必要はありません。そもそもそのようなことはできないことです。私たちが神と出会うために高みに向かうのではなく、神さまが私たちと出会うために私たちに近づいて来られることを知り、まさにこの世の神さまの力が及ぶその場所で、神さまと出会うことを求めるべきです。

神さまは、私たちを苦しみの中から、困難の中から救いだそうとして、苦しみの道を歩みました。だからこそ、私たちは苦しみを担いつつ生きるまさにその場所で、神に出会うことができるのです。

イエスは、この世で重荷や苦しみを負う人たちとともに歩みました。私たちはまさに人々が重荷を負い、苦しみを担うところで、飼い主のいない羊が疲れ、倒れているところで、イエスに出会うことになります。聖書の言葉は、神の言葉がこの世と接点をもつところで、まさに苦しむ人がいやされ、人々が平和を求新たな一歩を歩み出すところで明らかにされるのです。そこで、キリストの救いのわざに触れることができるのです。そこで私たちは神に出会うのです。

祈ります。
神さま、この世は苦難で満ちています。
私たちは人々が苦しむ世界の中で生きています。
あなたの計画はこの世の多くの人たちにはまだ秘められたままです。
しかしあなたは救いの業を完成させ、
あらゆるものをキリストのもとに置かれようとしています。
あなたの救いのわざにふれることができますように。
苦難に満ちたこの世のただ中であなたを見いだすことができますように。
聖霊の力に導かれ、あなたが苦難の中にあっても働かれ、
あなたがこの世の現実を変革し、あなたが人々の平安を与える方であることを
確信することができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン


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