I
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(13節)――この聖句は、さまざまな試練の中にある人々を励ましてきました。
東日本大震災の後、すぐにこの箇所を思い出しました。前後とあわせて読んだとき、それが偶像礼拝を避けよという勧告の文脈に現れるので、不思議に思いました。地震や津波は自然災害です。それが偶像礼拝という人の過ちと、どう関係するのでしょうか。またそのことが、なぜ遠い昔のイスラエル民族の記憶、彼らがエジプトを脱出したときの記憶に結びつけて言われるのでしょう。さらにこの聖句の翻訳が、必ずしも原文に忠実なものとは言えないことにも気づきました。
II
パウロはまず、イスラエル民族が荒れ野で経験した二つのエピソードをとりあげて、洗礼と聖餐という原始キリスト教に固有な宗教儀礼の視点から解釈しています。
「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた」(1-2節)――「雲」は神が現臨するしるし(出エジプト記13,21以下)、他方で「海の中」とは、有名な葦の海の奇跡をさします(出エジプト記 14章)。民族はこの奇跡を通して、神とそのしもべモーセを信じました(同14,31)。雲も水もどちらも「水」に関係しますので、そのことにつなげてパウロは、それは「モーセへの洗礼」であったのだと言います。しかしユダヤ教には、「モーセへの洗礼」という表現は存在しません。キリスト教が行う「イエスへの洗礼」に倣った造語だろうと思います。
続いて「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」(3-4節)とある、その「食べ物」とは「天からのパン」と呼ばれるマナの奇跡を(出エジプト記16章)、そして「飲み物」とは荒れ野で「水」が出たという奇跡(同17章)をそれぞれ受けています。なお、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでした」(4節)という奇妙な発言は、出エジプト記17章の「水」の奇跡と、民数記20章の「岩」から水が溢れたという二つの奇跡が、後のユダヤ教の中で同一視され、後者の岩が初めから前者の奇跡にも参加した、だから岩は放浪する民族の後をついて歩いた、という面白い解釈が生まれたからです。
そしてパウロは、かつてのイスラエル民族が荒れ野で食べたパンと飲んだ水が、ともに「霊的」であった、「この岩こそキリストだった」と言います。要するにパウロは、荒れ野でイスラエル民族は聖餐に与ったと言いたいのです。これは、もちろん時代錯誤です。しかし言わんとすることは明らかです。つまり、かつてのイスラエル民族にも、今の自分たちと同じ「霊的」起源をもつ「救いの条件」が与えられていたのだ、と彼は言いたいのです。――「しかし彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまった」(5節)。なぜなのでしょうか?
III
「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」(6節)――荒れ野を放浪した民の大部分が滅んだのは、彼らの中に「悪をむさぼる」者がいたからだ、というのがパウロの答えです。そして、いくつかの事例が列挙されます(7-10節)。共通しているのは、〈かつて私たちの祖先が荒れ野で〜であったように、君たちは今〜であってはならない〉というパターンです。
「悪をむさぼる」(6節)という表現が何を意味するか正確には分かりません。例えば、荒れ野の民は先に言及したマナに飽きて、「肉」を食べたいとモーセに食ってかかったことがあります(民数記11,4以下)。これなど、「むさぼる」の一例かも知れません。
「偶像を礼拝してはいけない」(7節)という勧告は、「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」という引用からも明らかなように、黄金の子牛を拝んだという伝説を受けています(出エジプト記32,1以下)。元来は牛を「神」の台座と見なし、その上に神が現臨(ないし降臨)すると信じて、宗教祭儀を行ったのだと思われます。しかし後にこの事件は――指導者モーセの長期不在が原因で、民が不安にかられたという動機づけとともに――神ならぬものに救いを求める偶像礼拝の原型と見なされるようになりました。偶像礼拝に屈した者たちは、民のもとに帰ってきたモーセの命令により、殺されてしまいました。
さらに「淫らなこと」のゆえに「2万3千人」が死んだ(8節)とあるのは、異民族女性との淫行に結びついたバアル神崇拝のできごとを受けています(民数記25章)。夥しい死者数と言わなければなりません。
同様に、「蛇に噛まれて死んだ」(9節)とは、放浪生活に耐えきれなくなった民が、神とモーセに逆らったことに対する懲罰のエピソードをさします(民数記21,4以下)。反逆する民に向かって、神は「炎の蛇」を送り、それが多くの死をもたらしました。
最後に「不平を言う者がいた」(10節)に至っては該当箇所があまりに多く、もはや正確にどのエピソードと特定することができません。彼らを滅ぼした「滅ぼす者」とは、おそらく殺戮の天使のことです(例えば出エジプト記12,23、民数記17章など)。
――以上に列挙されたできごとは、何れも大量死と結びついたエピソードです。そしてその原因は、例えば肉を食べたいという人間の欲望、金の子牛を神として拝むという不安ゆえの自己保全への逃避、豊穣の神バアルの崇拝と性的所有欲という高ぶり、現状への不平不満でした。これらを総括してパウロは、「悪をむさぼる」(原義は「悪しきことごとを貪欲に欲する」)と呼んでいるわけです。
IV
こうした民族の記憶に残る大量死事件は、現在の「わたしたちが悪をむさぼることのない」ための「前例」であり(6節)、「時の終わりに直面しているわたしたちに警告するため」であった(11節)、とパウロは言います。
過去の不幸なできごとを現在の教訓ないし反面教師と見なすという姿勢は、今でもあります。ここでもそうなのでしょうか。では、なぜパウロはエジプト脱出という大昔の奇跡を指して、それは「霊的」な洗礼と聖餐であるとか、荒れ野の放浪における神への反逆が「キリストを試みる」ことであるなど、わざと過去と現在を混同したような言い方をするのでしょうか。かつてイスラエル民族が経験した救いと滅びは、過去の「前例」というには、キリストのもとで生きることと生々しいほどに〈二重写し〉です。
じつは新共同訳聖書で「前例」と訳されたギリシア語「トュポス」は、もともと「型」「類型」という意味で(英語の「タイプ」の語源です)、語そのものに「前例」という時間的な意味はありません。
さらに、「時の終わりに直面している」とある箇所を直訳すると、「諸時代の諸終わりが私たちへと到達した」になります。通常は、ある「時代」に「終わり」が来て、次の時代が始まり、やがてそれも終わる。それが繰り返されて、やがて世の終わりに至ると考えられています。「時の終わり」という訳語も、そう理解したのだと思います。しかし「諸時代」という表現を「過ぎ行く世」と「来るべき世」という二つの時代の意味に、また複数の「終わり」という表現を、それぞれの時代の「先っぽ/先端」という意味にとれば、悪への欲望に支配された「過ぎゆくべき今の世の先端(終わり)」と、キリストによって規定された「来るべき新しい世の先端(始まり)」が、共に私たちのもとに到達した。つまり今の時は、過去と未来に〈板ばさみ〉になった時である、という理解が可能になります。
そのように理解すれば、過去と未来は今を軸にして互いに映し合う、浸透しあう場所になります。エジプト脱出という民族的な過去は、決して現在から遠く離れた「前例」などではなく、むしろ「型」「タイプ」として、現在においても十分に対応物をもちうるのです。だからこそパウロは、出エジプトのできごとの中に洗礼や聖餐を、またキリストを見出すこともできるし、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(12節)と言うこともできるのです――今の私たちには、建物の耐震強度の話のように聞こえて仕方がありませんけれど!
V
最後に「逃れる道」について考えてみましょう。
じっさい巨大津波から逃げることができたか、そうでなかったかは、人々の生死を分けました。原発事故にさいしては逃げることのできた人、そうできなかった人、また逃げることを強制された人たちがいます。まず事故の後、三日と空けずに大量の外国人が日本を脱出しました。他方で、いくら原発の近くであっても、先祖代々の土地に田畑や家畜とともに住んでおられる方たちは、生活の基盤を放棄することなどできようはずもありません。多くの外国人も同様です。しかしながら放射線量があまりに多い地域に住む人々は、場合によっては行方不明の身内を探すこともできぬまま、強制的に退避することになりました。 さらに現在は、子どもたちが日常生活の中で、大量の線量を浴びる危険が現実となりました。
新共同訳聖書は、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかった」と言います。神は試練を与えるけれども、うまく手加減を加えてくれるという理解だと思います。しかしギリシア語原典の意味合いは違います。「人間的でない試練が君たちを襲ったことはない」。もっとはっきり言えば、「君たちを捕えた試練は、すべて人によるものであった」。つまり神が試練をもたらすのではない。人がその原因を作るのだ、という意味です。
たしかに人間の欲望、高ぶり、そして不注意が差別や戦争や事故を引き起こし、それが多くの人に、あらずもがなの試練を引き起こしています。パウロが荒れ野の放浪の民族伝説から引く事例も、すべて一部の人々の「むさぼり」に関係していました。原発事故もまた、「想定外の大津波」という空々しい言い訳からも明らかなように、明らかに人災です。
しかし地震や津波はどうでしょうか? それは人間が引き起こしたものではありません。だから誰かを恨むことすらできない。私たちの眼前にあるのは、安易な人間的意味づけを拒絶する、無意味で不条理な大量死です。
かつて関東大震災に際して、無教会派のキリスト者である内村鑑三は、無辜の犠牲者たちについて、それは当時の堕落した日本人に悔悛を迫るための「贖罪の死」である、という理解を公表しました。私たちは、安易に「犠牲」や「贖罪」について語ることは許されません。亡くなった人々が悪人だったので、彼らに「神罰が下った」という意味に、すぐに誤解されるからです。それは違います。亡くなられたのは、まったくの無辜の民です。彼らが死んでよい理由などありませんでした。
それでも聖書の伝統は、自然災害をも「人の罪」との関連で理解してきました。ノアの洪水伝説の冒頭には、人間の暴虐が地に満ちたために、神はこの世界を滅ぼそうと決心したとあります(創世記6章)。しかも洪水が始まるとき、「この日、大いなる深淵の源がことごとく避け、天の窓が開かれた」とあります(創世記7,11)。「深淵の源が避けた」という表現は、おそらく荒れ狂う太古の海、したがって大津波をも含むようです。ユダヤ教黙示思想には、「人の罪」が自然界の秩序を狂わせてしまうという考えがあります。大量の放射性物質の自然界への放出は、「人の罪」以外のいったい何ものでしょうか?
パウロは、神が「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えて」下さるといいます。「逃れる道」と訳されたのは、正確には「出口」という意味の語(ギリシア語「エクバシス」)です。大きな試練が私たちを襲うとき、それを「逃れる」ことなど誰にもできません。生きているそれぞれの場所で、それぞれの仕方で巻き込まれる他ありません。私たちは今、放射能とともに生きる覚悟を固めるべきなのです。
私たちにできるのはその中をそれぞれの仕方で、しかしいっしょに通り抜けて、いつか「出口」に到達することだけです。その出口、脱出口を神は必ず作ってくださる。これが私たちの希望です。