2011.4.17

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「裏切り」

廣石 望

イザヤ書24,17-23; マタイによる福音書26,36-46

I

 キリスト教会の暦で、今週は受難週に当たります。今日の日曜日は、イエスのエルサレム入城にちなんで「棕櫚の主日」と呼ばれます。そして金曜日がキリストが十字架にかけられた受苦日。来週日曜日は復活祭主日です。

 受難節ら復活節への転換は、春の訪れを告げるこの季節にあって、悲しみから喜びへの転換です。いつものような喜ばしい春であるなら、どんなによかったことでしょう。しかし今年は、大震災に伴うあまりに大きな悲嘆のために、喜びを探すのが容易でありません。それでも桜の花は咲いています。テレビで、大津波で廃墟と化した陸前高田の町を見下ろす高台にある、神社の境内のようすが放映されていました。桜の花の下で、生き残った方たちが太鼓を打ち鳴らし、町の復興を誓って酒を酌み交わす姿です。これが、私たちの国の今年の春の祝い方なのだと思いました。

II

 受難週の大きな主題のひとつに「裏切り」があります。弟子たちが皆、イエスを捨てて逃げ去ったという物語は、イエスに従おうとするすべての人々に問いを突きつけます。先ほど朗読したゲッセマネの物語の結びで、イエスは「見よ、私を裏切る者が来た」と言います。この箇所を読むたびに、「あぁ、自分のことだ」と思ってしまいます。

 今回の大震災に連動して起きた原発事故では、いわゆる原発の安全神話が偽りであったことが明らかになりました。どんな災害が来てもだいじょうぶと言われていたのが、いつの間にか食品の安全基準や現場作業員の被曝線量の規準が引き上げられ、今ではどんなに放射性物質が流出しても、健康被害との因果関係は証明されていないので気にするな、と言わんばかりの論調に変わりました。「絶対に漏れないから安全だ」と言われていたのが、「どんなに漏れても安全だ」に変わったのです。ひどい話です。他方、原発に隣接する地域は、高濃度の汚染のせいで退去を余儀なくされそうです。該当する地域に暮らす人々の苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあります。詳細な真実がどうあれ、「裏切られた」という気持ちが拭えません。

イエスの弟子たちの裏切りは、「逃げる」というかたちで実現しました。巨大津波にさいしても、逃げ切れた人とそうでなかった人の間で運命が分かれました。生き残った方たちには、〈自分が見棄てなければあの人は助かったのに〉という後悔の念に苛まれる人がおられます。

原発事故にさいしても、「逃げる」か否かの一点で、多くの人々が異なった態度をとりました。事故直後の原発で電力会社の職員たちは、当初は全員退避を申し出たけれども政府の指示で留まったと聞きました。一部の外国人や企業ないし大使館は早々に日本を脱出するか、指揮系統を一時的に関西圏に退避させました。余震が続く首都圏からも、家族や子どもを圏外に逃がした人々がいます。これらは、まったく理解できる行動です。他方で、放射能汚染などまったく気にしない人たちがいる一方で、逃げようにも逃げられない人たちがいます。退避圏内に自宅がある方たちは、おそらく毎晩、どうすべきかをめぐって家族会議を続けておられるでしょう。警察の検問をかいくぐり何度も町に戻る方たちもおられるとか。逃げるか否かで、私たちは引き裂かれたのです。

福音書のイエスの受難物語にある裏切りと逃亡のモチーフは、今回の震災にさいして非常に緊張感に満ちた仕方で、私たちの日常世界の只中に出現しました。

III

イエスの受難物語で「裏切り者」と言えば、イスカリオテのユダと相場は決まっています。

「裏切る」と訳されたギリシア語は、その他の場所で「引き渡す」と訳されるのと同じ単語(パラディドーミ)です。ゲッセマネの物語も、このモチーフで前後を囲まれています。イエスは「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(26,2)と預言し、ユダは祭司長たちに「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(15節)と尋ね、過越の食事式のイエスは「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」(21節)と告げ、ゲッセマネの物語の後には、「イエスを裏切ろうとしていたユダ」(48節)がイエスに接吻します。私たちの物語の最後で、イエスが「人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう、見よ、私を裏切る者がきた」(45-46節)と言うとき、「引き渡す」と「裏切る」は同じ動詞です。「見よ、私を引き渡す者が来た」。

キリスト教は、イエスを裏切ったユダをたいへん悪しざまに扱ってきました。マルコ福音書を増補改訂して自らの福音書を書いたマタイとルカが、それぞれ別の仕方で、ユダの不自然死について報告しています。マタイによればユダは首吊り自殺を(マタイ福音書27,3以下)、他方でルカによれば彼は転落死を遂げました(使徒言行録1,16以下)。ユダの死の時点は、マタイによればイエスに死刑判決が下るよりも前(マタイ27,11以下参照)、他方でルカによれば、イエスが復活顕現した後にエルサレムに集まった弟子たちが「十一人」と呼ばれていることから見て(ルカ24,33)、少なくともイエスの復活よりは前です。これらは等しく、裏切り者ユダには復活のイエスに出会うチャンスは決して与えられない、彼の罪は絶対に許されない、という原始キリスト教内部で生まれたユダ理解を反映しているように感じます。

後代のキリスト教も、ユダを悪しざまに描くことを止めませんでした。紀元2世紀の小アジア・ヒエラポリスの司教であったアポリナリオスの、次のような言葉が伝えられています。

ユダは不信仰の代表的見本として、この世で生を送った。彼の肉体は大層ふくれあがったので、車が容易に通り抜けるところを、彼は、それもその頭すらも、通り抜けることができないほどであった。彼の日のまぶたは大変はれあがったので、彼は光を全く見ることができず、また医者が器具を使って彼の目を見ることもできないほどであったという。それ(=目)は(彼の身体の)外表からこんなにも深く(おちこんで)いたのである。彼の恥部はあらゆる恥ずべきものよりも不愉快、かつ大きく見えた。そして、それを通して身体中から流れ集まる体液とうじ虫とが、ただ(身体の)必要性によって運び(出され)て、恥ずべき有様(となっていた)。3彼は多くの責苦と(罪に対する)むくいと(をうけた)後で、自分自身の地所で死んだといわれる。その土地は(彼の)においのゆえに、今に至るまで荒れていて、人が住まない。また今日に至るまで誰も、鼻を手でふさがないでは、そのところを通りすぎることもできない。彼の肉を通して、地上で、このような流出が起こったのであった。(『パピアス断片』より、佐竹明訳)

 この言葉は、正統派キリスト教が「裏切り者」ユダに向けた、グロテスク極まりない憎悪の証言です。他の弟子たちも皆イエスを棄てて逃げたにもかかわらず。このユダ憎悪は、やがてユダヤ人全般に拡大され、反セム主義・反ユダヤ主義を何世紀にも亘って支え続けました。自分たちの内部にある負の感情をユダとユダヤ人に向けて外化することで、自分たちもまた主イエスを裏切ったことの重み、そしてその自覚をなるだけ回避しようとしてきたキリスト教の歴史が、ここにあります。教会がユダの姿に自らを再発見するようになったのはようやく20世紀、しかもホロコーストの巨大な犠牲を払った後のことでした。

IV

 ゲッセマネの物語に戻りましょう。イエスはつごう三度、弟子たちから離れて一人で祈りますが、戻ってくるたびに弟子たちが眠っているのを見つけます。彼が「うつ伏せ」で祈ったとあるのは(39節)、額を地面にこすり付けて祈ったという意味です。

 二度引用された祈りの前半で、イエスは最初は「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と(39節)、二度目には「私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら」(42節)と言います。そして後半では「しかし私の願いどおりではなく、御心のままに」、また「あなたの御心が行われますように」と祈ります。イエスの言う「杯」が何を意味するのか、よくは分かりません。彼が「過ぎ去らせて」ほしいと願ったのが、死の運命であるのか、あるいは意味のない死であったのか詳細は不明です。何れにせよ私たちは、多くの無辜の民の不条理の死を目の前にしています。そのとき「あなたの御心」とは、いったい何を意味するでしょうか。

 いや、そのような問いを立てる以前に、私自身がこの物語の弟子たちのように眠りこけていました。被災地で多くの方々が生き残りをかけて闘っておられた、多くの方々が救援に駆けつけようとしていたそのとき、余震と計画停電の続く都内で、衝撃と極度の緊張の谷間で疲れ果てて。イエスは、「私と共に目を覚ましていなさい」(37節)と命じられたと言うのに。

最後に、パウロの言葉を引用したいと思います。彼はこう言います(コリントの信徒への手紙一10,13)。

君たちを、人間的でない試練が襲ったことはなかった。しかし神は真実である。君たちの能力を超える試練に君たちが遭うことを、彼はお許しにならないだろう。むしろ試練とともに、君たちがそれを持ちこたえることができるよう、出口をも作ってくださるだろう。(私訳)

 幾つかの邦訳は、「出口」とある箇所を「逃れる道」と訳します。しかし原語は「出口」(エクバシス)です。試練は私たちを等しく襲い、その中にある者たちに試練を「逃れる道」はないのです。それでも神は、出口を用意してくださる。その出口に到達するまで、私たちは小さな力を集めて、ともに「持ちこたえたい」と願います。 


礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる