2011.5.1

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「先立ち行く主」

村椿 嘉信

詩編138,6-8; ヨハネによる福音書20,24-29

テキスト(旧約):詩編138,6-8

 主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。
 わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
 主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。

テキスト(新約):ヨハネによる福音書20,24-29

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

閉ざされた戸

先ほどお読みしましたヨハネによる福音書20章24節以下には、イエスの復活後の最初の日曜日の様子が描かれています。26節に、「さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあった」と書かれています。「また(!)家の中にいた」と書かれているのは、イエスが復活した1週間前の「週の初めの日」つまり「日曜日」にも、弟子たちが、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたからです。19節には、弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と記されています。1週間前と同じように、弟子たちは家に集まり、鍵をかけたのです。そしてこのことから、この1週間、ずっと人目を避け、ひっそりと、隠れるように過ごしてきたと想像することができます。そして1週間後に、誰にも気づかれないように集まり、そして戸に鍵をかけたものと思われます。「ユダヤ人を恐れて」と書かれていますが、けっしてすべてのユダヤ人を恐れていたということではなく、イエスを捕らえ、十字架にかけた人たちを恐れて‥‥という意味です。イエスの場合のように、弟子たちは、自分たちにも危害が加えられるのではないか、自分たちも捕らえられ、処刑されるのではないかと恐れたのです。

さて、イエスが復活した日曜日の夕方、弟子たちは戸に鍵をかけて家の中に閉じこもっていました。するとそこへイエスが現れ、弟子たちのまん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言いました。それから1週間たって、弟子たちは再び集まりましたが、その時にも、戸に鍵をかけて家の中に閉じこもったのです。

1週間前には、弟子のトマスはいませんでした。トマスは、イエスが復活したと聞いても信じませんでした。そして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と主張しました。トマスは、イエスの復活を信じることができないばかりか、イエスがよみがえったと伝える弟子たちの言葉を信じることができませんでした。

一方、他の弟子たちは、トマスを説得することができませんでした。「自分の目で、自分の手で、確かめるまでは、決して信じない」と主張するトマスを説得できないばかりか、トマスによって、他の弟子たちの心の中にも、疑いが生じて始めていたのかも知れません。

いずれにせよ、2回にわたって、弟子たちが戸に鍵をかけて家の中に閉じこもっていたことが強調されています。「家の中に閉じこもる」とは、安全地帯にいることを意味します。また安らぎ満ちた、くつろげる場所にいることを意味します。弟子たちは、戸を鍵で閉ざした家の中でつかの間の平和を味わっていたのです。家の中でくつろいでいたのです。でも閉ざされた家の中でしか、心を落ち着かせることができないということは、本当の安らぎを、本当の平和を得ていなかったということを意味します。弟子たちは、目前の危機から何とか逃れようと、あれこれ画策し、鍵をかけた家の中で束の間の平安を得ていたのです。

イエスが現れる

そのような弟子たちのところに、復活したイエスが、2度までも現れたとヨハネによる福音書に書かれています。そして2度までも、「あなたがたに平和があるように」と語りました。

ところが弟子たちは、すでに述べたように、2度までも、誰も入ってくることができないように、自分たちがそこに集まっていることがわからないように、戸に鍵をかけて家の中に閉じこもっていました。鍵をかけて閉ざすということは、自分たちに危害をもたらす敵対者たちが入って来られないようにするということですが、同時に、自分たちの仲間も、何よりも自分たちの主も入って来られなくしてしまうということです。弟子たちはイエスに対しても、戸を閉ざしてしまったのです。

でもこの時は、戸が閉ざされていたにもかかわらず、イエスのほうから家の中に入ってきました。そして弟子たちのまん中に立ちました。そして「あなたがたに平和があるように、平安があるように」と語りました。

イエスはユダヤ人の挨拶の言葉をここで語りました。シャロームという挨拶の言葉です。シャロームには、戦争とは対局に立つ社会的な「平和」という意味と、心の中が安心して落ち着いていられるという意味、精神的な「平安」という意味があります。日本語で、「平和」と訳すべきか、「平安」と訳すべきか、私も常に迷います。どちらか一つの訳語をとると、どうしても一面しか表現されていないようで、内容が伝わるか不安になります。

シャロームは、確かに日常的な挨拶の言葉ですが、この時は、復活したイエスが戸が閉ざされていたにもかかわらず、家の中に入ってきて、弟子たちとともに存在し「あなたがたに平和があるように」とかたりました。この言葉はいつもの挨拶とは違う意味をもつことになります。

「あなたがたに平和があるように」という言葉は、ここでは、人間の苦しみを背負い、十字架にかけられ、復活したイエスが、あなたがたとともにいて、平和を、平安をもたらすという意味です。十字架にかけられたにもかかわらず平和と平安に満ちた方が、危機的な状況の中にいる私たちに平和を、平安を与えてくれるということです。

イエスが先立ち行く

ここで、イエスがわたしたちとともにいるということが、現実にどういうことなのかが示されています。私たちは、ここでまず、私たちも弟子たちのようにふるまっているのではないかと考えてみなければなりません。

弟子たちは、神さまがともにいてくださる、自分たちの主がともにいてくれるということをイエスから学び、またそのことを体験してきたはずですが、鍵をかけてしまいました。危機的な状況の中で、弟子たちは戸に鍵をかけ、家の中に閉じこもり、そこに安心を見いだそうとしました。このような考え方、生き方は、私たちの日常の中にもあります。また政治的なことがらの中にも存在します。ローマ帝国の時代には、防衛線という境界線を設定し、その内部にいわゆるローマの平和と呼ばれる状況を維持しようとしました。同盟国という考え方も、ひとつの境界線を設け、その内部に平和で安心して暮らすことのできる状況を維持していこうというものです。

しっかりした家の中に閉じこもり、しっかりと鍵をかけておけば、世界中で何が起ころうと自分たちは安心していられると私たちも考えることがあるのではないでしょうか。それこそ水や食料を自分の家に蓄えておけば、安心だという考えと似ています。危険に関わらなければ、危険が身に及ぶことはないと、私たちは考えます。しかし、戸を閉ざせば、ともに助け合うことはできなくなるし、自分を助けようと手をさしのべてくれる人を拒絶することになります。主イエスに対しても、鍵をかけてしまうことになります。

でも、主なる神は、そして主イエスは、その戸を乗り越えてまでも私たちのところに来られます。

イエスがともにいるということは、主みずからが、私たちのところに来てくれることによって、主が平和を築き、平安をもたらしてくれるということです。つまり私たちは安心を手にいれようとして、安全地帯に閉じこもろうとしますが、そこは決して安心できる場所ではありません。イエスみずからが私たちとともにいようとして、私たちのところに入ってきて、私たちのまん中に立ってくださるからこそ、私たちは安心ともにいることができるのです。

今日はこの説教に「先立ち行く主」という題をつけました。それは、主が私たちよりも一歩、先に行動を起こし、私たちに働きかけてくれる方であることを覚えたかったからです。主が先立って歩まれるからこそ、私たちは主から平安を得て、安心してともに歩むことができるのです。

信じなさい

さてトマスは、イエスの復活をすぐに信じることができませんでした。トマスは、イエスが復活した日曜日には、他の弟子たちとともに行動しませんでした。トマスは、イエスが捕らえられ、十字架にかけられたと聞いて、自分にも危害が加わえられるのを恐れ、弟子たちと行動をともにすることを避けたのかもしれません。その意味では、イエスを信じることができず、イエスを見捨て、弟子たちも信じることができず、弟子たちも見捨て、ひとりでどこかに隠れていたのかもしれません。最後に頼りになるのは自分だけだ。捕らえられたら、弟子たちに対しても「知らない」と言おうと心に決め、一人で逃避行することを考えたのかもしれません。「逃避行」とは、ひとりで世間の目を避け、各地を移り歩いたり、人目につかない所に隠れ住んだりすることを意味する言葉です。

まさに自分自身の目や手足しか、自分ひとりしか信頼できないと考えたのがトマスでした。そのトマスに、イエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです。

イエスはこの時、トマスに「自分しか信じられない」と考えるのではなく、「仲間の弟子たちを信頼しなさい。神さまを信頼しなさい。そのためにも、まず私を信頼しなさい」と語ろうとしたのではないでしょうか。もちろんこれは、弟子たちにも語りたかったことでした。

イエスはトマスに一人で逃避行をするのをやめなさい、戸に鍵をかけて家の中に閉じこもるのをやめなさいと語ろうとしたのです。そして、「戸を開きなさい。戸を開けば、この世の危険が、さまざまな誘惑が、戸口から入ってくるかもしれません。でも、助けを求めてやってくる人たちも来ます。助けをもたらそうとする人たちも来ます。戸口を開いて、たとえ危険が迫ろうとも、そこには私がいます。私はあなたがたとともにいます。私があなたがたに平安を与えます。私があなたがたを平和にします。だから恐れることはやめなさい」とイエスは語ろうとしたのです。イエスは、イエスが復活してともにいてるところでは、もはや恐怖も危険も絶望も存在しないということを信じなさいと語ったのです。イエスのもとでこそ、私たちは安心して、心を落ち着かせて、平和に歩むことができます。私たちはイエスのもとでこそ、信頼し合い、ともに歩むことができます。そのような歩みを続けていきましょう。

祈り

天の主なる神さま、
主イエスが私たちところへきてくださり、
私たちに平和があるようにと、平安があるようにと語り、
私たちとともにいてくださることを感謝します。
あなたの見守りのうちで、私たちは、安心し、ともにいることができます。
あなたの力に支えられて、私たちは、不安も、恐れもありません。
どうかあなたのもとで、平和への道を歩ませてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン

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